jumble'ズ16
井ノ上
白河いなほ
「お前、父親いないんだってな。そんでかーちゃんがフーゾクで働いてんだろ?」
背中には、妹がいた。
妹は、フーゾクという耳慣れない言葉に、きょとんとしている。
相手は他所の中学の上級生で、四人いた。
一番前の、喋りかけて来た相手の鼻っ柱を殴った。
鼻血を噴く。そいつは殴られたダメージより、派手に出た血を怖れて声を上げた。
後ろの三人が出てくる。
家族を侮辱された。妹の前で、それは許せることではない。
親父がいない。だからこそ母親と妹を守るのが俺の役目だ、とその頃の大吉は考えていた。
あとの三人が囲んでくる前に、大吉の方から突進した。妹が後ろにいる。守るために闘う。闘う以上、勝たなければ何も守れない。
剣道場に通っていて、自主的に走り込んでもいた。
上級生三人が相手でも、引けは取らなかった。
「こら! 束早が泣いてるでしょ!」
背中をどつかれ、覆いかぶさっていた上級生の胸ぐらを離した。
「春香」
おかっぱ頭の幼馴染が、顔を赤くして怒っている。
「お兄ちゃんなのに、妹を泣かせちゃダメでしょ!」
反論しようとした。しかし確かに、妹が泣いているのは自分が喧嘩を買ったからに違いなかった。
学校に母親ともども呼び出された。
「どうもすみませんでした」
母親は、大吉のために頭を下げた。
大吉と母親に向けられる、教師の蔑む視線。
「また悪童が」
面談室を出る時、ぼそりと聞こえた。
「上級生四人に勝つなんてすごいじゃん。さすがママの子」
学校を出ると、母親がにかっと笑った。頭をぐしぐしと撫でてくる。あの教師の言葉は、母親にも聞こえたはずだ。
女手一つで子を育てる。大変なはずだ。だが大吉が知る限り、母はいつも明るく笑っていた。
十二歳だった。
守ろうと片意地を張って妹を泣かせ、結局は母親に守られている。
そのことに気付いたこの日から、大吉は暴れるのをやめた。
◆
高校への通い慣れた道に、丈の大きめな制服に身を包んだ学生の姿をちらほら見かける。
「大吉、新入生だよ。あ〜、ついに私たちも先輩になるんだね。しっかりしなくっちゃ」
隣を歩く春香が、両こぶしをささやかに膨らむ胸の前に持ってきて、がんばるぞっとポーズをとる。
「そうだな、じゃあまずその寝癖直すか」
大吉が幼馴染の肩口で跳ねている毛先を言う。春香は、ぷうと頬を膨らませ、
「寝癖じゃないの! 猫毛なの!」
と主張する。
お決まりのやり取りだ。
「襟首、クリーニングのタグついてるぞ」
「え、あわわ」
大吉は剣道の防具袋を肩に背負い直し、空いた手でタグをとる。
春の陽気に、あくびが混じった。
通学路の交差点に差しかかった。
信号を待つ。その先に、この辺りでは見かけない制服の女子がいた。
「大吉」
春香も気づく。あぁ、と頷いた。
固そうな印象を受ける紺色のセーラー服が目立っていた。
大吉たちの制服はブレザーで、この季節、セーターだけの生徒も多い。
春香の淡い栗色とは対照的な髪色をしている。それを低い位置で結い、肩から前に流していた。
通学路を行く生徒に気弱そうに話しかけては、通り過ぎられることを繰り返している。
「なにか困ってるみたい」
「そうだな」
彼女の前を通り過ぎる彼らが薄情なのではない。
大吉も、春香がいなければそうしただろう。
余計なことには関わらず、波風を立てず、平凡な日々を送る。
自分がどうしようもない馬鹿なガキだと気づいたあの日から、大吉のモットーは『君子危うきに近寄らず』になった。
信号が変わる。
同時に、春香は駆け出した。春香ならそうするだろうとは思った。
「だいじょうぶ?」
春香が親しみを込めた声をかけると、年頃の変わらないその女子の目が涙に潤む。
「あの、わたし、今日はじめて学校に行くのに、道がわからなくなっちゃって」
革のスクールバックを持つ両手に、きゅと力が入る。
春香は自然にその心許なげな手に自分の手を重ねた。
「じゃあ私と一緒に行かない?」
「おい、春香」
「大丈夫だよ、大吉。この子は、ただ困ってるだけだから」
止めようとした大吉に、春香は振り返り柔らかく微笑む。
「あの、ごめんなさい。わたしなら一人でも平気なので」
「そんなこと言わないで。一緒に登校した方が、きっと楽しいよ。ね、大吉」
同意を求められ、仕方なく、「まぁ、そうかもな」と答えた。
「私、森宮春香。あなたは?」
「あ、わたしは白河、白河いなほ」
「いなほちゃん、って呼んでいい?」
「うん。じゃあ、わたしも、春香ちゃんって?」
春香は天真爛漫な笑顔で返した。
春香が手を引くように前に足を踏み出すと、いなほも歩き出した。
「こっちは新田大吉。新しいに田んぼって書くから、よくニッタって間違われるけど、アラタなの。ぶっきらぼうでちょっと怖いかもしれないけど、優しいから安心して」
「あ、アラタくん」
「優しかないが、怖がらせるつもりがないのは本当だ」
男子に慣れてないのか、いなほはおずおずと頷き返す。
「さ、学校に行こう」
春香といなほが通学路を歩き出す。大吉は二人の後ろについた。
制服の違ういなほと喋る春香に、新入生が不思議そうな目を向ける。よく目つきが悪いと言われる三白眼で大吉が見ると、新入生は怯えて顔を背けた。
二、三年生は、特別気にしない。
世話焼きな性格の春香は、こんな目立ち方をしばしばする。平凡を望む大吉は、目立ちたくはない。といって、なんにでも首を突っ込む幼馴染を放っておくこともできなかった。
ただの草むらだと思って手を入れたら、蛇が出てくるということもないではない。
普通なら、出る杭は打たれる。閉鎖的な学校空間なら、なおさらだろう。
もう少し人目を気にして、お節介はほどほどにしたらどうか。
一度言ってみたことがある。
春香は、少し考えてから、こう答えた。
「心配してくれてありがとう。でも、もしこの性格のせいで痛い目を見ても、それはしょうがないって思えると思うんだ。それが自分なんだから、って」
性格は変えられない。
それでも行動は変えられる、とまでは言わなかった。
春香に限っては、目立つことで疎まれたりはしていない。クラス学年に関わらず、表裏のない春香の人柄は、むしろ誰からも受け入れられている。
そして十二歳のあの日、自分の幼さを気づかせてくれたのも、春香のお節介だったのだ。
「じゃあいなほちゃんって私の1つ下なんだ」
「うん、今年から高校生なの。です」
「あはは タメ口でいいよ」
春香と通学路を歩くいなほは、耳を赤くし頷く。
「部活なにに入るか決めてる?」
「本、読むの好きだから、文芸部とか」
「うちの高校は文芸部ないぞ」
「え、そうなんですか」
大吉が後ろから言葉を挟むと、いなほはちょっと肩を縮ませて顔を向けた。
「大丈夫、朗読部があるよ」
「ろうどくぶ。わたし、人前で読むのは、自信ない」
消え入りそうな声だ。
「あ、わかる、私も先生に当てられて教科書読んでる時、間違いしちゃうの」
「春香のはドジなだけだろ」
「そんなことないよ! つい一度読んだ行をまた読んじゃったり、ページ飛ばしてめくっちゃたりするだけ!」
「それはドジとは言わないか?」
大吉と春香のやり取りに、いなほはくすりと笑う。
「二人は、なにか部活に入ってるの?」
「大吉は剣道部なの。子どもの頃からやってるんだよ」
「あんまり真面目にやってこなかったから、試合じゃ勝てないけどな」
「大吉は勝とうとしてないんでしょ。剣道部の先輩が言ってたよ。攻めっ気がないのだけが惜しいって」
「どうだかな」
大吉が明後日の方を向くと、いつもはぐらかすの、と春香はおどけた風に言った。
「春香ちゃんは?」
「私はなにも入ってないんだ。でも編み物が好きで、家だとコースターとか作ったりするの」
「え、すごい」
「えへへ、柄とか自分で考えるの面白いんだ」
いなほは、素直に感心している。
話は嚙み合っている。デザインは多少古めかしいものの、制服を来て学校に通おうとしていたのだ。つまり、大吉や春香とそう変わらない世代ということだ。
なぜ春香が家庭科部などに入ったりしないのか、疑問が出てこないのは性格だろう。
「あ、いなほちゃん。見えてきたよ、学校」
春香が立ち止まり、指をさす。
住宅の屋根の先に、校舎の一角が見えた。
いなほの後ろ姿から、不安と期待の入り混じった緊張が伝わる。
「うちの学校は個性的なやつも多い。退屈しないぞ」
「あはは 逃げの大吉が言う?」
「逃げのだいきち?」
春香がニヤニヤする。
「剣道の試合で避けてばかりいたら、な」
「あと面倒なことがあるといつの間にかいなくなってたりね」
「ほっとけ」
そうは言っても幼馴染の目はなかなか逃れられず、春香がいると大抵はそのお節介に付き合わされる羽目になる。
まさに今のように。
「到着。ここが私たちの学校だよ」
「ここが、これから私が通う学校」
いなほの儚い声が、確かな熱を帯びる。
「やっと、来られた。早く来たかったんだけど、なかなか病気治らなかったから。中学の時の友達と、同じクラスになれるかな」
「なれるよ、きっと」
春香の声にぐっと力が入る。いなほは気づかなかったようだ。
「それに私も、大吉もいるから」
いなほが春香を見、大吉にも目を向ける。
頷き返す。
「春香ちゃん、新田くん、ありがとう」
いなほは涙ぐんだ目を細め、ほんとうに嬉しそうに笑った。
そして、その笑顔を遺し、いなほはいなくなったのだった。
「春香」
校庭の桜は、新学期の今日を待たずに散っている。
だが散った花びらはまだ見かけることができた。
「いなほちゃんと、同じクラスになってみたかった」
「・・・ああ」
人を誘い、誑かす霊や妖もいる。いなほは、そうではなかった。それでも、やはりこういう寂しい思いをする羽目になる。
春香は、今どんな顔をしているのか。大吉のところからでは見えなかった。
「霊や妖が視えたって、いいことなんかないな」
「そんなことないよ。人より多くの出会いがあるんだから」
その分、辛い別れや悪意に傷つけられる多いじゃないか。
大吉は一言、「そうか」と答えた。
「大吉は? もし視えてなかった頃に戻れるなら、そっちの方がいい?」
「どうかな。なんで視えるようになったのかも、わからないからな」
物心がついた頃から霊や妖が視えていたという春香とは違い、大吉はそういうものの存在をはじめは知らなかった。
中学で喧嘩を止め、春香とよく一緒にいるようになり、ぼんやりと何かを感じるようになった。中学を卒業する頃には、幽霊や妖の姿がはっきり見えるようになっていた。
「けど、まぁ、春香に視えるものが視えないってのも癪だしな。これはこれでいいさ」
「ふふ、なにそれ」
大吉はほっとした。春香は、笑っていた方がいい。
そういう意味では、霊や妖が視えるようになったのは、悪いことばかりではない。
少なくとも、春香を一人悲しませることはないのだ。
グラウンドでは、野球部が朝練をしていた。
「行こっか、大吉」
いなほとの思い出を心に仕舞い入れ、春香は明るく言った。
短い春の、温かく、けれどどこか肌寒い風に、白球が打ち上がる音が響いた。
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