七 (1)


 ニュージャージーへ向けて車を走らせながら、抑えようもない不安にさいなまれた。

 アーネストは、以前に短い結婚期間を過ごした際には、婚約から結婚式、二年あまりを経ての破綻まで、私に包み隠さず知らせてきた。私が瑶子と結婚した時と同様、それは私たち二人の関係に本質的に影響するものではないと、互いに理解していたためだった。言うなれば、就職先や転居先を教えるのと変わらなかった。

 けれども、今回の件――実質的な結婚相手と思われる人間と暮らし始めたことを、アーネストは私に伝えていない。そうした存在をうかがわせる言葉は、彼の手紙の中にも、電話での会話の中にもなかった。これまでとの違いが私の中に、正面から向き合いたくない推測を生んでいた。

 半日かけてアーネストの勤務校に着き、彼の研究室がある赤煉瓦の建物に向かった。日本を発つ前に彼に電話して、会う日時を決めておいたのだった。六月の午後、夏休みのキャンパスに人影は少ない。空気は蒸し暑く、空の大半を雲が覆い、日の光は白っぽく霞んでいた。湿度と緊張で眉間に汗を滲ませ、約束の時刻にドアをノックした。

「やあ、よく来たね」

 ドアを開けたアーネストが笑顔を見せ、私の肩を抱いて室内に入れた。夏用の半袖シャツに綿の膝丈ズボンの姿で、気楽だが、私の記憶する彼そのままの、きちんとして清潔感のある服装だった。ドアが閉まると、私たちは抱き合った。アーネストの笑顔も彼の匂いも、腕の中の温もりも、昨年日本で会った時と同じだ。ほっとして、勧められた椅子に座った。何一つ変わってはいない――私はまだ、その希望にすがっていた。

「ボルティモアでの発表は、どうだった」

「とてもうまく行ったよ。質疑応答が心配だったけど、なんとか切り抜けたし、その後のパーティーでも話しかけてくれる人たちがいた。ただ、『ホーソーン・レビュー』のエディターからは、もっと日本人らしいものを書くべきだと言われたけど……」

 アーネストはうなずいた。

「それも一つの戦略だね。自分を差別化して、目立たせるにはいいやり方だよ」

「あなたが日本にいて、日本の文学についてコメントする時は、意識的にアメリカ人の視点から語っている?」

「特に意識はしていないけど、日本の人たちは読み取ってくれるね。自然に滲み出るんだろう」

 彼はそのままで評価されるのに、私には差別化が必要というのは理不尽に感じたが、議論しなかった。しばらく仕事の話をした後、アーネストが訊いた。

「今夜はどこに泊まるんだい? どこか、近くで食事でもしよう」

「ホテルの予約はしていない」

 私は答えた。

「何だって? うちには泊められないって電話で言っておいたじゃないか」

「憶えてるよ。引っ越し直後で、片づいてないだろうからって言ったね」

「そうだよ。だから――」

「アーネスト」

 私はさえぎった。

「ほかにも、理由があるんだろう?」

 アーネストは絶句して私を見つめた。視線がぶつかり合う。

(なぜ、すぐ説明してくれないんだ。アーネスト――)

 推測が当たった予感に、頬から首筋のあたりがすっと冷たくなった。

 ドアの外から、廊下を通る人々の笑いさんざめく声が聞こえてきた。アーネストが立ち上がった。

「外で話そう」



 私たちは研究棟を出て、そばの庭園へ歩いていった。アーネストは物思いに耽り、目は行く手を向いているものの、そこには何も映っていないようだった。私は彼の歩調に合わせて、いつでも会話を再開できる距離にいたが、彼を遠く感じた。私たちは黙ったまま、庭園に足を踏み入れた。

 庭園は高くそびえる常緑樹に囲まれていた。他の訪問者の姿はなく、中央にある噴水の音と、飛び回る蜜蜂の羽音だけが耳に届いた。花に彩られた散策路の先には木製のベンチがあって、常緑樹の陰になっていた。アーネストは、そこに座ろうと手振りで示した。

「近いうちに、君とは話をしなければならないと思っていた」

 一緒に腰を下ろして、アーネストは言った。

「君と、これまでのような関係を続けることはできなくなった。ぼくには、パートナーができたんだ」

 私はしばらく、彼の言葉を咀嚼しようと空しい努力をした。

「なぜできない? 前の結婚の時は問題にならなかったじゃないか。ぼくにだって瑶子というパートナーがいる。でも、あなたとの関係は姦通にはならないと、あなたは言った」

「その通りだ、惇也。けれども、今回の相手は、かつての妻とは違う。ぼくがこれからの人生を、ずっと一緒に生きていきたいと思った、初めての、そして唯一の人だ。ほかの人とロマンチックな関係を持ったら、彼を裏切ることになってしまう。理解してくれ」

 聞きながら、私は頭を振り続けていた。

「あなたに愛されていると思っていたのに」

 私の声はかすれた。

「ぼくは、瑶子に捧げるのとは別の自分を、あなたに捧げてきた。でも、あなたはそうしないと言うんだね」

「君だって、もうぼくを必要としていない。以前の君とは違うじゃないか」

 私は茫然とアーネストを見た。

「どういうこと」

「実は、二年ほど前から感じてきたことなんだ。ぼくが根津に住んでいた頃と比べれば、君の英語ははるかにうまくなって、意思疎通がしやすくなった。学問の話もレベルが上がって、刺激的だ。君はとてもいい学者になったよ。でも、……ぼくは君を信頼しているから、本音で話す。……ぼくのいちばん愛していた惇也は、いなくなってしまった」

 反論しようと口を開いた。だが、刹那のうちに、私は彼の意味を理解した。彼の求める私は、巻き戻すことのできない時間の彼方にあった。

「それは悪いことじゃない」

 私から視線を外さず、アーネストは真摯な口ぶりで続けた。

「君は自立した、一人前の学者になったんだ。結婚して、子どもたちもいる。ぼくがいなくても、君が失うものは何もない。君のように、ぼくも安らげる家庭を持ちたいと願っても、いけなくはないだろう?」

 深く、長く知っていたはずの相手の、見えなかった基層が言葉の合間から姿を現していた。自分の態度はフェアで、論理的で、別れの理由は完全に正当なものだという信念――

 彼は、になっていた。

「でも、相手の人は、男なんだろう」

 すでに知っているのに、念を押さずにはいられなかった。

「そう。しかし、アメリカ社会も以前とは変わってきた。同性のカップルで子どもを育てる人たちも出てきたし、ぼくも自然な生き方をしてもいいと思うようになった。両親の説得が、まだ済んでいないがね」

「彼も文学者?」

「いや、東洋美術のキュレーターだよ。日系三世のアメリカ人だ。非常に明晰で、気持ちの温かい男でね。君がぼくとただの友人の関係だったら、紹介したかったよ。きっと、話が合ったと思う」

 私は答えなかった。残酷だと思った。

「惇也。……ぼくの両親も、妹も、君を気に入っている。君がボストンにいる間に、声をかけることもあるだろう。また会う時があるなら、これからは、互いに学者として、古い知人として付き合っていきたい。……どうだろうか?」

 悲しみと怒りが胸に渦巻き、私もまた、全くの日本人に戻っていた。全部の感情を黙って飲み込むと、私はうなずき、わかったオーケイ、と小さく言った。

「ありがとう、惇也」

 アーネストは目に見えて安堵した様子になった。

「君と過ごした時間は素晴らしかった。感謝しているよ」

 彼は右手を差し出した。手を重ねる時、これは彼と肌を触れる最後の機会だと思った。ビジネスの相手にするように、彼は力を込めて私の手を握り、放した。彼の感触が手のひらから離れ、わずかの間そばにたゆたい、中空に遠く散っていった。

「一泊していくだろう。ホテルを探すのに、手伝いがいるかい?」

「いや、これで帰るよ。でも、言ってくれてありがとう」

「帰途、気をつけて」

 駐車場まで一緒に来るとは、彼は言わなかった。赤煉瓦の建物に続く道で別れてから、私は一度振り返った。ためらいも、感傷の気配もなく、頭を上げて扉をくぐる彼の背が見えた。

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