この高層マンションは、近所でも結構建築反対運動が頻繁に行われていたらしい。

 たまに通りかかると、近隣の家の庭には反対運動の旗が大きくかけられていた。


「地元から日差しを奪う気か!」

「景観が悪くなる!」

「近所の治安が!」


 でも蓋を開けてみたら、かなり快適だったために、近所も黙ってしまったんだ。

 元々北側に建てられたマンションなため、日差しをものすごく遮ることはなかった。そもそも立地場所が立地場所だから、近所の花火が見えなくなったとか、そんなクレームもなかったし、夏場は日差しからマンションの影が守ってくれるから案外快適だ……まあ、冬通り過ぎるとき寒いのだけはネックだけれど、地元に住んでいる人以外は多分そこまで困っていない。

 元々マンションの上層階から覗きが横行するんじゃないかと危惧されていたけれど、少なくとも今の今までは、そんな治安の悪過ぎる話は聞いていない。だから多分大丈夫だったんだろうと、そう思うことにしている。

 それはさておき、普段見慣れているマンションとはいえ、中に入るのは初めてだ。

 私はキャンパスを持って、マンションの入口をうろうろとする。オートロックだから、正攻法では入れない。

 どうしよう……。そう思っていたら、「どうかしましたか?」とこちらを胡散臭い顔で見る人に声をかけられた。このマンションの管理組合の人らしく、つなぎを着てモップとバケツを持っていた。どうも今から掃除するらしい。

 私はキャンパスを見せた。


「あのう……このマンションの上のほうから落ちてきたんで……届けようかと思いまして。でも高過ぎて何階の誰なのかさっぱり……」

「あー……」


 マンションなんて、しかも高層マンションなんて、住んでいる人全員を把握なんてできないだろうと思っていたけれど、意外と管理人さんはすぐに教えてくれた。


「多分、如月きさらぎさん家でしょうね。近所からもクレームずっと来ているのに、すぐにキャンパスを外に捨てるから……危ないったらないです」

「え……しょっちゅう捨てるって……」

「どうも気難しい人でしてね。危ないですから、自分が持っていきますよ」


 そう言って管理人さんが手を差し出してくれたけれど。

 私は一瞬考えてから、キャンパスを抱き締め直した。

 もし普段の私だったら、怖くてそのまま引き返してしまっていたかもしれないけれど、一週間経ったらどうせリセットされるだとわかっていたら、どんな気難しい人なのか覗いてみたくなった。


「忠告ありがとうございます。それじゃあ何階の人ですか? 行ってみたいです」

「ええ……なら、せめてお名前教えてください。さすがになにかあってからじゃ目覚めが悪いです」

「ええと、相田あいだです」

「相田さんね。わかりました。如月さんは1502号室ですよ」

「ありがとうございます!」


 私は頭を下げて、管理人さんが掃除のために開けたオートロックを通過した。

 管理人さんはエレベーターが閉まるまで「本当になにかあったら言ってくださいよ!」と声をかけ続けてくれた。

 マンションの15階なんていうと、ファミリータイプのマンションはだいたいここが最上階のはずなのに。高層マンションだとちょうど半分くらいの高さになるんだな。私はそう思いながら、マンションのフロアを眺めた。

 もっと家が並んでいるのかと思いきや、15階にはなんと家が四つしかない。つまり一辺全部誰かの家。すごい大きさだ。

 私は感心しながら、1502号室のチャイムを鳴らした。

 返事がない。でもベランダ越しに人がいるのはわかっているから、これは居留守だろう。私は扉をドンドンと叩いた。


「すーみーまーせーんー。キャーンーパースー落ーちーてーまーしーたー」


 ドンドンドンドン叩きながら、声を上げる。

 駄目だな。居留守に加えて大声を上げていても、ちっとも出てきてくれない。そこまで考えて、私は気付いた。

 ……まさかと思うけれど、中で人、倒れてない?

 こんな高いマンションだったら、救急車呼んだとしても、エレベーター停まってたら来れないよね?

 私はさらにダンダンダンダン叩きはじめた。


「如月さん、如月さん! 本当に生きてますか!? 救急車とか呼んだほうがいいですかね!? 如月さん! 如月さん!」


 私がダンダン扉を叩いていたら、途中でドアがスルリと開いて私は鼻の頭をぶつけた。痛い。鼻を抑えながら尻餅をついたら、こちらを見下ろす影が見えた。

 チェーンを引っ掛けたままで、こちらを冷たい顔で見下ろすのは、あからさまに油絵の具の匂いを漂わせ、チェーン越しにこちらを見下ろす瞳はメガネで覆った男の人だった。髪の毛は黒くて、癖がついてごわごわと広がっている。袖にはアームカバーを付け、そのアームカバーには絵の具の色と匂いが染みついているように見えた。付けているのはビニールエプロンで、ポケットの部分には絵の具のチューブやら筆やら油絵の具用ナイフやらが無造作に突っ込まれて膨らんでいた。


「うるさいんだけど? 近所迷惑って言葉知らない?」

「ああ、生きてたぁ。よかったです。あの、これ!」


 私が拾ったキャンパスをガバッと差し出すと、途端に顔をしかめた。


「……いらないんだけど。なんで拾ったの?」

「いらないって……ここから落としたら危ないじゃないですか」

「知らないよ、いらないから捨てておいて」

「捨てておいてって」

「うるさい。これ以上うるさくしたら騒音被害ってことで警察呼ぶから」

「ちょ……そっち警察って、私もうちょっとでそのキャンパスに頭ぶつけて死んでたんですけど!? 私が騒音被害なら、そっちは暴行罪じゃないですか!? どっちが罪状重いんですかね!?」


 私が逆上してペラペラしゃべるのに、彼は「チッ」と舌打ちした。

 この人いちいち口汚いな。


「……本当に近所迷惑だから、一旦うちに来て」

「あ、はい」

「お礼するから、それもらったらさっさと帰って」

「はい? はい」


 なんというか。気難しいってレベルじゃないぞこの人。

 うるさい、やかましい、視野が狭い。

 どれだけ悪口並べても仕方ない人だ。正直、私だって一週間経ったらリセットされるしというフットワークが軽くなる魔法の現象がなかったらとっくの昔に帰っていた。現に今も帰りたくなっているけれど。

 でも、このへしゃげてしまったキャンパスの絵は、たしかに素敵なんだ。これを本人が気難しい声で「いらない」と突っぱねてしまうのが惜しいほどに。

 なら普段なにを描いているのか見たかった。だから普通だったら出会ったばかりの男の人の家になんか上がらないけれど、ほいほいと着いていってしまったんだ。

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