第37話 消沈
暗闇に包まれた森の中。屋敷から脱出した僕達は、先導する敦子姉さんの後を追っていた。敦子姉さんは後続の僕達の為に、懐中電灯の光で道を照らしている。そのおかげで躓く事や木にぶつかる事は無い。
目の前の光景すら全く見えない程、目が役に立たない暗闇だ。そんな暗闇の中を明かり無しで、敦子姉さんは足を止めずに走り続けている。僕達が息を荒げているのに、敦子姉さんの息は平然としたまま。
敦子姉さんは何者なんだろうか? 今考えるべき事ではないのは重々承知だが、やはり考えてしまう。今回の事に限らず、今までの敦子姉さんの行動は謎に満ちている。どこからともなく現れては、災難から僕を救い出す。仕事も、元々住んでいた家も、趣味も、交友関係も、過去も、全てが謎だ。
僕がリリーを連れて家を飛び出した日。浴室で交わした密談の内容。敦子姉さんはリリーの正体に気付いた……いや、気付いていた。いくら勘が良くても、リリーが普通の人間とは逸脱した存在だと勘付くはずがない。それに、この屋敷の場所、更には洞窟で待ち伏せしていたのも、やはりおかしな話だ。
つまり、敦子姉さんは元々リリーを知っていた? リリー個人だけでなく、その他の情報も既に把握していた? もしそうだとしたら、どうして僕を行かせたんだ?
「ちょ、ちょっと! 一旦休憩!」
「あれ? 桜ちゃん疲れちゃった?」
「当然……です! あれから、何十分も走り続けて……たら!」
花咲さんが止まり、その後ろにいた僕とリリーも足を止めた。正直言って、花咲さんに感謝したい。長時間走り続けるのは、引き籠りの僕にはキツい。僕の背に寄りかかってるリリーも、きっと僕と同じ気持ちだろう。
「敦子姉さん。あとどれくらいですか?」
「あともうちょっと先に車を停めてあるわ。そこまで行けば、後は車で下りていくだけ」
「……この木って」
リリーは僕の背から離れ、懐中電灯の明かりで僅かに見える一本の木に近付いた。見ると、その木の皮には傷がつけられている。
「そうよ……間違いない。ここの土地を買い取ったパパは、その日機嫌が良かった。普段は話しかけてくれないパパが、初めて私の目を見て、ここに連れてきてくれた。会話は少なかったけど、隣にいてくれた。こんな森の中じゃ、迷子になっちゃうかもって私が言うと、パパは木の皮に目印をつけて、屋敷に戻れる道を教えてくれた……」
「待って」
僕はリリーの腕を掴んだ。今のリリーは、僕を見ていない。あの屋敷にいるリケを見ている。放っておけば、彼女は僕の傍から離れてしまう。どうしてか、僕から離れてしまうのが怖くて、嫌だった。
「僕達と一緒に家に帰るんだろう? そう決めてくれたはずだろ?」
「……ごめん……やっぱり私は、佐久間家の一員にはなれない」
「なれるさ! だって、楽しかっただろ? 僕達と暮らしてた一週間は!」
「そうね。今まで生きてきて、一番楽しかった」
「だったら!」
「でも、楽しかったからって、家族の縁を絶ち切る事は出来ない……これからは会える機会は少ないかもしれないけど、必ずまた水樹の前に―――」
「駄目だ!!」
あの男の所には行かせない。僕から離れさせはしない。ずっと僕の傍にいてほしい。普通の人間じゃなくたって構うものか。この世で普通の人間なんか存在しないんだ。誰しも、外側か内側に歪を持っている。たかが長く生きてるだけじゃ、僕は壁を作らない。
だから、行かないで。
「ごめんね、水樹」
リリーの腕を掴んでいた右腕に痛みが走り、反射的に掴んでいた手を離してしまう。右腕を見ると、刃物で切られたような傷が出来ていた。あの拷問部屋で刃物の類が見つからなかったのは、リリーが密かに隠し持っていたからか。
顔を上げると、リリーは僕の目の前から消えていた。敦子姉さんの手から懐中電灯を奪い取り、辺りを照らし出す。完全に見失う前に、辛うじてリリーの後ろ姿を見つけ出す事が出来た。
「水樹君! 駄目よ!」
追いかけようとした矢先、敦子姉さんが声を荒げた。振り返ると、敦子姉さんは縋りつくような目で僕を見ていた。
「彼女の後は追わないで! これ以上は介入出来ない!」
「介入? 何の事ですか?」
「お願い、行かないで!」
「ごめんなさい。必ず戻ってきますから、二人は先に車の方へ!」
「佐久間君!?」
敦子姉さんと花咲さんを置いて、僕はリリーの後を追った。明かりを使わないで敦子姉さんは暗闇の中で動けてたんだ。きっと花咲さんを連れて車の方へ辿り着ける。目印となる木もあるし、戻ってこられるはずだ。リリーを連れ戻して、傷がある木の元へ戻り、そのまま真っ直ぐ進んで車に行けばいい。何も難しい事なんてない。
懐中電灯の明かりを頼りに、暗い森の中を駆けていくと、あの屋敷に戻ってきた。初めて外観を目にする屋敷は想像よりも大きく、外から見てもやはり複雑な造りだ。
その屋敷は今、激しい炎に包まれていた。中で荒れ狂う炎は窓ガラスを割り、火だるまになった人間が外へ飛び出していく。
炎も人も外へ出ていく中、一人の少女が屋敷の入り口へ走っていくのを目にした。
「リリー!!!」
その名を叫んでも、彼女は振り返る事も、燃え盛る炎に躊躇する事もなく、屋敷の中へ入っていった。彼女の後を追おうとしたが、入り口が炎によって塞がられ、もはや入る事も出る事も出来なくなる。
「くそっ……やってやるよ!」
屋敷を回り、まだ入れそうな場所を探す。すると、とある部屋の窓ガラスが割れておらず、近付いて中の様子を見てみると、まだ火の手が届いていないようだった。
僕は着ていたジャケットを右手に巻き付け、叩き割った窓から部屋の中へ入り込んだ。火の手が届いていないといっても、やはり熱く、そして息苦しい。右手に巻き付けていたジャケットを着直し、廊下に出た。
廊下は地獄と化していた。床は炎で燃え盛り、天井からは火の粉が降り注いでいる。
「崩れるのも時間の問題だ……リリー!!!」
僕は走った。彼女の名を叫び、炎に包まれた廊下を走り続けた。全身が焼けるように熱くて痛い。おそらく何処かが燃えている。
それでも、僕の足が止まる事は無かった。彼女を叫ぶ僕の声は止まなかった。どうしてこうも必死になっているのか、自分でも分からない。多分、彼女が僕にとって特別になっているのだろう。友達とも、家族とも違う別の関係を望む想いの所為だ。
「リリー……ピアノの、音?」
何処からか、ピアノの音が聴こえてきたのを耳にした。弾いているのは彼女だ。悲しみ、怒り、劣情、喜びが混じった音色。ピアノを弾いた事も、聴いた事も無い僕でも理解出来てしまう程に、その音色には感情が乗せられていた。
ピアノの音を頼りに足を進め、やがて一つの部屋の前に辿り着く。扉を開けようとしたが、ドアノブは熱を帯びており、掴む事が出来ない。僕は扉に体当たりをした。貧弱な体の僕でも、何度か体当たりをすれば、脆くなっている扉は壊せる。
扉を壊し、部屋の中に入ると、目を疑うような光景が広がっていた。
「……リリー?」
炎に包まれた部屋の中で、彼女はピアノを弾いていた。足元にはリケと思われる首無し死体が転がっており、ピアノの上にはリケの頭部が乗せられている。
「パパ! パパの好きなピアノの演奏だよ! パパが夢見た私のピアノだよ!」
彼女は……リリーは嬉しそうに、首だけになったリケに語りかけていた。演奏は更に激しくなり、燃え盛る炎を超越した。
魔王。その異名が似合う程に、リリーは狂気に染まっていた。そんなリリーの姿を見て、僕の体は急激に冷えていった。あれだけ必死になっていた自分が、遠い過去のよう。
「死ねよ」
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