第4話 朝の試練

 瞼の奥で光を感じる。それはもう慣れた感覚だった。

 また、仕事をしながら寝てしまった。圭一郎けいいちろうは覚醒しない頭の中でもそれを知覚していた。

 

 朝の光が眩しいことなど気にならない。もう少し微睡んでいたい。体がまだ動かない。

 圭一郎は再び暗闇の中へ落ちていこうとしていた。


「……ま」

 誰かが呼ぶ声が聞こえる。


「……さま」

 兄さま、と呼ぶのはももか?


「──旦那様」

 執事の富澤とみざわではない声に、圭一郎は飛び起きた。


「おはようございます、旦那様」

 

 目の前に、十九歳の桃がいた。黒いメイド服に身を包み、黒髪を緩く二つに編んだ姿だった。


「……」


 まだ、実感がわいてこない。成長した桃が、目の前にいる現実が信じられない。

 視線を桃から離せない圭一郎に、桃は淡々とした調子でタオルを差し出した。


「お顔を、洗っていらっしゃいませ」


「あ、ああ……ありがとう」


 圭一郎はそれだけ言ってタオルを受け取った後、洗面台に逃げ込んだ。


 待て。今、俺は、一晩中仕事に明け暮れて、目の下に隈を作り髪の毛も乱れた姿を桃に晒したのか?


 圭一郎は羞恥のままに蛇口を捻り、冷水を顔にかけた。

 初日からなんてザマだ。昨日見せたはずの主人としての威厳が揺らいでしまう。


 洗顔を終えた圭一郎はそっと桃の様子を伺った。

 桃は配膳台に向かい、コーヒーを入れているようだ。

 圭一郎が見せた痴態など意にも介していないようで、無表情のままカップにコーヒーを注いでいる。


 桃の姿は、なんだか人形のようだ。体温が感じられない。

 朝食の支度をしているようだが、粛々と仕事をこなしているだけのように見える。

 そんな態度をされるのなら、笑われた方がまだマシかもしれない。


「どうぞ。コーヒーが入りました」


「わかった……」


 デスクの手前のテーブルに湯気の立つコーヒーが注がれている。砂糖はない。温めたミルクが添えられている。いつも圭一郎が飲んでいるものだった。

 

 ソファに腰掛け、圭一郎はまずブラックのまま飲んだ。乾いた喉が熱いコーヒーで潤されていく。

 半分ほど飲んでからミルクをひと回し。まろやかになった口当たりとともに、頭が覚醒されていくのを感じた。


「朝食はいつもこちらでとられると伺ったので用意してきました。配膳してもよろしいですか?」


「うん、頼む」


 昨日の今日では、世間話すらもまだできない。圭一郎は桃が手際良く配膳していくのを見守るだけで精一杯だった。

 サラダにパン、スクランブルエッグとベーコン、ヨーグルトなどをテーブルに並べて桃は一礼して一歩下がった。


「いただきます」


 そんな言葉は随分言っていない気がしていた。

 前任の三島みしまがいた頃はどうしていただろう。圭一郎はもう思い出せなかった。


 一歩下がって立っている桃は一体どこを見ているのだろう。

 食事するところをずっと見られるのだろうか、変わり映えのない朝食がこんなに喉を通らないのは初めてだ。


「ご馳走様」

 

 半分ほど食べ終えたところで圭一郎はギブアップだった。桃との二人きりの空間に慣れる前に食事だなんてハイレベル過ぎる。


「もう、よろしいのですか」

 

 桃が尋ねるが、形式的な言葉なのは明らかだった。


「ああ。すまない」


「承知致しました」


 事務的な返事とともに食器を片付けていく桃を残して、圭一郎はクローゼットに逃げ込んだ。


 一体何をしているんだ、俺は。


 桃を逃がさないと決めたのに、自分で桃から逃げている。

 とにかく気恥ずかしくて、圭一郎は居た堪れなかった。

 三島がいた頃は何も構わず、そこら辺で着替えたりしていた。だが、今はそんなことはできなかった。


「何故、クローゼットの中でお着替えを?」


「……時間短縮だ」


 ワイシャツとネクタイを替えて出た圭一郎を見て桃は不思議そうに首を傾げていた。

 我ながらなんて苦しい言い訳だと思ったが、それ以上は頭が回らなかった。


「ネクタイが──」


 言いながら桃が近寄ってくる。そして何の躊躇いもなく圭一郎の首周りに手をかけた。


「!」


 吐息がかかりそうな程間近に桃を感じていた。

 細くたおやかな指が圭一郎に触れる。鼻先を豊かな黒髪がくすぐっていく。背伸びをしている腰は細く、手を伸ばせば届きそうな距離だった。


「これでよろしいですか?」


 緊張で固まっていた圭一郎は、桃が真っ直ぐに直したネクタイから手を離したことでようやく我に返った。


「あ、ありがとう」


 すると続いて第二の試練が圭一郎を襲う。


「どうぞ」


 桃は背広を広げていた。圭一郎が袖を通すのを待っている。


「──!」


 圭一郎の心臓は跳ね上がるような音を立てていた。聞こえたりしないだろうかと不安になる。

 ぎこちなく背広に袖を通した後、体が火照っていくのを感じた。


「運転手の早川はやかわさんがいつでもお出になられるように準備しています」


「わかった」


 確か今日は朝一番で重役会議がある。この場から逃げることができるのはほっとするが、その間に桃がいなくなったらと、圭一郎は急に不安になった。


「あーっと、君は今日はこの部屋から出ないように」


「は?」


 桃は驚いていた。それで慌てて圭一郎は言い訳を探す。


「そ、そう!掃除をしておいて欲しいんだ。隅から隅まできっちりと。一日かかって構わないから」


「承知致しました」


「では、行ってくる」


「行ってらっしゃいませ」


 素直に従った桃を置いて圭一郎は本社へと出掛けた。

 本当に桃はずっといるだろうかと、その日は会議の内容も商談の結果も頭に入らなかった。








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