第10話 ダニーボーイ

なにか新しいドアを開こうとしていたが、必死にドアノブを抑えてそれが漏れ出すのを防いだ。

記憶は曖昧で断片的だったが、確かな感触を残している。

それは意識と意識の間で泳ぐレイヤーのようなもので、重ねていくことで輪郭を帯びようとしていたが、抵抗する声を挙げ続ける必要が私にはあった。


なるべく同じように過ごさなければならない。

なにかに振り回されてリズムを崩すようなことがあってはならない。

まずは充分に柔軟をしてからスクワットを始めた。


足幅を肩幅ほど広げ、背中をまっすぐに保ちながら膝を90度曲げる。

膝がつま先よりも前に出ないように注意しながら、お尻を突き出して下降し、力を押し上げて元の位置に戻りる。

大事になのは呼吸だ。筋肉が伸びる時に息を吸って、縮む時に息を吐く。

耳元に届く、甘く溶けそうな吐息があたまにチラつくのを、頭を振って必死に振り解く。


次はプッシュアップ。両手を肩幅よりも少し広めに置き、脚を伸ばして背中をまっすぐ保つ。肘を90度まで曲げながら身体を下げ、胸が床に触れる位置まで降ろしていく。

身体から汗が噴き出す。体が重なった時の感触が蘇り、大声を出して掻き消した。


デッドリフトは片足で行う。足を肩幅に開き、片足を浮かせて状態と足が一直線になるように状態を倒しながらもう片足を後ろに上げる。上げている足の腿裏が限界まで伸びたら、ゆっくりと元に姿勢に戻していく。

的確な上下運動による導きが深淵からこちらを見ていたので、右の頬を自分で力一杯殴った。


散々集中力を阻害されたが、ルーティーンをこなしたことで徐々に落ち着きを取り戻していく。

人には負けられない戦いがあるということをこうして学んでいく。


髭を剃り(まだ大して生え揃ってはいない)歯を時間をかけて丁寧に磨き、午後はオット少尉とコーヒーショップに出かける。

まだファンファンファンと神経質に鳴り響く頭に、デミタスコーヒーをダブルで注文して押し込んでやる。


「昨夜は帰ってきたと思ったら、乱暴にドアを開けて閉じこもってしまいましたが、なにかあったのですか?」


そう、私は逃げたのだ。

着ていた服を回収し、素っ裸で夜の森の中を走った。

途中何度も枝や葉で皮膚を傷つけたが、構いやしなかった。

森を抜ける間、一度も後ろを振り返らなかった。振り返ってしまったらなにか、なにか自分の積み上げてきたものが全て損なわれると直感的に知っていた。


質問には答えず、ギャルソンに追加のコーヒーを注文した。

オット少尉は肩をあげて諦めてみせると、手を舐めて顔を洗い始めた。

可愛さがクリティカルヒットだった。


違う。取り返しのつかないことになるとあれほど言ったのに自分の甘さに辟易する。

でもでもよく考えてほしい。遠い昔から男色というのは当たり前に存在していたのだ。アレキサンドロスもジュリアスシーザーもカエサルもみな男色家だ。

日本なんて衆道なんてたいそうな名前まで付けていた。寺の坊主は小坊主を置いていたし、戦国大名は近習を置いた。男色だけでは飽き足らず、小児性愛まである変態さ加減である。男色はキリスト教義上の不道徳であって、本来ごくあたりまえの文化なのだ。


違う、違う。誰だ勝手にあたまのなかで喋るのは。

きっと私はすでに呪術的に良くないナニカに罹り、精神は汚染され、肉体は朽ち果て、自分の腐敗進捗をアカマツの梢の上にいるホオジロになって眺めながら死ぬのだろう。

ホオジロになった私は「チョッピィーチロロ、ピピロピィ」と鳴くばかりで

問題にまったく抵抗できなかった自分の無能さに憤りを感じているのだ。


どうやら私の頭はカフェインではどうにもならなそうなのでアルコールに縋るしかなかった。

コーヒーショップからパブへと移動する。

まだ時刻はまだ3時にもならなかったが店内は賑わっていた。

カウンターで蒸留酒を注文した。

ボトルはそのまま置いてもらった。


「その悩みの根は深いと見えますね」


中折れ帽を被った髭が立派な紳士だった。


「失礼。とてもお辛そうに見えたので」


帽子を取ると見事な禿頭が現れた。すごくありがたみのある形状で。手を合わせて拝みたくなるような禿頭だった。


「パブに来て幸せな人間を探す方が難しいぐらいですよ。最初は皆エールで幸せに過ごす。でもそれじゃあすぐに足りなくて蒸留酒に手を染める。あとは人の一生のように転げ落ちていくだけです」


「家に帰ると恋人だった頃のおもかげを無くした女房が家庭を顧みろとなじる。志を高く持った役人は特権意識の中で腐敗していく」


「花に嵐の例もあるさ。さよならだけが人生だ」


「だから人はパブに足を運ぶわけだね。飲もう兄弟。しかしずいぶん若いようだけど、なかなか達観しているじゃないか」


「戦争を経験してれば誰でも大人になりますよ」


「軍人さんだったか、どうなんだい?その戦況は」


「木っ端軍人に戦局なんて手に余る問題ですよ。戦争におけるすべてのことは非常に単純です。相手より強い兵を、相対してぶつけるだけのことです。でもそれがどれだけ困難であるかを戦場だけが知っている」


「欲がある。虚栄心がある。だから本来するべきことを忘れて判断を誤る。不確定を恐れて判断を鈍らせるから全員の意見に寄せた案が通る。そうした作戦なら敵も想定しやすく対応に困ることはないと、どの組織でも変わらないね。いや耳が痛い話だ」


つるぴか紳士は手にしたグラスを一気に飲み干した。


「おかけでいい話が聞けました。貴方とはまたどこかで会えそうだ」


「どうでしょうね?」


残念ながらとても長生きはできそうにありません。


「私はね、これでも結構信心深い人間でしてね。きっと貴方とはまた会うだろうと感じている。そうやって今までも直感を大事にしてきたんです。だからあなたには生きていてもらわなければならない。その日を楽しみにしていますよ征夷の勇者様」

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