第42話 讃美歌
それは厄災だった。
地面に落ちたそれは、身体をぬるりと起こし、顎をカチカチと鳴らしながら、虹色の翅を広げる。
屈折した光は、まるでステンドグラスを通したかのごとく神々しく。
腕から伸びる二対の鎌は禍々しく。
その容貌は狂気的なほどに悍ましい。
首を傾げる化け物は、女の顔に蟷螂を混ぜ合わせたかのような歪な見た目をしていた。異常なほどに白い裸体に、虫の脚と膨れ上がった虫の腹――その腹に咲いた無数の目玉が、蜂の子のごとく蠕動を繰り返す。
――
最深部エリアや「黒の大地」に出現するボス。
「――がああああああああああぁぁっ!」
絶叫。
スノーが、鬼の形相でその化け物に踊りかかった。
数十メートルはあった間合いを一瞬で詰め、神速でハルバードを叩きつける。鉄塊に砲撃を撃ち込んだかのような凄まじい轟音。地面が砕け、朽ち果てた森が震撼する。木々が揺れ、花が散り、空気が破裂し、暴風と化した。
徹甲弾のごとき一撃。
だが、化け物はビクともしていない。
片腕の刃で、破壊的な攻撃を受け止めていた。中級クラスの化け物を一瞬で屠り去るスノーの一撃を――。
鍔迫り合い。両者の身体が、力と力のぶつかり合いで激しく震える。刃と刃が擦れ合い、火花が散った。ゴリゴリと音が響く。軋む。歯を砕かんばかりに噛み締められたスノーの口から、血が溢れる。
「あああぁっ!」
スノーがハルバードを横に流した。体勢を崩した化け物に至近距離から刃を叩きつける。化け物の首に吸い込まれる一撃は、当たる寸前で紙一重にかわされた。翻る化け物の鎌。スノーはハルバードの柄で受け、振り回す。
刃がぶつかり合う。
幾重にも切り結ぶ。幾重にも幾重にも幾重にも幾重にも――。電気ノコギリで鉄を引き裂くような熾烈な音が鳴り響き止まらない。残像が空に残る。刃が消える。両者の動きはまるで見えなかった。
「はやく逃げろっ! 俺が、止めているうちに!」
スノーが叫んだ。
その悲痛な声で、俺はようやく我に返った。
「――援護をっ!」
逃げろと言われてもスノーを一人置いていくわけにはいかない。
「邪魔だぁあ! 足手まといだからさっさと全員逃げ帰れ!」
「……だが!」
「いいから行けぇ! 全滅するぞ!」
それでも食い下がろうとした俺の腕をネコヤナギが掴んだ。いつもの眠そうな顔はそこにはない。必死の形相で目を剥きながら、「いいから! スノーちゃんの言うとおりにして!」と叫んだ。
「あれはもう私たちがどうこうできるレベルの敵じゃない! あれは……あれは、災害そのものだ!」
歯を噛み締めながら、椿たちに目を遣る。全員震えていた。まるで、蛇に睨まれたカエルのように。
「なんで……あんな化け物が……」
リンドウが息を荒げながらつぶやく。「
「――」
あれは、それだけの化け物ということだ。
ゲームでもそうだ。
「……くそっ!」
どうしようもない。
俺は震える指先でメニュー画面を開き、コマンドを表示させた瞬間――絶句する。
緊急離脱のコマンド。差し迫った状況のときに、戦闘から離脱したアンサスたちを連れてゲートまで強制離脱できるそのコマンドが――発動できない。
「――なぜだ!?」
俺は泡を食ったように叫んだ。
なぜ発動できない。序盤エリアならボス戦だろうと発動できるはずなのに。
まさか。
脳裏を過ったのは、ワールドストーリーという言葉。ワールドストーリー発令時の通知に、コマンドの仕様が変更されたとあった。
――なんてことを。
「メンター! はやく、緊急離脱を!」
ネコヤナギが悲鳴に近い声で言った。
「ダメだ! 緊急離脱が発動できない! コマンドがそもそも選択できないんだ!」
「そんな……」
「このままゲートまで直接撤退するしかない! 椿っ!」
椿の肩が震える。
「撤退するぞ! リンドウとリリーを叩き起こせ!」
「……ぁ。は、はい!」
どうにか我に返った椿は、震える声でリンドウとリリーに声をかけ、撤退を促す。俺はネコヤナギの手に引かれ、踵を返した。
ネコヤナギが「
「――は?」
馬鹿な。なぜ? スノーと戦っているはず。スノーが負けた? そんな。なんで。まだ数十秒も。刃のぶつかり合う音は背後からまだ聞こえて――。
もう一体。別の個体。
「そんな――」
ネコヤナギが目を見開いて言いかけた刹那、化け物の姿が消え、背後からぼとっと音が聞こえた。
両腕が、地面に落ちていた。
純白の槍を掴んだままの、両腕が。
「――」
リリーは呆然と落ちた腕を見て、やがて自分の身体を見る。腕がない。そこにあるはずのものがない。彼女は赤黒い断面を見つめ――。
血が噴き出した。
「あ、ああああぁぁぁっ……! あーっ、アアああああああぁっ!」
悲鳴。絶叫。
パニックになって暴れ狂うリリーは、可憐な表情を苦悶の色に染め、泣き叫んだ。しゃがみ、無い腕で落ちた腕の亡骸を拾おうと必死にバタバタと動かす。
リリーの前に立つ化け物は、愉悦に満ちた表情で嗤った。
壊れたラジオから流れる、歌のような割れた声で――。
「リリー!」
椿が悲鳴を上げる。
俺たちは完全に恐怖に支配された。泣き叫ぶリリーの声でパニックになったリンドウが、狂気的な叫びをあげながら「
かすり傷さえ与えられない。
青褪めてわなわなと震えるリンドウは、泣きそうな声を漏らしながら必死に引き金を引きつづけた。全弾撃ち尽くし、スライドが後退した銃を見て、カチカチと歯を鳴らす。
化け物の嘲笑。
「ネコヤナギィ!」
俺の怒声よりも先に、ネコヤナギは「
だが、化け物の前には薄いガラスに等しかった。
化け物が振るった腕はやすやすとネコヤナギの結界を破壊し、リンドウの身体を吹き飛ばした。顔面に入った一撃は、何かを砕く音を奏でた。枯れた樹木をなぎ倒したリンドウの首は、あり得ない方向に曲がっていた。ぴくぴくと痙攣しながら、口の端から赤い泡を吹く。
「……ああああ!」
声にならない悲鳴を上げて、走った。
リリーが、リンドウが……このままでは死んでしまう。ネコヤナギがなにかを叫んだ。わからない。聞こえない。リリーとリンドウの笑顔が、強烈に脳裏を過った。
リンドウとリリーのどちらに駆け寄るべきかすらわからず、衝動的に動いた。
そんな俺の前に、化け物は無慈悲に立ち塞がった。
「――ヒ、ヒヒヒヒヒヒヒッ」
化け物の笑み。真っ白になる頭。
遠くから聞こえるスノーの叫び。ネコヤナギの悲鳴。椿の声。
死。
俺の頭を、死が埋め尽くした。
「――」
化け物が、鎌を振るう。
刃が、吸い寄せられるように俺の心臓へと吸い込まれていく――。
死が確定するその瞬間。
俺の間に割って入った椿に、刃が突き刺さった。
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