子だぬき前線

糸森 なお

1 たぬきと蝶々


『子ダヌキ前線 停滞中。注意サレタシ』


「何、これ?」


 一咲かずさは、まゆをひそめてつぶやいた。

 黒板に、緑色の紙が一枚貼られている。片仮名まじりの文字は、筆で書かれていた。

 早朝の一年一組の教室には、一咲の他に誰もいない。独り言は、色褪せた教室の壁に、吸い込まれていくように消えた。


 数学の宿題プリントを学校に忘れた。そのことに気がついたのは、夜もふけてからだった。思案し、朝早く学校に行って、宿題を片づけてしまうことにした。


「委員会で早く行かないといけなくて」


 小言を言われそうだったので、親には適当な理由でごまかして、そそくさと家を出た。

 雨がそぼ降る朝に、園芸委員が集まる理由などあるわけがない

 家から中学校まで、周囲に水田が広がる道を三十分歩く。壊れた木琴の音のような蛙の声が、一人でぽつんと歩く一咲を励ますように響いていた。

 雨で朝練も無くなったのだろう。学校は人気が無く、静まり返っていた。

 細かい霧雨が降っていた。このところ、雨ばかりだ。


「今年は、梅雨がいつまでも明けない」


 お母さんがそうこぼしていたのを思い出す。空気はどこか重たくて、窮屈な感じがする。うす暗い教室は、潜水艦の中みたいだ。

 例の紙は、黒板に、プラスチックの丸いマグネットでとめられていた。一咲は、マグネットを外して、紙を手に取る。柔らかい手触りの、やや灰色にくすんだ緑の紙は、写し紙のように透けていた。植物の濃い香りがする。


「『子ダヌキ前線』って、変なの。梅雨前線なら分かるけど」


 教室の後ろで、扉の開く音がした。振り返った一咲は、息をのんだ。

 そこには、たぬきがいた。二本の後ろ足で、まるで人のように立っている。背の高さは、小学校低学年の子くらい。

 たぬきも、一咲を見ると、目を見開き、動かなくなった。

 たぬきと一咲は、教室の前と後ろで、見つめ合う格好になった。

 ――たぬきって、立つんだっけ。

 一咲はぼんやりとそう思う。多分、立たない。

 レッサーパンダは立っていたような気がする。じゃああれは、レッサーパンダなのだろうか。尻尾が縞々じゃないし、いくぶん顔つきがきついような気はするが。

 ふと、陽炎がゆらめくように、その動物の体の輪郭がぼやけた。そのまま、どんどん縮まって小さくなっていく。


「ええっ?」


 仰天した一咲は、机の間を抜けて走った。動物はおらず、黒でふちどられた薄茶の羽根の蝶々が、おぼつかない動きで羽ばたいている。


「まぼろし?」


 目をこすったが、やはり何もいない。蝶々は後ろの黒板に書かれた学級目標の前を通り過ぎ、廊下に出る戸の隙間をめがけて飛ぶ。しかし目算を誤ったのか、戸にぶつかった。


「ふぎゃあっ」


 どこからか、小さなかわいい叫びが聞こえた。次の瞬間、床に、さっきの動物がしゃがみこんでいた。

 鼻が細く、尻尾は短くて縞が無い。やはり、たぬきに見える。

 たぬきは跳び上がり、逃げ道を探すように周囲を見回したが、やがて、しおしおと頭をたれた。


「ああ、人間に見られてしまった。何てことだ。だから僕は、みんなにどんくさいって言われるんだ。たぬき界の恥さらしだ」


 たぬきはうなだれて悲しそうにつぶやいた。打ちひしがれた様子はいかにも不憫だった。


「どういうこと? 私に見られちゃいけなかったの?」


 やっぱりたぬきなんだ、と思いながら、一咲は小さな子にするように、できるだけ優しい声を出した。たぬきがしゃべったことより、その哀れな様子に心を動かされていた。

 たぬきはちらっと一咲を見上げ、そわそわと手を胸の前で動かす。たぬきの毛は、黒っぽくて硬そうだ。


「僕は、この町内の当番なんです。町内会長のたぬきから、このチラシを町内のたぬきに配るように言われて」


「チラシってこれ?」


 一咲はくすんだ緑の紙を指さした。


「そうです。この学校のたぬきに渡しに来たんですが、留守だったので貼っておいたんです」


「学校のたぬき? そんなの、いるの?」


「います。病院や郵便局、スーパーや花屋にも。町内のたぬきに連絡があったら、当番たぬきがチラシをくばります。それ、たぬき以外には葉っぱに見えるように術をかけておいたんです。でも、家に帰ってから、あんまり上手にできなかった気がしてきて。心配になって来てみたら、やっぱり、術が解けちゃってた。しかも、人間に見られるなんて」


「この、『子ダヌキ前線』って、何?」


「普通、春に産まれた子だぬきは、梅雨が明けたら、お山の学校に行って、修行をします。修行をして、色んな術を習って、町で暮らせるようになるんです。ところが、今年は、梅雨がいつまでも明けないでしょう。それで、お山に行けない子だぬきが、退屈して、悪さをしたがっているんです。そういう時、『子ダヌキ前線 停滞中』って、ぼくたちは言います」


「ずいぶん、難しい言葉、使うんだね」


「誰が言い出したかは知りません。ぼくも、『ゼンセン』とか、『テイタイ』の意味はよく分かりません。でも、何となく、かっこいいから、みんな言います」


「なるほど。そういうのあるよね」


 深く頷く。響きがかっこよくて言いたくなる言葉はある。冠位十二階とか、入道前太政大臣にゅうどうさきのだじょうだいじんとか。


「特に今年は、やんちゃで、いたずら好きな子だぬきが多くて、大変なんです」


 その時、何かが倒れたような大きな音と、誰かの叫び声が聞こえた。

 一咲とたぬきは、顔を見合わせた。


「今、何か聞こえたよね?」

「はい。あっちの方から」

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