にのまえくんは救えない

芳香サクト

第一章 【カフェインにカフェインを混ぜたら後味が苦い】

前略『その序章は、崩壊へのカウントダウンのようだった。』

 「悪意」の伝播速度について、物理学的な公式が存在するのかどうか、文系脳の俺にはよく分からない。

 だが、この狭苦しい箱庭のような学園において、それは光の速度よりも速く、そしてウイルスの感染力よりも強く駆け巡るということだけは、嫌というほど理解させられた。


 ことの始まりは、ほんの些細な火種だったはずだ。

すめらぎ 青芭あおばが、カンニングをしたらしい。」


 誰が言い出したのかも分からない、根拠のない噂話。

 普段なら、鼻で笑い飛ばされて終わるような三流のゴシップだ。だって、相手はあの「すめらぎ 青芭あおば」なのだから。

 容姿端麗、成績優秀、運動神経抜群。女子生徒でありながら「王子様」という称号をほしいままにし、誰もが憧れる完璧な生徒会長候補。彼女が不正になど手を染めるはずがない。誰もがそう思うはずだった。


 けれど、現実は違った。

 その噂が教室という名の閉鎖空間を駆け巡り、全校生徒の耳に届くまでにかかった時間は、カップラーメンが出来上がるよりも短い、たったの一分足らずだったんじゃないだろうか。

 そして、その一分の間に、世界は反転した。

 昨日まで彼女に向けられていた羨望の眼差しは、一瞬にして侮蔑と嘲笑へと変質した。


「やっぱりね。完璧すぎて怪しいと思ってたんだ。」

「裏では汚いことやってたんだね。」

「王子様なんて言われていい気になってた罰だよ。」


 誰も証拠なんて持っていない。誰も真実なんて見ていない。

 けれど、誰もがそれを信じたがった。

 なぜなら、完璧な人間が高潔なまま成功し続ける物語よりも、泥にまみれて無様に転落する瞬間の方が、退屈な日常を送る観客にとっては、遥かに刺激的で、蜜のように甘い娯楽エンターテインメントだからだ。

 昨日まで彼女に黄色い声を上げていた女子生徒も、彼女の背中に憧れていた男子生徒も、今では一様に冷めた目を向け、あるいはスマートフォンの画面を指で弾きながら、SNSという名の安全圏から石を投げつけている。


 その光景は、まるで腐り落ちる果実のようだった。

 一度傷がついた果実は、そこから急速に腐敗が進み、やがて周囲をも腐らせていく。

 俺――八月一日ほづみ 旅人たびとは、幼なじみとして、彼女の隣でその腐臭に立ち眩みを覚えながら、ただ拳を握りしめることしかできなかった。

 反論しても無駄だ。「信じてくれ」という言葉は、疑惑という名のノイズにかき消され、誰の鼓膜にも届かない。

 この学園の空気は、もう「青芭はクロだ」という結論ありきで凝固してしまっている。

 数学教師による執拗な追及。捏造された証拠。そして、味方だったはずの友人たちの裏切り。俺たちの青春は、あっけなく、そして音を立てて崩れ去ろうとしていた。


 どこかに逃げ出したい。

 俺の趣味である旅行のように、パスポート一つで国境を越え、誰も自分たちを知らない遠い国へ行ってしまいたい。けれど、俺たちにはまだ翼がない。この理不尽な重力に縛られたまま、窒息しそうな教室で息を潜めるしかないのだ。


 いや、本当にそうだろうか?

 感情論も、涙も、正義感も通用しないこの状況を、ひっくり返せる場所が、たった一つだけあるとしたら?

 俺の足は、無意識のうちにそこへ向かっていた。


 賑やかな教室棟を離れ、渡り廊下を越えた先にある、薄暗い旧校舎。

 埃とカビの臭い、そして微かに鼻を突く薬品の刺激臭が漂う、忘れ去られたような一角。

 その最果てにある、『化学準備室』の重い引き戸の前で、俺は立ち尽くしていた。


 噂に聞いたことがある。

 この部屋には、学園一の「変人」が住み着いていると。

 彼は、人の心を持たない冷血漢であり、あらゆる事象を数字と記号だけで解釈する、狂った天才だと。

 もし、この理不尽な「感情の暴走」を止められる人間がいるとすれば、それは感情を持たない彼しかいないのではないか。

 そんな、縋るような、あるいは毒を以て毒を制すような危険な賭け。

 俺は意を決して、引き戸に手をかけた。

 ガラガラッ、と乾いた音が、静寂を切り裂く。


「……


 それが、部屋の主からの第一声だった。

 夕日が差し込む室内には、無数のガラス器具が立ち並び、ビーカーやフラスコの中で得体の知れない色の液体がコポコポと沸騰している。

 その実験台の奥。

 パイプ椅子に深々と腰掛け、手元のフラスコを愛おしげに揺らしている少年がいた。


 色素の抜けたような、透き通る白い髪。

 中学生、あるいは小学生と見紛うほどに小柄で、華奢な体躯。

 白磁のように滑らかな肌と、長い睫毛に縁取られた、すべてを見透かすような薄紫色の瞳。その中性的な美貌は、生きている人間というよりは、精巧に作られたビスクドールのように現実感を欠いている。


 にのまえ 八雲やくも

 彼こそが、この聖域の主であり、俺たちが最後に辿り着いた「希望」あるいは「絶望」の具現者だ。

 彼は、俺の方を一瞥もしなかった。

 ただ、手の中にあるフラスコ――毒々しい紫色をした粘度の高い液体が入っている――をストローで「ちゅーっ」と啜りながら、独り言のように呟いた。


「この部屋の二酸化炭素濃度が、君の侵入によって〇・〇四パーセント上昇しました。僕の脳内演算における酸素供給率を著しく低下させる、致死量の無駄足ですね。」

 その声は、絶対零度の氷のように冷たく、そして恐ろしいほどに透き通っていた。  俺が抱えている焦燥感や、青芭を救いたいという熱意など、彼にとってはただの「気温の上昇」程度の意味しか持たないのだと、一瞬で理解させられる。


「……頼む。話を聞いてくれ。」

 俺は震える声で言った。

「俺の友達が……すめらぎ 青芭あおばが、無実の罪で退学に追い込まれそうなんだ。みんなが彼女を疑って、誰も信じてくれなくて……」

「感情論はノイズです。」

 八雲は、俺の言葉を遮るようにピシャリと言い放った。

「『信じる』『無実』『可哀想』。……君の語彙は、あまりに非論理的で抽象的すぎます。そんな曖昧なパラメータでは、何の解も導き出せませんよ。帰ってください。君の呼気に含まれる湿度が、試薬を変質させるリスクがあります。」


 拒絶。完全なる拒絶だ。

 やはり、噂通りだった。この男には血が通っていない。人の痛みが分からない。

 俺は拳を握りしめ、唇を噛んだ。

 帰るわけにはいかない。ここで引いたら、青芭は本当に終わってしまう。

 俺はポケットから、しわくちゃになった一枚の紙を取り出した。それは、蛇崩じゃくずれが「証拠」として提示した、青芭の答案用紙のコピーだ。


「……これを見ても、あんたは何も感じないのかよ。」

 俺は答案用紙を、実験台の上に叩きつけた。

「これが、青芭あおばがカンニングした証拠だって言われてるんだ。でも、あいつはやってない。……数字なら、あんたの得意分野だろ!?」

「僕の得意分野は化学ですが……」


 八雲は、深い溜息をつくと、面倒くさそうに片目を開けて、その紙切れに視線を落とした。

 一秒。二秒。三秒。

 彼の視線が、紙の上を走る。


 そして。

「……ほう。」

 彼の手が、止まった。

 フラスコを揺らす手が止まり、その無機質な瞳孔が、カメラの絞りのようにキュッと収縮するのを俺は見た。

 彼は身を乗り出し、答案用紙に書かれた数式と、その回答欄の数字の羅列を、まるで獲物を解体するような鋭い目つきで凝視し始めた。


「……美しくない。」


 彼が呟いた。

 それは、拒絶の言葉ではなかった。

 整然と並ぶべき数字の列に、あるはずのない「異物」を見つけた時の、科学者としての不快感と、そして隠しきれない知的な興奮を含んだ響きだった。


「実に行列の並びが悪い。……この回答の統計的偏り。正規分布から著しく逸脱した正答率のパターン。そして、この計算過程に残された、不自然な『飛躍』……。」

 八雲は顔を上げ、初めて俺の目を真っ直ぐに見た。

 その瞳の奥には、冷たい炎が宿っていた。

「この学校の悪意は、統計学的な予測値を大幅に逸脱しています。……非合理的だ。」


 彼は立ち上がった。白衣の裾が翻る。

「付随物の旅人たびとさん。……君の友人が善人か悪人か、そんな道徳的な問題には一ミリも興味がありません。ですが。」

 八雲は、フラスコを実験台に置き、白衣のポケットから銀色のピンセットを取り出した。

「誰かが作為的に数字を弄り、美しくない数式を『正解』として提出しようとしているのなら……それは僕の美学に対する、許しがたい冒涜です。」


 彼は救世主ではない。

 サヴァン症候群という特異な脳を持ち、数字と論理以外を「ノイズ」として切り捨てる、ただの変人だ。

 他人の涙にも、正義感にも、友情にも、彼は一パルスの興味も示さない。


 だが。

 もしも、その歪なノイズの裏側に、誰かが仕組んだ「醜悪な数式」が隠されているのだとしたら。

 彼はその冷徹なメスを、容赦なく真実へと突き立てるだろう。


「……行きましょう。この不条理を解体する『執刀オペ』の時間です。」


 彼が歩き出す。

 その小さくて華奢な背中が、今の俺には、どんな屈強な戦士よりも頼もしく見えた。


 ようこそ。

 完璧な王子様が壊され、白髪の天才が嘲笑い、そして俺たち凡人が必死に足掻く、あまりに不条理で、けれど最高に痛快な復讐劇へ。


 その幕が上がる音は、崩壊へのカウントダウンがゼロを刻む、終わりの合図のようだった。

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