第53章 紅蓮の約束

 百里景砂は近くの侍女らを遠ざけて、菱珪玉の隣にまで近づいてきた。

「私なんかと話していいのですか?」

 と、菱珪玉は不思議に思いながら言った。

 まだ十一年しか生きていなかったがが、百里家へ来るたびに、他の家の人間が菱家の人間を蔑視しているのを見れば、菱家は他の家の人間にとってはまるで歓迎されていないことくらいすでにわかっていた。

「どうしてだめなの?」

 しかし、百里景砂はまるで家の間に存在する問題などまるで理解していないかのように首を傾げた。

「私は菱家の人間だよ」

「だから? 百里家の娘が菱家の公子と話してはいけない理由なんてないでしょう? それに、そもそもあなたの名前すら聞かないまま、急に口を利かなくなるのもおかしな話でしょう?」

 その瞬間、菱珪玉もまた首をかしげてしまう。

(あれ、昔私は自分の名前を名乗らなかったのか)

 次第に顔が紅潮していくのを感じながら、菱珪玉は百里景砂を見た。

「でも、談会に参加している菱家の公子は菱珪玉しかいない、っていうのを事前に聞いてはいるから、あなたの名前を知らないわけでもないんだけどね」

「じゃあ、私が菱家の世子だということももちろん知っているんでしょうね」

「もちろん。あなたが、菱藍雲の一人息子であることくらい知ってる。でも、それが理由であなたと話をしなくなるなんてことはないよ。昔、好きでもない琴をあんなにじっくり聞いてくれた人が、うわさでよく聞く菱家の人柄を持ち合わせているとはとても思えないし」

 と、百里景砂が笑いながら言った時、菱珪玉はどうしようもなく気まずくなってしまった。彼女のその言葉は、一体自分のことをほめているのか、それとも嘲笑しようとしているのか、菱珪玉にはどうしてもわからなかったからだ。

「ところで、どうしてこんなところまで来たの?」

 と、百里景砂が今度は菱珪玉の顔を覗き込みながら言った。

「あてもなく歩いていたら、こんなところまで来てしまいました。ここは、噂でよく聞く紅蓮の池ですよね?」

「うん。でも、私は前からこの場所が好きじゃないんだけどね」

「どうして?」

「なんだかこの池を見ていると、誰かがすぐにでも死んでしまうような気がしてしまうの。現に、この池には数えきれないくらいの死体が埋まってるっていう噂もあるくらいだし」

 その言葉を聞いた瞬間に菱珪玉は紅蓮の池からそっと体を遠ざけると、目ざとい百里景砂にからからと笑われた。

「大丈夫、単なる噂だから。しかも、それに似たような噂は百里家よりも菱家の方があるはずでしょう?」

「確かに。あるらしい。でも、私はそれを聞かないようにしているんだ。そういう話ばかり聞いているのが怖いから」

「本当に? なんか、あなたって普通の菱家の人とはちょっと違うのね。意外と怖がりさんだった」

「そうなんだ」

「じゃあ、これからは私が守ってあげるね。約束する」

 話せば話すほど気恥ずかしさだけが増していく菱珪玉に、百里景砂はそっと自分の小指を差し出した。その細い小指に、菱珪玉もまた自分のそれを絡ませた。

 しかし、その約束は契られて以来、記憶を失った百里景砂と菱珪玉が上官家で再開するまで守られることはなかった。ただの一度も。

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