チェスはお好き?

「厭ですよ。僕は行きませんよ」


 薫は、木陰に寝そべりながら言った。昼寝の途中だったので、声が若干低かった。引き絞られた弓のように眉を上げて怒っているようだが、全く以て怖さはない。丁度、打算の無い純朴な田舎娘が、親か先生相手に唇を尖らせている顔である。

 むしろ、彼を見下ろしながら、射るような瞳を覗かせている瑞喜の方が怖ろしい。最近買ったという、紺青色の小袖に描かれた桜模様が、まるで、彼女の怒りを象徴しているようだった。

 薫は彼女の顔を見て瞠目し、慌てて寝返りを打った。瑞喜は屈んで、彼の華奢な身体を揺さぶりながら、


「ですが、高木殿に呼ばれているのですよ。高島家の御方から頼みたい仕事があると」

「僕らが行くことありませんよ。誰が何と言おうとも、あのお婆さんに会うのはお断りです。そりゃ、高木先生に頼まれれば仕事はしますけど」

わたくしだって、お会いしたくありません。高木殿がいらっしゃるとはいえ、わたくし一人では厭です。だから、薫に一緒に来て欲しいと言っているのです」

「僕は行きませんよ」


 と、薫はあくまでも頑なだ。なおも何か言おうとする瑞喜を相手に、煩そうに、腕枕をかっている。

 別に薫は、怠惰というわけではない。佶屈たる精神を、常に余すこと無く表出させる瑞喜と、性質が違うのである。小動物が面と向かって肉食と相対しないような、彼の天性の感覚が、意識しなくとも彼を危険から遠ざける。その感覚が、彼の安全策好きに繋がった。

 一ヶ月前に戦場から逃げるときや、数日前の酒場での乱闘では、この少年にしては珍しく狂躁に身を任せたが、それは激情で無意識に身が動いたといっても良い。その激情が、生来の心に沈殿すれば、彼のやることは、落ち葉の匂いの中で昼寝することである。


 だが、そんなことは瑞喜の知った事ではない。遠山の眉を逆立てた姿が、怒れる羅浮仙のようである。隠れた激情家は、隠さない直情家にとって、捨て置けない存在らしい。


「なに莫迦なこと言ってるんですか。行きますよっ」


 と、彼女は薫の手を掴み、有無を言わさず引き摺った。自分よりも体格が小さいとはいえ、人間一人を軽々と引き摺るさまは、傍から見れば奇異である。

 結局、瑞喜の操る馬の後ろに乗り、薫は宿営から出立した。最近、剣之助は夜遅くまで帰らないし、早瀬は何をしているか解らぬので、いても仕方が無いというのもある。

 戛々と蹄の音を響かせて、馬は樵道を縫っていく。鬱蒼とした梢の茂みから差し込む日差しが、硝子のように地面に散らばっていた。時折、ドクダミの匂いが鼻腔を漂い、栗鼠が美しい背を向けて走っていた。


「良い天気ですねぇ。もう霜月か。まるで紅葉の洞穴みたい」

「暢気なこと言わないでください。太平楽を唄うご身分でもないのに。もう少し自覚を持ってください」

「瑞喜さん、僕には矢鱈と厳しいですね。剣之助さんとかにはそうでもないのに」

わたくしは薫にきちんとして頂きたいだけ。嫌いなわけではありません。それに、薫のためではなく、だらしない方が一緒にいるのが恥ずかしいだけです」


 と、瑞喜は顔も見せず、事もなげに言った。後半の方は、特に青筋を立てていそうな調子である

 薫は彼女の態度に小首を傾げ、(よく解らない人だな)と、鼻先で笑いたい気分を抑え、口の裡で呟いた。


 ――星塚山の麓から南東に約二里、高島家の屋敷がある。女性趣味の結構な門前まで行くと、瑞喜と薫は止まって下馬するよう命じられた。

 今日の見張りは、やや身分が低く、ぞんざいな扱いを受けているらしい。洋物の上着に小袖を纏い、尻をからげるという珍妙な格好に、二人が笑いを噛み殺していると、


「なんだお前達。此処は童の遊びに来るところではない」

「これは失礼しました。わたくし達は、高島様にお会いしたくて参りました。祖父が中にいる筈です」

「ふうん……。よろしい、通りなさい。ただし、徒歩でな」


 と、門番は鬱陶しげに銃を振って、二人に門をくぐるよう促した。二階建ての赤煉瓦建築の洋館を横目に見つつ、薫と瑞喜は肩を並べて歩いた。

 よく手入れされた西洋造園の石畳を踏みながら、瑞喜はしきりに周りを警戒している。敏捷い猫のような双眸は、庭師だけでなく、馥郁と花の咲く茂みや小屋に隠れ、自分達を監視する男達を捉えていた。

 一方、薫は、瑞喜の影に隠れるような醜態である。剣之助か真蔵ならば、ここで搦手や大方の地形を把握し、攻め手を探しておくところだが、今の薫に、そんな余裕は欠片も無い。


 瑞喜は溜息を吐き、薫の耳元に口を近付け、小声で


「腕に絡まないでください。歩きにくいです」

「そんなこと言っても仕方が無いじゃないですか……。もし今、八方から斬り掛かられたら、一網打尽ですよ」

「その時はその時です。薫も戦ってくださいね。何のための刀ですか」

「可愛げの無い人だよ、全く……」

「何か仰いましたか?」


 と、瑞喜は言いながら、薫の耳を引っ張った。

 やがて、噴水の前にある八角形ガゼボの下で談笑する二人の老人が見えてきた。高島家の御方と高木玄蕃である。高木の方が、瑞喜と薫に気が付いて手を振った。薫は、顔を綻ばせた。

 ふと、彼の目に、ガゼボの近くで読書する、一人の佳人が入って来た。だが、すぐに柱の影に入って見えなくなった。


 御方の方には息子が三人付いている。いずれも、何処か間抜けな顔付きだが、高木達への警戒は厳しい。高木の方も、出された紅茶には一切口を付けていなかった。


 御方は皺だらけの顔を瑞喜達に向け、鋭い眼光を光らせた。瑞喜は咄嗟に紅唇を結び、薫は息を呑んで固まった。


「この者達か。そなたの孫というのは」

「その通りです。瑞喜に薫、今丁度、御方様と西洋の将棋で遊んでいたところだ。チェス、というらしい」

「ほほほ。この孺子達は見た目通り、尻の青い井蛙共じゃのう。何じゃ、挨拶もせずに」


 と、のっけから挑戦的に言われたので、瑞喜は三日月のように眉を逆立てた。しかし、自分達を囲繞する殺気に気が付き、拳を握って堪えた。

 そして、凍り付いてしまった薫の頭を下げさせ、


「これは失礼の段、お許し願います。しかし、知能の程は解釈次第でしょう。太公望とて傍から見れば只の酔狂な釣り人でした。維新の志士も、小汚い下士が多かったです」

「ほう。中々、口の達者な小娘じゃの。妾は嫌いではないぞよ。その無謀、いや勇気に感銘致した」


 と、深々と刻印された年輪のような皺を歪ませ、御方は笑った。無論、後ろのいる息子達は一切表情を動かさない。

 御方は、高木の横に瑞喜達を座らせると、チェスの盤面を舐めるように見た。


 この時代、文明開化政策の一環で、幕府の頃、外国船や出島での遊びに過ぎなかったチェスも日本本土に持ち込まれた。

 『西洋将棋指南』という本などで、チェスのルールが紹介されるなどしていたが、まだまだ上流階級や、高島家のように西洋気触れした連中の遊びに過ぎなかった。


「妾は西洋将棋が好きじゃ。特に、大将が全く傷付かなくても勝てるという点が。支配者が手を汚さずに敵に勝つ。良いじゃろう、高木?」

「それが理想的ですな。君主は動じないのが一番」

「お前達が兵隊じゃ。妾の命令を聞けば良い。それで、根無し草共は何をしてくれるのか?」


 と、御方は急に声音を変化させ、眉を稲妻のように嶮しくした。白粉を塗った顔が、途端に冷血な鬼の形相になる。

 高木は狼狽える素振りも見せず、あべこべに相手を呑み、


「何をしようにも、先立つものは金です。小人ハ驕リテ泰カナラズ――と云うように、御方様は尊大ぶる御仁ではないと信じております。それで、支払は紙幣ですか、証文ですか、それとも銀塊ですか?」

「金ならある」

「その内約を聞いております。敢えて失礼を申せば、拝見しとうございます。もし、駄目だと仰るならば、仕方が無い。我らは数日前のことを忘れておりませんよ。それに、仕事への支払を渋る方だと言うことが広まれば、商売も難しいですね」


 と、高木が言うと、御方は歯噛みした。相手を萎縮させるつもりが、理路整然と反駁され、返す言葉もなくなっていた。

 御方の様子を見、高木は更に畳み掛けるように、


「では、支払は現金でお願い致します。そうですね……。我々は山本村周辺にある桑畑を燃やして参りましょう。ここ二週間ほど、雨も降っておりませんし貴家には燃えやすい火種もありますので」

「……よろしい。好きなようにやるが良い。だが、妾達の名前を出せば、無事では済まさんぞ」

「言うに及びませぬ。薫、瑞喜、支度だ」


 と、高木は命令した。全く語気の強さは変わらぬが、独特の威圧感を持っていた。

 

 程なくして。荷車に濁酒を詰めた蘭瓶が十五本積まれた。高木が手綱を取り、薫と瑞喜が荷台に座り、三人は屋敷から出発した。瑞喜の馬は横からゆっくりと付いてくる。

 高島家から少し離れ、見晴らしの良い山間の道に出ると、薫は大きく息を吐いて、


「ああ、くたびれたっ。あの人の顔見てると、息が止まるかと思いました。瑞喜さん、大人しかったですね」

「一応。暇だったので、あの人の顔に、どの角度から斬り掛かるか思案しておりました」

「相変わらずですね……。そうだ。あの婆さんが言ってましたけど」

「深刻な顔して、何です?」

「瑞喜さんってお尻青いんですか? 心配ですよ」


 失礼極まりない質問に、瑞喜はみるみる顔を真っ赤にした。次の瞬間、彼女は薫を平手打ちし、ぷいと横を向いてしまった。

 

 そんな様子を、木陰から見ていた者がいる。

 質の良いバッスルドレスを纏い、洋帽を被った貴婦人。彼女は、コルセットの締め付けに、苦しげな息を漏らしつつ、高木達三人の乗る荷車を見送ると、矢立を取りだした。

 サラサラと手早く髪に筆を走らせ、貴婦人は、側で日傘を持つ使用人に眼をやった。


「これを、あの人に。急いで」

「御意」


 と、言葉の終わらぬ内に、使用人は消え去った。

 貴婦人は、青空をゆったりと流れるいわし雲を見上げ、茫としていたが、不意に跪いて嘔吐きだした。帽子が落ちたその顔を、もっと深く差し覗くと、それは北村きたむら千恵ちえであった。

 ひとしきり咳込むと、千恵は、気怠さで重りのようになった身体を動かして、屋敷に帰っていった。

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