第17話 アスマ

 「ふう……」


 屋敷の前で圭一郎けいいちろうは深呼吸をした。

 なんとなく気疲れてしまった。慣れない街を歩き、あまり接しない職種の人間と話したせいだろう。


 まだ調査前の段階なので、探偵の濱家はまいえから聞ける事には限りがあった。圭一郎は正式に依頼し、濱家には茨村しむら雪之助ゆきのすけ組長と桃の母親の詳しい事情を探らせることにした。

 加えて、桃が口走った「四代目総長になる」と言うのはどこまで信憑性があるのかも口添えた。


 更に、桃のような小娘を産業スパイに仕立てて送り込んだ真意。一体茨村組に何が起きているのか。

 

 そのような壮大な事情の調査まで依頼された濱家は自信がなさそうな顔をしていた。自分は浮気や探し人ばかりやっているから、と。それでも目の前に大金をちらつかせたら背筋を伸ばして頷いた。その態度には些か不安もあるが、山内の紹介を信用することにした。


 さて、どうなるか……

 薮の中から何が出てくるのか、圭一郎はそれを思うとやはり溜息が出る。


「お帰りなさいませ、旦那様」


 玄関に入ると執事長の富澤とみざわが迎えてくれた。


「ああ、遅くなってすまない」


「すぐにお食事になさいますか?」


 気疲れであまり腹も空いていないが、いつもより遅くなってしまったし、圭一郎が食べないと帰れない使用人もいるので渋々頷いた。


「うん、着替えたら食堂に行く」


「かしこまりました」


 富澤に支度を任せて圭一郎は急ぎ足で自室は向かう。

 こういう気分が滅入っている時は桃を見て解消するしかない。すでに圭一郎が動けるだけの桃成分は枯渇している。





「ただいま」


 圭一郎が部屋のドアを開けると、そこには誰も立っていなかった。

 嘘だろ、なんで桃がいないんだ。まさか逃げたのか。


 圭一郎は少し青ざめて急いで奥に入る。


「も……」


 すると、ソファの上で縫い物を握り締めながら、桃が寝ているのを発見した。

 小さく寝息を立てて、すっかり熟睡しているようだった。横になりながら縫い物をしてそのまま寝てしまったんだろう。


「……!」


 圭一郎はあまりに無防備な光景に悶えた。

 可愛すぎる。そして迂闊すぎる。


 この子は自分が産業スパイをやっている自覚があるのか?

 こんな可愛いのを俺の所に送り込んで茨村組は何がしたいんだ?


「ふう……ぅん」


 桃が少し身じろいだので圭一郎は慌てて自分の口元を押さえた。

 まだ起こしてたまるか、この可愛いのを網膜に焼きつけなくては。


 圭一郎は静かに対面するソファに腰掛けて桃の寝顔をじっくり見つめた。

 なんかもう、全てがどうでも良くなる感覚だった。


 ああ、可愛い

 ああ、可愛い

 ああ、可愛い


 圭一郎の脳内回路がおかしくなり始めた時、桃が寝言を言った。


「お、じい……ちゃま」


 祖父と慕う茨村組長の夢を見ているのか。いじらしい。

 そんな姿を圭一郎が眺めていると、続く寝言で冷水を浴びせられる。


「大丈夫……よ、あすまさんも、いるから……」


 アスマって誰。

 言葉の前後から組の誰かか?すると男か!?


 山内やまうちィイ!!

 心の中でそう叫んだ圭一郎は、すぐさまデスクの電話を使おうとした。


 しかい、思い直してピタッと止まる。桃を起こしてはならない。

 圭一郎はもう一度そっと桃の様子を伺った。


「……」


 可愛らしい寝顔のまま、桃はまだ眠っている。

 圭一郎は音を立てずに歩き、自室を出る。廊下に行くまでの数歩がこんなに遠いとは思わなかった。


「!!」


 ドアを静かに閉めた後、圭一郎は駆け足で屋敷を出ようと試みた。


「ああ、旦那様、食事の支度が……」


 途中で富澤にすれ違ったが、走るのをやめられない圭一郎はそのまま手短に言う。


「すまん!急用だ!少し待っていてくれ!」


「はあ……」


 キョトンと首を傾げる富澤を置いて圭一郎は屋敷を出た。確かすぐそこに電話ボックスがあるはずだ。


「おおおっ!」


 言葉にならない嫉妬の叫びとともに、圭一郎は電話ボックスに滑り込む。

 すぐさま山内に電話をかけた。濱家に調査の追加を依頼するためだ。


 だが。


「出ねえっ!」


 何度かけても山内は電話に出なかった。


「クソが!」


 圭一郎は電話の受話器を乱暴に置いて、もらった汚い名刺を取り出した。

 こうなれば直接濱家に頼むしかない。圭一郎は電話のダイヤルが戻るのをもどかしく思いながら、やっとのことで電話をかける。


 だが。


「あいつも出ない!?」


 濱家の事務所も何度かけても出なかった。だが、あの様子では別宅があるとも思えない。


「あいつら、飲み歩いてるなぁあ!!」


 圭一郎は電話ボックスの中で吼えた。幸い密閉空間なので外にはあまり漏れなかった。


「誰だぁ!アスマって男はぁあ!」


 桃の夢に登場できるほど親密なのか。圭一郎は嫉妬に狂って叫びまくった。





 圭一郎が去った部屋。

 桃はまだ眠っている。

 幸せだったあの頃の夢を見ていた。


「にいさま……」


 薄桃色の頬から、一筋の涙が零れた。








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