醜い人間

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醜い人間

 夕方のオフィス街は仕事帰りの人々で賑わっていた。

 サラリーマンやOL達が足早に駅へと向かって行く姿がある。

 ビルが立ち並ぶ大通りには飲食店も多くあり賑やかな雰囲気が漂っている。特に駅前周辺は若者が多く集まる場所でありショッピングスポットとしても有名だ。

 今日は金曜だけに、これから夜の街に繰り出すのであろう人々の姿も見受けられ、中にはアフター5を楽しんでいる姿もあった。

 そんな中、一人の女性が歩いていた。

 20代前半くらい。 肩まで伸びた綺麗な黒髪が印象的で、細身ながらも出るところは出ているといったスタイルの良い女性だった。

 名前を藤絵里えりという。

 社会人2年目の銀行員で、慣れないことも多いものの、持ち前の明るさと人懐っこさで先輩達からも可愛がられる存在だ。

 スーパーで夕食の買い物を済ませると、一人暮らしのアパートへと急ぐところだった。

 路地を抜けて人通りの少ない一本道に出た時、突然、エンジン音が轟く。

 絵里は振り返る暇もなく、後ろからタイヤのスキール音が聞こえた。

 ワゴン車が彼女の横に急停車する。

 絵里の心臓がドキッと跳ね上がり、体が一瞬にして緊張した。車のスライドドアが開き、中から複数の男達が飛び出してきた。

 彼らは目出し帽を被り、手にナイフを持ち、それを絵里に向けてくる。

 一人が言った。

「騒ぐと殺すぞ、来い!」

 その言葉と同時に、別の男が絵里の腕を掴むと強引に車の中に連れ込もうとした。絵里はその手を振り払おうとするが、力の差があり振り払えない。

 男の力で強く口元を塞がれてしまうと声を出すことも出来なかった。そのまま後部座席に押し込まれると、車は走り出した。

 車は加速し、絵里は何者かによって拉致された。

 車内は緊迫した空気に包まれ、絵里の心は絶望と恐怖に支配されていた。どこへ連れて行かれるのか、何が起きているのか絵里には分からなかった。


 ◆


 ワゴン車がどこをどう走ったのかは分からない。

 絵里は目隠しをされ、タオルで口を塞がれた為に助けを求めることもできず、震えて怯えるしかなかった。

 車が停まり、ドアが開く音がすると腕を掴まれて外へと引き出された。

 どうやら建物内に入ったらしいことは理解できた。

 緑の濃い匂い、湿った土の臭い。

そこから山か森の奥深い所に連れ込まれたことは分かった。

 そして、鉄の錆びた臭いと油の臭いから、ここが工場跡か何かだろうと推測できた。

 誘拐犯達は乱暴に絵里を地面に転がすと、目隠しと猿轡さるぐつわを外したが、絵里は恐怖から悲鳴を上げることもできなかった。

「大人しいじゃねえか」

 絵里が周囲を見ると、5人の男達が取り囲むように立っていた。全員が黒い作業着に目出し帽の為、顔の判別はつかないが同じ意思で集まったグループなのは間違いない。

 年齢は20代後半から40歳くらいの中肉中背の男のよう。

 偉そうにふんぞり返っているリーダー格と思われる男だけは特に体格が良く、鍛えられた肉体をしているようだ。

 リーダー格の男はニヤリと笑うと、しゃがみ込んで絵里の顔を覗き込んだ。

「青山銀行の銀行員だな?」

 問われて驚くが、同時に納得する部分もあった。

「……お金。です、か」

 絵里は強張る顎を動かす。指摘は的を射ており、男達は欲望に満ちた下卑た笑いを浮かべる。

「だが、お前のチンケな財布や預金じゃねえぞ。銀行にしっかり蓄えられている金だ。銀行内の下見はできている。俺が知りたいのは内部構造や通報システム、そして金庫の暗証番号やセキュリティカード等がどこにあるかだ」

 そう言いながら、男は懐から4インチの回転式拳銃リボルバー・S&W M66/357マグナム6連発を取り出した。高威力の357マグナム弾が使用でき、更には軽量なKフレームを採用し携帯性に優れている為、アメリカの警察で広く採用された拳銃だ。

 絵里は本物を見るのは初めてだったが、重量を感じさせる所作から、それがエアソフトガンでないことは直感的に理解した。

 見れば、周囲に居る男達も武器を手にしている。

 全長65cmにもなるマチェットを持った男が2人。

 散弾銃ショットガン・Derya SS-TRI シングルトライが1人。

 短機関銃サブマシンガン・H&K MP7A1が1人。

 となっていた。

 男達が、あえて武器を手にして見せたのは、銀行襲撃が脅しではなく、本気であることを知らしめる為だ。

 絵里は息を呑む。

 こんな武装集団に銀行が襲撃されれば従業員だけではない。一般市民にも多くの犠牲者が出るだろう。

 絵里は思った以上に絶望的な状況にいることを認識し、背筋が冷たくなった。自分が何をするべきなのか分からなかった。銀行の機密を話せば解放されるのだろうか? それとも命を奪われるだけなのだろうか? どちらにしても自分の命の選択肢は自身にはないように思えた。

 絵里は必死に考えた。

 しかし、答えが出ないまま時間だけが過ぎていく。その間にも男たちの間にはイラ立ちが募っていき、緊張が高まりつつあった。

「おい。何とか言ったらどうなんだ」

 リーダー格の男は絵里の髪を掴むと、顔を引き寄せ睨み付けてきた。

 その迫力に圧倒されながらも、彼女は懸命に言葉を探す。

(何か言わなきゃ)

 そう思えば思うほど、頭の中が真っ白になり何も言葉が浮かばない自分に愕然とするばかりだ。

「ボス。女の口の割らせ方は、一つでしょ」

 マチェットを持った部下の一人がそう言うと、他の連中からも賛同の声が上がる。

 絵里は恐怖に震え、涙を流すばかりだった。

 リーダー格の男は、その様子に満足そうな笑みを浮かべつつ言った。

「そうだな。襲撃の月曜まで時間はある」

 すると部下の男は、マチェットをチラつかせながら絵里の前に立った。

 マチェットの刃先で絵里の首を撫でる。

 ゾクリとした感覚が全身に走り、鳥肌が立った。これから起こるであろう最悪の事態を想像してしまい恐怖のあまり声も出ない。

 それでも、震えながら懇願するしかなかった。

 震える声で、絞り出す。

「や、め……」

 それは懇願というよりも哀願であったかも知れない。もはや絵里には、それしかできることはなかったのだ。男はマチェットで絵里の胸を触る。乳房の感触を確かめるように上下に動かすと、絵里は耐え難い屈辱感に襲われた。

 絵里が顔を背けようとすると、頬を叩かれた。

 乾いた音が響き渡ると同時に頬に熱い痛みを感じた。殴られたのだと気づいた時には、口の中に血の味が広がり始めていた。口の端を伝うものがある。出血しており唇の端を切ったようだ。

 痛みよりも恐怖の方が大きかった。

 彼女の瞳からは大粒の涙が流れ落ちた。

 そんな様子を男は愉しげに眺め、絵里の服に手をかけた。

 生地が引きちぎられる音と共にボタンが弾け飛び、ブラウスの前が大きく開かれる。質素なデザインのブラに包まれた胸が露わになり、恥ずかしさで顔が熱くなった。

「やめろ!」

 誰かが強く叫んだ。

 その場に居た全員の目が、廃工場の入口に集まった。

 黒のトレンチコートに赤いストール、黒いソフト帽を被った青年が居た。目深く被っているため顔は分からない。

「誰だテメエ!」

 リーダー各の男は、突然現れた正体不明の男の出現に動揺しつつも凄みのある声で言った。

理人りひとと言います。薬草を探していて不審な車両に気になって来ました」

 理人と名乗った青年の声は思いの外、若い。バカ正直さと場違いな雰囲気に、その場の空気が一瞬緩んだが、彼は絵里の姿に歯を食い縛り、男達を睨みつけた。

「その女性に、何をするつもりなんです」

 怒りを込めた口調だ。

 けられていたという事実に男達は焦りつつも、青年が武器を手にしていない事に加え、人数が一人という事を冷静に考える。

 余裕を取り戻したのか彼らはニヤニヤと笑う。

 男達は、それぞれ手にしている凶器を見せつけるように構えて見せる。マチェットという大型の刃物は見る者に本能的な恐怖を与える。

 だが、青年は怯むことなく、真っ直ぐに男達を見ていた。

 いや、正確に言えば睨んでいたと言った方が正しいかもしれない。

 男達は、帽の奥にある眼光に気圧され、一瞬ではあるが身を固くしたが、すぐに気を取り直したように笑い出す。彼らの優位は揺るがないのだから当然だ。男達は再び余裕を取り戻す。

「バカかお前。嬲り回すに決まってるだろ」

 その言葉に呼応するように周囲の男達が一斉に笑った。

 理人は心を落ち着かせるように目を伏せた。

「……交尾は子孫を残し次の世代に命を繋げる行為です、人間は単にそれだけには留まらない。そこに相手を思いやり慈しむ心、愛がある。結婚をし生涯愛し抜くと誓って人は生まれた愛の結晶だ。なぜ人を傷つける行為にしようとするんです」

 淡々とした口調で語られる言葉に、男達は戸惑いの表情を見せた。だがそれも一瞬のことですぐに憤怒の形相へと変わる。

 リーダー格の男は大きく舌打ちをするとS&W M66の銃口を向けた。理人の胸にポイントを決める。357マグナムという反動の大きい銃弾だが、男は海外で射撃訓練をしたことがあるだけに、動かない標的なら10mの距離でも命中できる自信があった。

(死ね!)

 心の中で叫びながら引き金トリガーを引いた。

 オレンジの発火炎マズルフラッシュと共に銃声が轟き、357マグナムが理人の胸を射ち抜いた。彼の身体は後ろに吹き飛ぶようにして倒れた。

 銃声と殺人を目撃したことで、絵里は思わず悲鳴を上げたが、その声は喉の奥で詰まったかのように途切れてしまう。胸の動悸が激しくなるのを感じた。心臓の音が耳の奥で大きく響くような錯覚を覚えるほどだ。

 だが、次の瞬間には別の意味で鼓動が跳ね上がった。

 それは男達も同様だ。

 地面に倒れ伏していたはずの理人が、ゆっくりと立ち上がったのだ。

「……バカな!」

「防弾チョッキでも着てるのか!?」

 男達は口々に驚く。

 その間に理人の身体が小刻みに震える。

 彼の体が不自然に膨れ上がり始める。トレンチコートとマフラーを自ら剥ぎソフト帽が落ちる。

 引き締まった肉体が露になるが、人間の肉体ではない。

 全身は暗い飴色の皮膚で覆われており、まるで固い鎧のように筋肉が浮き上がっている。異様に発達した肩と胸部は、人間の枠を超えた力強さを秘めていたが、人型を踏まえながらもグロテスクに歪んでいた。

 腕は太く、鋭い爪を持つ手が特徴的だった。その爪はまるで獣のそれのようで、一度でも触れれば致命傷を与えかねないほどの鋭さを持っている。脚もまた強靭で、まるで猛獣のような足でしっかりと地面を捉えていた。

 最も気味の悪いのが頭部だ。頭に頭髪は無くつるりとした禿げ頭でありながら腫瘍のようなものが蠢いているように見える。

 そして、その双眸は人間と呼べるものではなかった。目に瞳は無く、釣り上がった眼窩が赤く輝いているだけだ。鼻梁は無く口は大さく裂け、唇は無い。口は歯茎を見せ付けるように開かれ、そこから覗く牙は長く鋭く尖っていた。

 その姿は正しく怪物と呼ぶに相応しいものだった。

 その姿を目の当たりにした者達は皆一様に言葉を失った。驚きのあまり呼吸すら忘れてしまっていたのかも知れない。それ程までに異形の姿を見せた青年は圧倒的だったのだ。

 怪物は低いかぐわしい吐息を流す。

 その気息は触れた周りの植生が次々と枯れ落ちていくかのような、凄まじい威圧感があった。

 リーダー格の男は我に返ると慌てた様子でS&W M66を向ける。

「う、射て!」

 それを合図に、Derya SS-TRI シングルトライとH&K MP7A1が吠える。

 爆発音と速射音。

 無数の銃弾が雨あられの如く降り注ぐが、弾丸は全て弾かれる。着弾と同時に火花が飛び散るものの、それがダメージを与えているのかどうかも分からない。

 その光景を見て全員が愕然とする。

 次の瞬間、怪物は舞った。

 巨体であるにも関わらず、重力から開放されたかのような身のこなしで宙を舞い、瞬時に間合いを詰めてきたかと思うと長い腕が動いた。

 振り下ろしす。

 Derya SS-TRI シングルトライを持つ男の頭が、亀が首を引っ込めるように胴体にめり込み、目玉が飛び出す。

 1人目。

 怪物は間髪を入れず、爪で横に薙ぎ払った。

 H&K MP7A1の男の下顎から上が吹っ飛ぶ。むき出しになった下顎が覗き、血塗れの舌がダラリと垂れ下がった。

 2人目。

 残された3人は慌てて後退しようとするものの、怪物に瞬く間に距離を詰められる。

 一人が堪らずマチェットを振り上げると、怪物はそれに応じて男の腹に拳を叩き込む。まるで自動車に衝突されたかのような一撃。

 怪物の拳は男の腹を貫通し、背中まで突き抜けた。

 背骨と共に臓物が散る。

 3人目。

 怪物は、そのまま男を持ち上げるようにして腕を振ると、死体を、もう一人のマチェット男に目掛けて投げつける。

 二人は折り重なるようにして倒れるが、一人はまだ生きている。

 倒れ込んだ男は、死体を動かそうとするが重くて動かない。

 そこに怪物が、そびえ立つ。

「や、やめ……」

 男が発した言葉は、男が絵里に言わせたものと同様のものであったことは皮肉でしかない。怪物は右脚を浮かせると、男の胸を踏みつけた。肋骨が砕ける鈍い音が聞こえ、男の顔中の穴から血が飛び出す。

 4人目。

 リーダー各の男は、S&W M66を怪物に向かって連射する。恐怖で震える精神では357マグナムが当たるハズもなく、5発の銃声の後、撃鉄ハンマーの虚しい金属音が連続した。銃弾が尽きたことを意味した。

 そこに暗い影がのしかかる。男の顔色に絶望の色が浮かんだ瞬間、怪物の手が男の首を掴んだまま釣り上げる。

 凄まじい握力で頸動脈を圧迫されたかと思うと、男の首は小気味よい音と共に、花の茎を折るように項垂れた。

 5人目。

 最後の1人が物言わぬ骸となって地面に転がったとき、辺りは静寂に包まれた。男達の血飛沫で真っ赤に染まった廃工場に怪物だけが立ち尽くしていた。

 怪物の目が絵里を見る。

 絵里は震えていた。

 半開きの唇からはヨダレを垂らし、焦点が定まっていない目で怪物を見つめていた。その瞳には何も映っておらず、ただ虚空を見つめるだけだった。

 そんな絵里に怪物はゆっくりと歩み寄る。

 一歩一歩踏み出し、距離が縮まっていく度に絵里の顔は引きつっていった。呼吸が荒くなるにつれて身体が震えだすのが分かる。心臓の鼓動が激しくなりすぎて今にも張り裂けてしまいそうだ。

(助けて……誰か!)

 心の中で叫び続けるも誰も来ないことは分かっていた。それでも叫ばずにはいられなかったのだ。

「来ないで化け物!!」

 その瞬間、怪物の動きが止まった。

 怪物は血に染まった両手を目に映す。

 両手は震え始めるとマグナムでさえ通用しなかったにも関わらず、絵里の叫び声一つで動きを封じられた。

 怪物は咆哮を上げる。

 それは慟哭にも似ていた。

 怪物は絶叫しながら、頭を抱えてうずくまる。

 まるで何かに怯えている姿は、小さな子供のようであった。


 ◆


 山の中腹に佇むその館は、長い年月を経てなお威厳を保ち続けていた。

 古い石造りの基礎は苔むし、館の壁には蔦が絡みついているが、その風情が逆に荘厳さを引き立てている。

 館の全体像は陰鬱とした霧に包まれ、まるで過去の記憶に覆い隠されているかのようだ。

 その館の一室。

 薄暗い部屋の中、古びた木製のベッドに一人の老爺ろうやが静かに横たわっていた。

 老爺の肌は、長い年月を刻んだ深い皺で覆われ、色は蝋のように黄ばんでいる。白髪は薄くなり、頭皮が透けて見えるほどだ。

 眉毛もまばらで、瞳は薄い灰色をしており、その奥には、かつての鋭い知性と現在の疲れが共存している。

 彼のまぶたは半ば閉じられており、まるで夢と現実の狭間をさまよっているかのようだ。

咳込む。

 それが激しさを増す。

 老爺は自分の手が真っ赤に濡れていることに気づいた。

 そして、それが自らの吐血のものであることも理解していたが、不思議と慌てることはなかった。むしろ心地良さを感じていたくらいだ。もう長くないことを悟ったのかも知れない。

 いや、あるいはすでに死を受け入れているのか──彼はそんなことを考えたりもしたが、すぐにどうでも良くなったのか思考を止めた。

 その表情とは裏腹に、彼には死の足音が迫っていたのだ。

 すると、部屋の扉が開かれた音がした。

 老爺は目だけを向ける。

 闇の中で異形の影が立っていた。

 誰かは聞かない。

 分かっていたからだ。

「お帰り、理人」

 その声は優しく、慈愛に満ちているように思えた。

 すると闇の中から、一人の怪物が姿を現す。

 それは絵里を危機から救った者だ。

 そのおぞましく醜い姿を見ても老爺は驚かない。むしろ安心するかのようである。

 だが理人と呼ばれた怪物は、折れるように膝をつき両手で顔を覆った。嗚咽を漏らしながら体を震わせるその姿は懺悔をする罪人のようでもあった。

 その様子を見た老爺の顔に哀しみが浮かぶと、そっと手を伸ばして背中を撫でた。子供をあやすような優しさに満ちた手つきだ。

 やがて怪物の瞳から涙がこぼれ落ちるのを見て取ると、今度は慈母のような微笑みを浮かべるのだった。

「どうした?」

 老爺の問いかけに、理人は老爺の症状に効きそうな薬草を探していたところ、妙なワゴン車を見つけたことで追跡をしたこと。男達が銀行襲撃の為、女性銀行員を拉致し暴行を加えようとしていたことを話した。

 それを聞いた老爺は、人間の持つ欲望と醜さに嘆息した。同時に理人から漂う血の匂いに、男達がどうなったかを理解する。

「なぜ人間は虐げようとするのだろう。いや、それが人間なのか……」

 老爺は咳き込むと、理人は気遣う。

「……ワシのことはよい。そこで何かあったのじゃな」

 理人は問われ話した。

「男達は武器を持っていました。僕は女性を救う為に戦い殺しましたが、女性は僕の姿を見て、化け物と……」

 理人は、それ以上の言葉を続けられなかった。

 彼は理解していたのだ。

 自分の容姿が、人から忌み嫌われるものであるということを。

 そして、彼自身もまた、自分自身の姿を疎ましく思っていた。

「……お父さん。どうして僕は、こんなに醜いんです。男達は女性の尊厳を奪おうとした卑劣漢です。でも、女性は彼らを化け物と罵らなかった。彼女を救うために、戦った僕を……」

 理人は頭を床に叩きつけるようにして泣き崩れた。床板が割れ破片が飛び散るほどの力であったが、痛みなど感じなかった。それほどまでに心が傷ついていたのだ。

 その様子を見た老爺は、彼の手を取ると言った。

「……すまない。全ては、私が悪いのだ」

 老爺は、自分の過去を話す。

 彼には家族がいた。

 美しく優しい妻と、愛しい息子達だった。

 愛する存在が居ることに老爺は幸せを感じていたし、また、彼らも同じように感じていただろう。彼らは互いを愛し合い、幸せな家庭を築いた。

 しかし、ある日を境にして全てが一変した。

 戦争によって最愛の家族を失ったのである。

 それ以来、この館に移り住んでからは誰とも会わず孤独な日々を送ってきたのだ。

 一人、答えの出ない毎日を過ごす中、老爺の中に家族を失った理由を考えた。

 戦争が起こっても同盟国も隣国も国連も誰も、老爺が住んでいた国と地域を助けてくれなかった。民族こそ違えど、同じ人間で言葉を話し気持ちを共有できるにも関わらず、なぜ自分達だけ見捨てられたのか。

 そう考えるうちに、一つの結論に至った。

 人間の心に正しい心、《正義》が無いことに。

 人間でありながら人間に失望した老爺は、新しい人間を作ることにした。正しい心を持った理性のある人間を作り出すことで世界を正そうとした。

「錬金術師であったワシは、ホムンクルスの技術を応用した」

 老爺は、自身が行った長く苦悩に満ちた研究に日々を思い出した。


【ホムンクルス】

 16世紀の錬金術師がフラスコの中で生み出した小人型人造人間。

 蒸留器に人間の精液を入れて40日密閉し腐敗させると、透明でヒトの形をした物質ではないものがあらわれる。

 それに毎日人間の血液を与え、馬の胎内と同等の温度で保温し、40週間保存すると人ができる。

 ただし体躯は人間のそれに比するとずっと小さい。

 一説によるとホムンクルスはフラスコ内でしか生存できないというが、成長するとあるものは巨人にも、またあるものは小人にもなるという。

 医師パラケルススは、何人ものホムンクルスの生成に成功したとされるが、彼の死後、再び成功した者はいないとされる。


 老爺は続ける。

「私は、何人ものホムンクルスを作り失敗した。正しい心を持つ人間を作ろうと、何十年という歳月を費やし諦めかけていた。その果てに誕生したのが、理人。お前だ」

 理人は面を上げた。

 その目は涙で濡れている。

「あらゆる心理テストを行った結果、お前は花を慈しみ、死に嘆き悲しみ、虐げられる存在を守ろうとする心を持っていることが分かった。……私が求めていた、正しい心持った人間だ」

 そう言うと、老爺の瞳からも一筋の涙がこぼれた。

 だが、理人は自分の手と身体を見つめる。

 ガラスを凶器にしたような爪に、鉄球すら握り潰せるほどの筋肉がついた腕、そして爬虫類と鬼を混ぜたような身体。

 ──これが自分なのだと思い知らされる。

「でも、僕は醜い怪物だ」

 彼の言葉に、老爺は苦悩する。

「……許してくれ。全ては、私が人間を憎悪した故の罰だ」

 老爺は己の罪を悔いた。

 正しい心をもつ人間を追い求めてはいたが、人間に絶望した老爺は人間という姿を憎んでしまった。その憎しみこそが彼を人では無い姿に変えてしまった。

 それはまるで呪いのように。

 理人は、そんな老爺を哀れんだ目で見ると、そっと手を取った。

 そして、その手を自分の顔に押し当てる。

「……何を許せと言うのですか。僕は確かに作られた存在です。男女の愛によって生まれた存在ではありません。しかし、僕は確かに愛されています。お父さんに」

 理人の涙が老爺の手を濡らした。

 それは温かく心地の良いものだった。

 そんな理人を、老爺は優しく抱きしめた。

 理人(リヒト【Licht】)という名は、理性のある人という思いと共に、ドイツ語で「ひかり・あけぼの・希望」の意味からきていた。

 老爺にとって彼は、まさしく希望の光であった。

 すると老爺は呼吸を乱す。苦しそうに咳をすると喀血した。老爺の様子に理人は動揺を隠せなかった。

「お父さん、お父さんダメだ死んじゃ嫌だ……」

 その言葉に老爺は再び涙を流すと微笑むのだった。

 理人の姿は、この世にある人間の醜悪を体現しているかのようだった。それはつまり人間が持つ醜さの象徴でもあったのかも知れない。

 だが、そこにある心は誰よりも純粋であった。

「お父さんが死んだら、僕は一人になる。どうしたらいい? 何をして生きていけばいい? 教えてください! 僕に生きる意味を!」

 泣き叫ぶように訴える理人に、老爺は言った。

 その声は弱々しかったが、しっかりとした口調で語りかける。

 彼は、自分が死ぬことで理人の心を傷つけてしまうことを理解していたのだ。だからこそ、彼は言った。

「……心赴くままに生きなさい」

 老爺の声はかすれ、最後の力を振り絞るようにして放たれた。

 その言葉が部屋の静寂に消えると同時に、彼の体は理人の腕の中で重たく沈んだ。理人はその瞬間、まるで世界が崩れ落ちるような感覚に襲われた。

「お父さん……」

 理人の声は震え、涙が頬を伝って落ちた。

 老爺の顔は穏やかで、まるで長い旅路の終わりにようやく安らぎを得たかのようだった。その姿を見つめる理人の胸には、深い喪失感と絶望が押し寄せてきた。

 理人は老爺の冷たくなりつつある手を握りしめた。その手はかつて彼を導き、支え、温かさを与えてくれた手だった。

 だが、今その手はもう動かず、理人の握り返すこともなかった。

 理人は声を上げて泣いた。

 涙は次から次へと溢れ出し、止めどなく流れ続けた。

 彼の心には、これまでに感じたことのない孤独と絶望が広がっていった。唯一の家族を失った現実が、彼の心を容赦なく引き裂いていった。

 老爺との思い出が次々と蘇り、彼の心を揺さぶった。

 一緒に笑い、一緒に泣き、共に過ごした日々。

 老爺の優しい笑顔、厳しい言葉、そして無限の愛情。それらが一瞬にして遠い過去のものとなってしまったことが、理人の心に重くのしかかった。

 理人は老爺の胸に顔を埋め、声を出して泣き続けた。彼の体は震え、その涙は老爺の胸に広がっていった。その涙は理人の深い悲しみと、愛する人を失った苦しみの象徴だった。

 時間がどれほど経ったのか、理人には分からなかった。

 ただ、彼の中で何かが壊れ、何かが変わっていくのを感じた。老爺の最期の言葉が、彼の心の中で静かに響き続けていた。


 心赴くままに生きなさい


 その言葉は、老爺が彼に託した最後の願いであり、理人がこれから生きていくための唯一の道しるべだった。彼は涙を拭い、老爺の顔を見つめた。彼の心の中には、深い悲しみと共に、新たな決意が芽生えていた。

「お父さん、僕は……あなたの言葉を胸に、前を向いて生きていきます」

 理人は静かに呟いた。

 その言葉は、彼自身への誓いであり、老爺への最後の約束だった。

 涙に濡れた瞳の奥には、悲しみを乗り越え、新たな未来を見据える強い意志が宿っていた。

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