第48話

 涼は崩れ落ちるイリの姿を見つめ、胸の奥が締め付けられるような感覚に襲われた。彼女が最後に呟いた言葉が、まるで呪いのように頭の中で反響していた。


「…馬鹿な男……」


 握り締めた刀から滴る黒い血が、静かに地面に落ちる音が耳に残る。やがてその音も風にかき消され、静寂が夜を支配した。


「りっくん!」


「お嬢様! まだ治療が終わっていません。お待ちを」

 

 声を張り上げて駆け寄ってきたのはミカだった。彼女の後ろには、冷静そのものの隆が控えている。


「りっくん、大丈夫? 怪我はない?」


「お嬢様! そんな下賎な輩にはお手を触れるなど」

 

 ミカは涼の腕を掴み、血のついた刃を見て眉をひそめた。興奮気味になった隆は、すぐに涼の手を掴みに薙ぎ払った。


「俺は…大丈夫だ。でも……」

 

 涼の視線は未だに、彼女が消えていった空を彷徨っている。ミカがその顔を覗き込むと、彼の目は深い後悔と苦しみに満ちていた。


「彼女は敵だった。放っておいたら、もっと大きな災厄を招いていたわ」

 

 ミカの言葉は冷静だったが、彼女自身も胸の奥に重い感情を抱えているのを隠しきれなかった。


 隆が一歩前に進み、周囲を見回す。

 

「ここは危険です。影の力が崩壊した影響で、この場所に異変が生じる可能性があります。すぐに離れるべきでしょう」


 涼は無言で頷き、全ての影が霧散した。しかし、その手は微かに震えていた。


 数時間後、森の中にある隠れ家。

 小さなランプの光が、暗闇に包まれた部屋を淡く照らしていた。涼は窓辺に立ち、夜空を見上げていた。


「彼女が言ったことが、ずっと頭から離れないんだ」突然呟くように言った彼の言葉に、後ろで座っていたミカが顔を上げる。


「『馬鹿な男』って言葉?」ミカが問いかけると、涼はゆっくりと頷いた。


「彼女は、俺に何か伝えたかったのかもしれない。戦う必要が本当にあったのか……いや、それすら俺にはわからない。でも、あの瞬間、彼女がどんな顔をしていたのか、思い出せないんだ」


 涼の言葉には、迷いや葛藤がにじみ出ていた。彼にとってイリは単なる敵ではなく、かつてどこかで交わった記憶の断片のような存在だった。


「りっくん、後悔するのは仕方ないわ。でも、私たちは彼女の影の力を止めなければならなかった。それが現実よ」ミカの声には、彼女自身を納得させるような響きがあった。


 隆が部屋の隅から静かに言葉を継ぐ。

 

「彼女の最後の言葉には、憎しみだけではない何かが込められていたように感じました。もしかしたら、彼女自身も迷いの中で生きていたのかもしれません」


「……迷い?」


 ミカが問い返すと、隆は軽く頷いた。

 

「影の力を持つ者は、その力に飲み込まれる運命を辿ることが多い。ですが、彼女の最後の姿には、何か別の意志が感じられました。そこに何か真実が隠されているとすれば、それを見つけるのもまた、コイツの役目なのではありませんか?」


 涼はその言葉を胸に刻むように、静かに深呼吸をした。そして、夜空を見上げる目に、わずかに光が戻ってきた。


「……もしそうだとしたら、俺は影達のことをもっと知りたい。戦いの理由も、彼女が本当に伝えたかったことも。逃げるわけにはいかないんだ」


その言葉を聞いたミカは微笑み、椅子から立ち上がる。

 

「それなら、一緒に戦いましょうよ。私達も付き合うわよ」


「私は反対です。こんな嘘つきヤローは信頼できません」


 涼は振り返り、ミカと隆を見た。そして微かに笑みを浮かべた。


「ありがとう。まずは、自分1人で影達の痕跡を探すよ。奴等の情報があれば教えてください。その場所に行けば、何か手がかりが見つかるかもしれない」


 黙っているタールに対し、無言の圧力を加えているようだった。

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