面霊気
深夜
夢心におもひぬ
おかげで、知らんやつに声をかけられたときは「疋田に言ってる?」と確認するくせがついてしまった。おれと疋田はぜんぜん顔が違う。「疋田じゃないけど」おれが言うと、疋田相手にべらべらと話し続けていたやつも、急に夢から覚めたような顔をして、なんでこのゴツいやつを疋田と間違ったのかと、どいつもこいつも不思議そうにして去っていく。疋田が死んでから一月近く、なぜかこういうやつがあとをたたない。
ちなみに要件は十中八九「金を返せ」か「ツラを貸せ」だ。
疋田はろくなやつじゃない。
たしかに学科と学年は同じだ。性別も同じ。他に共通点らしい共通点は、食堂でカレー中華を頼む数少ない客であることくらいだろうか。だから百歩譲っておれがカレー中華をすすっているときに、「カレー中華といえばてっきり疋田」で声をかけてくるやつがいても、もう二百歩譲ってまあ許せる。おれと疋田じゃシルエットがまるっきり違うが、おれはおれのほかにカレー中華のリピーターになっているやつを疋田くらいしか知らない。
「余りもの同士のかけあわせって感じだよな」
いつだったか、疋田は麺をぐちゃぐちゃかきまぜながらそんなことを言った。食堂で飯を食っていると、ごくたまに疋田が前に座ることがあった。疋田はいつも誰かと一緒にいる。そのときは顔見知りがたまたまおれしか見つからなかったのだろう。
「ルーはカレーのルーで、ラーメンはまあラーメン。ラーメンの麺ゆでて、カレーのルーかけて、それでカレー中華ですって。はっきり言って手抜きじゃん。麺重いし汁はねるし、服について最悪だし、だからって味もまあ、見た目どおりって感じだし」
「じゃあ別のもん頼めよ」
「おすすめある?」
「カレーうどん」
「鈴之助クンって一生カレー以外食べないひと?」
言うくせに、疋田はおれの前に座るときは、決まってカレー中華を載せたトレーを持ってくる。線の細くて髪の長い、卑屈そうな面構えに対して快活に笑うやつで、こういうところが人に好かれるのだろうってのはおれにもわかる。でもおれはあいつの甘ったるい煙草が嫌いだったし、面構えは良いくせにオシャレなんだかマフィアの下っ端なんだかわからんいい加減な服で、どうあっても気が合いそうにないやつだと思っていた。
だからこそ、わからない。
大体、疋田は死んだだろうが。ネットのニュースでも流れていた。おれは見ちゃいないがきっと新聞にも載っていただろう。大学内でもしばらくはどこへ行ってもその話題で持ちきりだった。轢き逃げだった。橋を渡った向こうの道路には「4月20日(土)午後11時頃 この場所で自転車と車の交通事故が発生しました。心当たりがある方はご連絡ください」の看板がいまだに立てられている。在学中に死んだやつは死亡退学になるらしい。疋田のやつは二年の冬時点ですでに単位不足で、このまま学年を上げても留年か退学の二択だったから、そこはまあ笑える。肝心なのは、疋田の知り合いで疋田が死んだことを知らないやつはいないはずで、にもかかわらずなんでおれを疋田と思って声をかけてくるのかということだ。
少なくともやつが死ぬ前はまったくそのようなことはなかった。最近では疋田宛のメールまでおれの携帯に飛んでくる。顔だけでは飽き足らず、登録した覚えのないメルマガが「疋田様」宛でおれのところに来るのはなんなんだ。理屈がまったく通らない。気づけば玄関先に知らん煙草の箱が置いてある――というところで、どうやらおれは疋田に取り憑かれているのではないか、という可能性に思い至った。
おれを疋田と見間違えたやつは、聞けば疋田の顔がおれの顔に重なって見えたらしい。鏡をいくら見ても解消されなかった疑問だが、それもこれも疋田がおれに取り憑いているなら話はわかる。人は死んでも四十九日。死んでも死にきれなかった疋田がおれに取り憑いている。だからひとはおれの顔に疋田を見る。知らないうちに面をかぶされているようなものだ。疋田の面はおれの顔に張りついて、かぶらされているおれ自身には見ることができない。迷惑な話だ。おれが疋田になにをした。恨まれるほど深い仲じゃない。事故現場で手を合わせてやったのが悪かったのか。そんなもんただの気まぐれだろうが、やつがカレー中華を持っておれのとこへ来るのと同じ気まぐれで。
「そう、気まぐれ」
と疋田は余ったスープに半ライスをぶち込んで言う。
「そのとき好きなもんとかやりたいこととか、三分ごとに変わるから。俺は俺がそのときやりたいことを好きなようにやってたいわけ。明日の私は違う私、好きも嫌いも明日の俺が好きなように好きになって、嫌いになる」
「へえ」
「なんか言いたいことある目してるな」
「別に。そのわりに煙草とか、ずっと同じの吸ってるよなって」
「は? あ、わかる? これはほら、好きとか嫌いとかじゃないカテゴリっていうか、一度懐に入れたら意外と一途なのが俺のかわいげっていうか。鈴之助くんって一年のときからずっと陸上? ずっと? 飽きない? 速い? 車より速い? 勝てる?」
「勝てる」
「うそ」
「勝てるし、飽きない」
「一途だから?」
「一途だから」
「そんで毎日カレーでローテ組んでんの?」
疋田に間違われるのは困るが、現状では放置以外にできることもない。お祓いに行くってのも、どこになにをどうすればいいのかわからないし、大げさだ。そこまでのことじゃない。いまのところ人違いをされるだけで害はないし、間違いメールも無視できる。金銭的な損失もないし体調的にも異常ない。だからまあ、別にいいかくらいに思っていた。
思って、いたのだが。
ある夕方、コンビニでの話だ。
レジで会計を終えた男が、後ろに並ぶおれを見て、ひっ、と息を飲んだ。
相手はまったく見ず知らずの、スーツ姿の中年男だ。服装的に仕事帰りだろうか。男は買った煙草を引っつかむと、店員のレシートの声も無視して外へ出た。なにかの間違いかと思ったが、男はたしかにおれを見た。おれと目が合った。おれのほうをちらちらと見ながら、しかし慌てた様子で外の車に乗りこんだ。どこにでもある白い乗用車だ。
おれの顔を見てびびった。
ちがう。
おれを見て、疋田と間違えてびびったのだ。
反射的にそう思った。そのあとのことはあまり覚えていない。
いや、光景としては覚えている。覚えているが、どうして自分があんなことをしたのか。夢でも見ていたような気分だ。
おれは未会計のおにぎりを真後ろの後輩に押しつけ、リュックを床にほうって外に飛び出し、さっきの乗用車が左手の交差点で信号待ちしているのを見た。信号が変わった。車が進む。どこか急いだように白い車が去っていく。ああたしかに白い車なら夜でも白とわかるよな。おれは走った。部活の帰りでよかった。身体はあったまっている。準備運動はいらない。おれは走れる。車にも勝てる。知らずと笑みがこぼれた。おれは笑っていた。おれではない、疋田が笑っているのだと思った。疋田はあれで快活に笑うやつだった。一台二台と車を追い越し、考えるより先に白い車のボンネットに手を突き、乗り上げ、飛んだ勢いのまま膝でフロントガラスの真ん中をぶち割った。
遅れて追いついた後輩によるとおれは、ガードレールに突っ込んで停止した車で運転手の胸ぐらをつかみ、頭っから血を流しながら「4月20日(土)午後11時頃この場所で自転車と車の交通事故が発生しました。」と大声で繰り返し宣言していたらしい。怯えに怯えた運転手は一ヶ月前に疋田を轢いたことを泣きながら白状し、後輩は110と119のどちらが警察でどちらが救急なのかパニックになり、おれは二週間の入院を余儀なくされた。
後悔はある。めんどくさがって短パンで帰らず、長ジャージに履きかえておくべきだった。おかげでふとももから下がズタズタだ。歩くのは歩けるようになるだろうが、在学中は走れそうにない。どうせ夏には引退の予定だったから別にいいが、いいのだが、警察にも親にも死ぬほど怒られたし、現場にいた後輩伝いでおれはどうも大学で「死んだ疋田に魅入られて心身ともに持ち崩した先輩」になっているらしい。死ぬほど不名誉だが100%嘘と言いきれないところが痛い。
思うに、疋田は犯人を捕まえてほしかったのだ。
ろくでもないやつなりに、自分を轢いたやつが罪も償わずのうのうと生きているのは無念だったのだろう。疋田がそういう人並みの無念さを持ち合わせていたとは意外だが、死んでも死にきれないというなら話はわかる。それでなんでおれを選んだのかは知らないが、おれなら走って車に追いつけると踏んだのだろうか。クソ迷惑だが怒る気にはなれない。怒ろうにも、おれはもはや疋田の顔をおぼろげにしか思い出せないのだ。元から頻繁に顔を合わせる間柄ではなかったし、人はおれを疋田と間違えるが、おれは鏡の中に疋田を見ることはない。疋田の顔はもはやぼんやりとした印象の中にしか存在しない。勝手な話だ。
しかし犯人は無事に捕まった。飲酒運転の帰り道に人を轢いて怖くなって逃げてしまった、だったか。なんとも月並みな理由で疋田が死んだのだと思うと腹立たしい。それでも捕まったのだ。あとは司法に委ねるだけ。疋田もこれで安心して成仏できるだろう。
と、思ったのだが。
四十九日はとっくに過ぎたというのに、おれは相変わらず疋田に間違われ続けている。最近ではとうとうスマホの顔認証までおれの顔をおれと認識しなくなってしまった。年齢確認で本当に本人の免許証かどうかを確認されること二回、出欠確認で教授に二度見されること数知れず、コンビニで顔なじみでもなんでもない店員に「いつものやつ」とばかりにメビウスを出される経験から開き直って喫煙所に出入りするようになったが、噂は出るところまで出回っているらしくどこへいっても居心地が悪い。
ますます懐くなアホ。成仏しろ。せめてツラを見せて詫びろ。
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