3日目

 

 俺は今、男としての境地に立たされている。



 バーカウンターをピンポイントで照らす濃い橙色の証明がこの場を染める中、俺の左隣には頬を淡く染め、目をトロンとさせながら片手でグラスを傾けるバディの姿があった。もう片方の手は俺の左手の上に置かれており、時折優しく撫でるような仕草をしてくる。その彼女の体温と肌に絡みつくような触り方が俺の思考を徐々に狂わせていく。


(お、落ち着け……落ち着くんだ、俺)


 空調が効いている店内のはずなのに、額に汗を滲ませながらそう自身に訴えかける。そもそも何故俺がこんな状況に立たされているのか。それは遡る事4時間前の話だ。





 ―*―*―*―





 きっかけは確か、仕事終わりに俺が何気なく発した一言からだったと思う。今日は依頼があり、その依頼の解決に俺たちは奮闘していた訳なのだが、敵がすばしっこい事もあって深夜までもつれ込んでしまった。クタクタになりながらも一度事務所に戻り、報告を済ませた俺たちはそのまま解散する流れとなる。


 そこで俺はふと(久々に飲みに行きたいな)と思い、折角なので帰り支度をしている水瀬に声をかけたのだ。


「軽く飲みに行かないか?」と。


 単に俺が飲みに行きたかった為の一言だし、彼女からは「いや、疲れてるから早く帰りたい」といういつも通りの反応が返ってくると思っていたが、意外にも彼女は素直に首を縦に振った。……てっきり「この疲れ切った状態で飲みに行く馬鹿がいるか」とか返されると思っていたのに。その予想を裏切ってきた彼女の返事と魅了チャームの効果に俺が驚いていると、水瀬はそれを察したのか少し不機嫌そうな表情を浮かべる。


「……何か文句でも?」

「えっ!い、いや無いよ!断られると思ったから驚いただけさ!」


 慌てて手をパタパタと振りながら俺がそう答えると水瀬はどこか言いにくそうにしながらポツリと呟いた。


「……別に、私も飲みに行きたい気分だったから」


 普段の彼女からは想像もできない様な可愛さを昨日から供給されている俺は、それを真正面から受け止めてしまったが故にピシッと固まってしまう。


(な、何だ、この可愛い生き物は)


「どうした?」


 突然固まった俺を不思議そうに見つめる水瀬にまた慌てて言葉を返す。


「あっ、いや何でもない!」


 まさかお前の可愛さに見惚れてました、なんて言える訳もなく、俺は努めて冷静に振舞った……つもり。水瀬はそんな俺を見て一瞬訝しげな表情を浮かべるが、すぐにいつものクールな顔に戻る。「ほら、早く行くぞ」と急かすように言われた俺は彼女の後を追いながら事務所を後にした。



 そうして、先にタクシーに乗った彼女を急いで追いかけた俺はそのまま行きつけのバーに彼女を案内した。「いらっしゃいませ。お久しぶりですね」と老齢のマスターに声をかけられながら店に入った俺たちはカウンターへと通される。この店は俺が飲みに行く時は大体ここに決まっているので、マスターも俺の顔を覚えていたようだ。……まぁ、席数も少ない小さなバーで常連なんて俺くらいなものだから当然と言えば当然か。「あぁ」と返事をしながら俺たちはカウンター席に腰を下ろした。


 そして、同時に出てきた黒いおしぼりで手を拭きながら俺は一度「ふぅ」と深呼吸をする。


「ご注文は?」と聞かれたので取り敢えずいつも頼んでいたものを頭に思い浮かべてから、水瀬の方をチラリと見た。俺が「どうする?」と聞く前に彼女の手元には既にメニュー表が握られており、それを見た俺は思わずフッと笑ってしまう。


「……何だ?」


 そんな俺の様子を見て水瀬は怪訝そうな表情を浮かべた。「いや、何でもないよ」と返しながら俺はマスターに向き直って注文を告げる。「取り敢えずいつものウイスキーをロックで頼むよ」と言うとマスターは慣れた様子でグラスに氷を入れ始めた。


「……私も同じものを」


 俺の後にメニュー表を見ながらボソッと呟くように彼女がそう注文したのを見て思わず俺は水瀬の方に体を向ける。


「酒、強いんだな」


 俺がそう言うと彼女は「まぁな」と素っ気なく返してくる。


「別に酔わない訳じゃないが。でも、セーブしないとすぐに潰れる」


 ……意外だなと思った。普段、俺や俺以外が飲みに誘っても全く来ないからてっきり彼女は酒に弱いと勝手に思っていたからだ。こう考えると俺はつくづく彼女の事を何も知らないんだなと実感させられる。もうバディを組んで4年だというのに。と言っても、これは彼女にも言える話だと思う。プライベートでの付き合いは一切無いし、仕事中も話すことは必要な事だけ。その結果、俺は彼女が酒に強い事を知らず、彼女は俺の好物を知らなかった。多分、他にも知らない事は沢山あるのだろう。そう考えると少し勿体無いような気もしてきた。なら、今日はその状況を打破する絶好のチャンスだとも取れる。


 そんな事を考えていると、マスターが俺たちにウイスキーの入ったグラスを差し出す。


「どうぞ」


 そう微笑みながら俺たちに告げるマスターに軽く礼を述べてそれを受け取った俺たちは一緒に酒を口に運んだ。相変わらずマスターが入れる酒は美味い。好きな人と飲んでるから尚更美味い。疲れ切った身体にアルコールが染み渡っていく感覚に身を委ねて、俺たちは一口、また一口と酒を喉に流していく。「ふぅ」と一息ついたタイミングで水瀬の方に視線をやると、彼女もまたグラスを口元へと運んでいる最中だった。その光景が何とも綺麗で思わず見惚れてしまう。


「……何だ?」


 俺の視線に気が付いたのか、水瀬がグラスを口から外して怪訝そうな表情を浮かべながら俺の方を向く。


「あっ、いや、別に何でもない」


 そんな慌てて誤魔化す俺の様子に水瀬は目を細めて疑う様な視線を向けていたが、やがて興味をなくしたのかフイッと視線を逸らした。そして、そのまま俺たちの間には会話が無く、ただただグラスの氷を鳴らしながらチビチビと酒を飲むだけだった。しかし、居心地が悪いかと言われれば決してそうではなく、寧ろいつもよりも心地良く感じてしまう。


 でも、さっき(今日はお互いを知る絶好のチャンス)と意気込んでおきながら、会話が無いのは流石にマズいな。……まぁ、一緒に飲みにすらおろか、食事すら行ったことない二人の会話が弾む訳がないか。そう自嘲しながら、2杯目を頼んだところで水瀬がポツリと呟くように俺に声をかけてきた。


「……良い雰囲気の店だな」


 まさか彼女から話題を振ってくるとは思っていなかったので、俺は内心驚きながらも彼女の方を向く。


「ハハッ、そうだろう?」


 俺の相槌に水瀬はコクリと頷きながらグラスを傾けた。


「何度も来たことがあるのか?」

「あぁ、数年前にたまたま入った店なんだが、空気感が気に入ってな。そっからずっと通っているんだ」


 そう言いながら、俺はウイスキーを一口飲む。


「雰囲気は良いし、酒も美味い。マスターも気の良い人でさ。気が付けば常連になってたんだよ」


「そうなのか」と短く相槌を打ちながら水瀬も2杯目のグラスに口をつける。


「それに、ここはメインストリートから離れてるから騒々しさもあんまり無い。諸々引っ括めて俺はこの店が好きなんだ」

「なるほどな……私も好きだな、ここ」


 そんな予想外の彼女の反応に俺は思わず目を見開いてしまう。いつもは口数の少ない彼女が俺に自分の好みを教えてくれたという事実に驚きながらも、同時に少し嬉しさが込み上げてくるのを感じる。


(……やっぱり、俺たちには会話をする意思が足りなかったのかもしれないな)


 もしかしたら彼女も酒の力を借りて一歩踏み出そうとしているのかもしれない。そう考えると、彼女も何だかんだで俺とコミュニケーションを取ろうとしてくれた訳だし、それは嬉しい限りだ。ふとそんな事を考えつつグラスを傾けていると、隣から水瀬の声が聞こえて来る。


「……あと、お前と一緒に飲んでるからか……何だかいつもより酒が美味く感じる」

「ふふっ、お前からそんな台詞が出てくるなんてな。もう酔ってるんじゃないか?今日は」


 俺が笑いながらそう言うと彼女はフンッと鼻を鳴らしながら俺にジト目を向けてくる。


「……別にそういう訳じゃない」


 こんなやり取りをしている内に段々と普段の調子が戻ってきているのを感じた。ここからはいつもの俺らしく、少しおどけながらも会話を楽しむ事にしようと思う。そんな決意を胸に俺たちは再びグラスを傾け始めたのだった。



 ―*―*―*―



 ……そのはずなのに、なぜこんな事になっているのだろうか。


「んぅ」と、可愛く唸りながら俺に寄りかかっている彼女の姿に思わずドキッとする。


(いや、もうマジで何なんだこの状況!?)


 普段の彼女なら絶対に見られないであろうその姿に俺の脳は大混乱を起こしていた。何杯かお代わりした後、若干上気した頬でコテンと首を傾げる彼女によるこの破壊力。やはりお酒と魅了チャームの力は偉大だと痛感させられた瞬間である。そんな状況を何とか飲み込もうと再びウイスキーを喉に流し込むが一向にアルコールが回らない。代わりに、心臓の鼓動が早くなるのを感じた。


「なぁ、新見」

「ん?」


 そう返すと水瀬はグラスの氷を指で遊ばせながら俺の方を向く。


「何故お前は私とバディを組もうと思ったんだ?」


 いきなり彼女からそんな質問をされて俺は目を丸くした。まるで予想だにしなかった質問だったから。しかし、彼女の目を見ると酔いの奥に答えを聞くまでは逃がさないという意志を感じさせるものだったので、俺は正直に答える事にした。別に隠す様な内容でも無いし。恥ずかしくはあるけど。


「一目惚れ、かな」

「……真剣に答えろ」

「真剣だよ。確かに恋的に『惚れた』っていう意味もあるけど、戦ってる姿を見てお前と一緒に働きたいとも思ったんだ」


 彼女と初めて会った日の事を思い出しながら、俺はぽつりぽつりと言葉を紡いでいく。


「初めての現場で一緒になった時、俺はお前に魅せられたんだ。同時に、お前を他の奴に渡したくないとも思った」

「……いきなり随分と恥ずかしい事を言うな」

「だって真剣に答えろって言ったのはお前だろうが。……ともかく、その日からお前は俺の中でずっと特別な存在だったんだ。だから……お前とバディを組めるって分かった時は本当に嬉しかったよ」


 俺がそう答えると水瀬は少し顔を背けながら口を開いた。


「そうか……分かった。もう十分だ」


 ……心なしか、照れてる様に見える。そんな彼女の姿に俺は思わずフッと笑みを零した。初めて会ったあの日から、俺は彼女に一目惚れをした。そして、気が付けば彼女を目で追う様になり、彼女とバディを組める事になった時は心の底から喜んだ。本当に惚れた弱みというのは恐ろしいもので、彼女が傍にいるだけでそれだけで頑張ろうと思えるし、彼女が居るだけで心が満たされる。それは決してバディという関係性だけのものではなく、初めて彼女を見た時から惹かれていたのだと気が付いたのは最近だったけれど……そんな思いも含めて俺は彼女の事を気に入っているのだ。


「なぁ、水瀬。そう言うお前こそどうなんだ。……何であの時、俺のバディになってくれたんだ?」


 逆に今度は俺がずっと気になっていた事を彼女に問うた。確かに俺は彼女に惚れているし、今こうして一緒に過ごす時間がとても心地よく感じている。しかし、それはあくまで俺の中での話だ。彼女が俺をどう思っているのかは彼女の口から聞いたことがないから分からない。もし彼女もそう感じてくれているのなら、それはこれ以上にないくらい嬉しい事だが……果たしてどうなのだろうか? そんな期待と不安が入り交じった複雑な気持ちを抱えながら水瀬の返事を待つ。


 ……だが、いつまで経っても一向に返事が返ってくる様子はなかった。不思議に思った俺は水瀬の方を見ると、彼女は静かに寝息を立てていた。


「……は?」


 思わず呆気に取られた様な声が出てしまう。しかし、彼女はそんな事などお構い無しと言った様子で気持ち良さそうに俺に寄りかかって眠っていたのだった。


(……マジか)


 半ば現実逃避しながら、俺はこの光景を夢だと思いたくなったが現実は非情である。すると、そんな俺の気持ちを知ってか知らずか彼女は「ん~」と言いながらモゾモゾと体を動かして、再び寝息を立て始めた。


(……いやいや、嘘だろ。マジで寝てんの?)


 彼女の思わぬ行動に俺は愕然としてしまうが、その一方でどこか安堵している自分がいる事に気付いて思わず苦笑いしてしまう。


(まぁ、今日は色々あったからな。疲れたんだろ。もうお開きにするか)


 そう思いながら彼女の肩を軽く揺すりながら声をかけるが反応がない。仕方ないので彼女をおぶって支払いを済ませるとそのまま店を出る事にした。


 店を出る前に呼んでおいたタクシーが来るのを待ちながら、俺は自分の背中でスヤスヤと眠る彼女をチラッと見やる。相変わらず綺麗な寝顔だった。


「ったく、こっちの気も知らないで幸せそうに寝やがって……」


 「う~ん」といった寝言を溢しまくる彼女にちょっとした照れ隠しが含まれた悪態をついていると、タクシーがやって来てドアが開く。未だにうつらうつらとしている彼女をゆっくりタクシーに乗せた後、自分も乗り込み運転手さんに目的地を告げると静かに車は走り出した。彼女の家までそう遠くない事もあって、ほどなくして車は目的地へと到着する。支払いを済ませてタクシーを降りた俺は、彼女をおんぶしながら家の玄関前へ立った。


「おい水瀬、着いたぞ」


 俺の背中で気持ち良さそうに眠っている彼女に対してそう声をかけてみるが反応がない。


(これは参ったな)


 とりあえず中に入って玄関に下ろす事にしようと思い、俺は彼女のカバンの中に入っていた鍵を使ってドアを開けた。部屋の中は本当にシンプルで必要最低限の家具しか置かれていない印象を受ける。(マジで彼女らしいな)なんて思いながら、彼女をベッドまで運びゆっくり降ろすと、静かに横たえて布団を被せる。そして、彼女の肩を優しく揺すって声をかけた。


「水瀬、鍵はポストの中入れとくからな。後でちゃんと確認しろよ?」


 しかし、相変わらず返事はない。仕方がないので俺は彼女のカバンを傍に置いて玄関へと戻ろうとしたその時――


「……新見」

「えっ?」


 一瞬、起きたのかと思って振り返ったがどうやら寝言のようだった。驚きでドキドキしている胸をソッと撫で下ろしていると続く彼女の言葉が俺の耳朶を打った。


「お前は最高のバディだよ……」


 彼女のストレートな物言いに思わず立ち止まってしまった俺はフッと笑みを零した。本当に……ズルい奴だよ、お前は。そんな自分を誤魔化す様に頭をガシガシと掻きながら、俺は今度こそ玄関へと戻ったのだった。





 ―*―*―*―





 あれから水瀬の家を後にした俺は、酔いを醒ます為に少し遠回りをして自宅へ向かっていた。そして歩きながらもさっきまでの出来事に思いを馳せていた。


(色々あったけど……結果的には凄く充実した時間を過ごすことが出来たな)



 そんな満足感を抱えながら俺は静かな夜道を歩いていくのだった。








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