第一部

第1話 もう限界だ

 <犬飼竜太郎>



 俺、犬飼いぬかい竜太郎りゅうたろうは項垂れていた。

 ぐるぐると頭の中をネガティブな感情が這いずり回り、声が漏れる。


「もう限界だ。仕事も辞める。どこか田舎に行って職人とかになりたい。もうスマホは見たくない。これ以上仕事を続けると電磁波に脳がやられる。いやもうやられてるかもしれない」

「……落ち着け竜太郎。これまで何度も乗り越えてきたじゃないか」


 先輩である高橋さんが隣に座って声をかけてきた。

 俺と違って複数のアイドルを担当し、今日もかなりの業務をこなした上でケロッとしている体育会出身の頼もしい人だ。

 俺を労わって肩に置かれた手も、細身の俺と違って大きく力強さを感じる。


「高橋さん……。でも俺にはもう無理です」

氷ヶ峰ひょうがみねはそこまで大変なのか」

「大変なんてもんじゃ無いですよ」


 俯いていた顔をガバっと上げて上目遣いで高橋さんを見る。


「今日も朝から彼女を迎えに行ったんですけど」

「あ、ああ」

「『三十分遅い。仕事ナメてるの?』って……。冷たい目で、それだけ言って黙るんですよ。現場までずっと!」

「お、おお」

「確かにね、彼女の希望時間より遅れたのは俺の責任です。けどね、スケジュール的には間に合うんですよ。それは一番俺が分かってます。あいつの指定ですべての動きを組んでるのは俺ですからね。大体それもおかしいんですよ。何で一介のマネージャーの俺が一から百まで全部……。それのせいで編集から振り付けから何から何まで……」

「りゅ、竜太郎、お前は頑張ってるよ」


 高橋さんの腕を思わず取る。


「俺、頑張ってますよね! あらゆる方面のパワハラに耐えて週六で睡眠時間四時間未満の上、休日もプライベートゼロで!」

「頑張ってる頑張ってる」


 涙が出てきた。高橋さん。俺の労を分かってくれる。


「高橋さん……」


 高橋さんのアメフト仕込みの分厚い胸板が途端に魅力的に見えてきた。

 抱かれたいってこういうこと?


「やめろ。なんだその目は。とりあえず俺はお前が辞めたら寂しいからな。


 はまだ取っておけ。先輩命令だ」


 高橋さんは机に置かれた紙を指差す。

 俺の涙に濡れた退を────。



 ーーーーーー☆彡



 午前零時、六畳一間のワンルームに帰宅し、シャワーを浴びる。

 のろのろとスーパーで買った半額弁当をレンチンする。

 高校時代は自炊も楽しんでいたが、二十歳の今、めっきり機会が減ってしまった。

 お気に入りの食器や料理道具たちは棚の奥に追いやられている。

 今は百均で買った大量の割りばしと紙コップを使っている。楽だから。

 死んだ目でSNSをチェックしながら髪を乾かす。

 仕事上、流行は常に気にしている。


「お風呂キャンセル界隈……なんだこれ」


 風呂に入れない若者の話らしい。少し調べると専門家の見解のページが出てきた。

【これは安易に流行っていい言葉ではなく、風呂に入れないというのは実際のうつ病の典型的な症状の一つであり……】


「うつ病って……。お、俺はシャワー浴びたからセーフだよな」


 乾いた笑いを零しながら、もう何も見たくないとスマホを置く。

 ゴムみたいな食感の唐揚げを噛んでいると、ゴリゴリと精神が削られていくのを感じた。

 喉を通りずらい咀嚼された物体を何とか嚥下した瞬間、スマホが光った。


 画面を覗き込み、水を一口飲んで、少し考えてからタップする。

 嫌でも出るしかない。

 習性だ。


「遅い。ワンコールで出なさいよ」

「……氷ヶ峰ひょうがみねさん。もう退勤してるんだ。RINEじゃダメなのか」

「ハッ。えらそうに。文句あるの?」


 あるに決まってる。

 何時だと思ってるんだ。どうせまた戦略考えろだのToutubeの編集が遅いだの、仕事の話だろ。明日にしろよ。だが言えない。俺はこいつの犬だから。


「……ありません」

「犬飼くん、Toutubeの編集チェックしたわ」

「ああ。ちゃんと納期に合わせて送ったぞ」

「あれ、全部ボツね。センスないわ」


 瞬間、頭の血管がブチ切れたかと思った。

 俺が何時間かけてやったと思ってる。リテイク四回目だぞ。

 今朝俺が遅刻したのだって寝ずに編集していたからだろうが。


「……聞いてるの? 修正点言っていくわよ。まず……」

「もういい」

「……は?」


 もう何も考えられない。

 スマホの電源を切り、ソファにうずくまって、気を失うように寝た。



 ーーーーーー☆彡



 翌日、強張る身体をほぐしながら部屋を見渡す。

 机の上には食べかけの弁当、ゴミ箱から溢れるペットボトル、床に落ちた衣服。

 もう無理だ、と思った。

 投げ捨てたカバンからのぞく紙を取り出す。

 退職届────。

 数時間寝ても気持ちは変わらなかった。

 気づいたら、その紙を握って、事務所に来ていた。

 時間の感覚がなかった。ここまでどうやって来たか記憶がない。


「おはようございます。チーフ、話が」

「ああ……犬飼か。どうした。いつにも増して髪がボサボサだが……」


 上司であるチーフマネの立夏りっかさんに向かって退職届を出そうとして────先客がいることに気づいた。

 おかしい、スケジュールでは今日は午後から稼働だった筈の彼女がいた。


 つまり、俺をここまで追い詰めた張本人、氷ヶ峰ひょうがみねがそこにいた。



「あら、犬飼くん。ちょうどいいわ。あなたも聞いて」


 美しく長い黒髪に包まれた小さすぎる顔が品のある口を開く。

 ネコ科を思わせる綺麗なアーモンド形の目を少し細めて言う。


「私、半年後に引退するから。引退して許嫁と結婚する」


「は?」



 ……はぁぁぁぁあああ!???











 ────────

 読んでくれたすべての方にLOVE!!!

 なるべく毎日更新がんばります。

 今日は二話更新します。


 やる鹿

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