第30話 リンドウのヤキモチ
リリーの食事が終わって流し台に食器を運んでいるときだった。
桶に食器を入れるリリーの横で水を飲もうと棚からコップを取り出していると、食堂の扉がゆっくり開いたのだ。
蝶番の軋む音が、沈黙を柔らかくなぞる。
現れたのはポニーテールの似合う少女、リンドウだった。
「……あれ? リリーとメンター?」
リンドウは俺たちを見つけて物珍しそうに瞬きをする。紺色のジャージに、首には無地のタオルを巻いていて、まるで部活帰りの女子テニス部員のような出で立ちだった。いるよな、こういう中高生。
ジャージということは花壇の世話をしてくれていたのだろう。よく見ると服の端々が土で汚れている。水筒を手に持っているということは水でも補充しに来たのだろうか。
リンドウは俺たちを交互に見遣る。
「なんか珍しい組み合わせですね。こんな時間に二人とも食事ですか?」
「いや、俺は水を飲みに来ただけだよ。遅めの昼食はリリーの方だな」
「そうなんですか。……リリーがこんな時間にお昼ご飯を取るなんて珍しいね。いつも十二時ぴったりに食べるのに」
「にゃはは。掃除していたら遅くなっちゃったんだ」
「へえ、そうなんだ」
リンドウはそう言って、固まる。
「……え、掃除?」
「……」
「リリーが掃除したの? 掃除だよ?」
「……なんで念押すような聞き方する。掃除がわからないわけないにゃ」
「いや、だって……。リリーが? あ、掃除って自分の部屋をだよね?」
「……。トイレと資料室だにゃ」
「えぇっ……!? トイレと資料室!?」
リンドウは目を白黒させながら叫んだ。無限増殖に驚いていたときよりも声がでかい。オーバーリアクションすぎて俺も驚かされたが、リンドウが叫ぶ気持ちも……まあ分からなくはない。さっき俺も似たりよったりな反応してしまったからな……。
リリーが不服そうに頬を膨らませた。
「……メンターといいリンドウといい、失礼なやつばかりにゃ。そんなにリリーが働くのはおかしいことなのかにゃ」
「うん。だって、ここに来て働いたことないじゃん」
リンドウの斬りつけるような鋭い指摘に、リリーは「うぐっ」と唸った。
「びっくりしたよ。あの猫よりも怠惰なリリーが働くなんて……。空から槍が降ってくるくらいの珍事だ」
「そこまで言う? さすがにちょっと酷いにゃ……」
「日頃の行いを顧みてみなよ。ニート極めてたじゃん」
「ネ、ネコヤナギよりは、いつも動いてると思うし」
「比較対象がネコヤナギの時点で駄目でしょ。五十歩百歩でしかないもん」
「…………にゃあ」
さすがにへこたれたのかリリーが弱々しく鳴いて俯いた。
リンドウの毒舌はなかなかの鋭さで、ちょっとリリーが気の毒になるレベルだった。でも、日頃の行いを顧みろってのは正論中の正論だしなあ……。
まあ、一応フォローはしておこう。
「まあまあ……。たしかに今まではあまり働いてなかったかもしれないけど、今回ちゃんと働いてくれたんだしさ。それは素直に喜ばしいことだよ」
「……にゃあぁ」
なんかすごい低い声で鳴かれた。
リリーはそっぽを向いて言った。
「そりゃ、ニートが外に出て働き始めたら珍事だよね。働くなんて当たり前のことなのに、働いただけで褒められるのはコスパいいにゃんね〜。あーどうせリリーはニートですもんねー」
「……そう拗ねるなって。俺はリリーがこの拠点のために動いてくれて本当に嬉しかったんだ。俺の言うことを聞いて動いてくれたんだもんな」
「……言うこと?」
リンドウが疑問符のついたつぶやきを零したが、答える前にリリーが口を開いた。
「そうにゃ。メンターが椿姉とリンドウの負担を減らすために仕事を手伝って欲しいって言ったから手伝ったにゃ」
「え、そうなんですか? メンターがそんなことを言ってくれていたなんて、ボク知りませんでした」
リンドウは驚いていた。
ああ、そうか。そういえば椿には伝えていたけど、リンドウには言っていなかったな。
「……そうだったんだね。だから、椿姉の手伝いをしてくれたの?」
リンドウの言葉に、リリーは無言でうなずいた。
「……そっか。ごめんねリリー。ちょっと言い過ぎたよ。私たちのために動いてくれたんだもんね?」
「そうにゃ。ニートはニートなりに頑張りました」
「……ありがとう。椿姉も助かったと思うよ」
「だといいけどにゃ」
ふん、と鼻を鳴らしてそっぽを向くリリーに、「拗ねないで。ごめんね」と言いながらリンドウは困ったように微笑む。心なしか、ちょっと嬉しそうにも見えた。
「……お前は相変わらずだにゃ。優しそうな顔して、人の心を抉るようなこと言ってきやがる」
「あはは……。思っていることを率直に言ってるだけなんだけどね」
「なおのこと
プリプリと腹をたてるリリーは、流し台からリンドウに近づくと「水筒貸すにゃ」と言って手を差し出す。リンドウが戸惑いながらも手渡すと、リリーは溜息をついた。
その目は、リンドウの疲れ気味な顔を見つめている。
「……お前、また眠れてないだろ? ちゃんと薬は飲んでいるにゃ?」
「……うん。でも、あんまり効いてないかも」
「そう……。それは仕方ないけど、せめて化粧水と乳液はサボらずにちゃんとしろにゃ。目元の隈もすごいし、お肌も乾燥気味じゃん。せっかく綺麗な顔立ちなのにもったいないよ」
「ええ……。そんなこと言われても、そういうの持ってないよ」
「なんでにゃ……。肌ケアは大事だってあれほど忠告しただろ。なんで用意していない」
「忘れてて」
誤魔化すように笑うリンドウに、リリーはデコピンを食らわせた。
「……あたっ」
「お前は自分のことになると、途端に無頓着になるのなんなのにゃ。ただでさえ直射日光に当たりまくってるんだから、肌ケアは必須にゃんよ。その様子だと日焼け止めもしてないでしょ」
「……うん。だって、ボクには必要ないかなって」
「必要に決まってるにゃ! まったく……『ボクはどうせアンサスだし』とか心の中で思ってるんだろ?」
「うえ、なんでわかったの……?」
「お前、わかりやすいもん。アンサスでも見た目は女の子なんだから、そういうところは手を抜くにゃ。一応、異性の目だってあるんだからにゃ?」
「……は、はい」
なんかいつの間にか立場が逆転している。
肌ケアについて注意されたリンドウは、しょぼくれた表情をしながらこちらを一瞥してきた。異性の目となると俺だからな……気になるよな。
俺は曖昧に笑う。
女性の容姿のこととなると触れづらいのでなんとも言えない。女性経験もそんなにある方ではないので、こういうときになんと言うべきか正解がわからないんだよな……。
リンドウはこちらを気にしながら俯き、前髪をくるくると弄んだ。
「……あ、あの、リリー」
「ん?」
「今度よかったらオススメの化粧品教えて。……その……ちゃんとするようにします」
「それはいいけど……」
リリーは訝しげに目を細め、なぜか俺とリンドウの顔をかたみがわりに見ると、にやりと笑う。
「ふうん。……少しは女の子としての自覚が芽生えたかにゃ?」
「……ど、どういうこと?」
「いや〜、リンドウも乙女なんだなあって思っただけにゃ」
楽しそうにからかうリリー。
リンドウの頬に、薄い朱色が乗った。
「う、うるさいな……。ボクも、少しは気にした方がいいかなって思っただけさ」
「うんうん、いい心がけだにゃ。可愛いにゃんよ、リンドウ」
「……もう」
リリーの馬鹿。
そう言って赤い顔を隠すように俯いたリンドウは、たしかに可愛らしかった。ぽかぽかと照れ隠しにリリーの肩を叩いているのもポイントが高い。
「……」
それにしても、リリーとリンドウって仲がいいんだな。
まるで姉妹みたいな気の置けなさがあるというか。同じ拠点の出身だからなのだろう。どのくらい一緒にいて、どのような交流を持っていたかは知らないが、二人の間にはたしかな絆のようなものがある気がする。
それは、きっと昔から形作られていたもので。
傍から見ていれば微笑ましくなるくらい有りふれた関係性で。
どこも歪んでいるようには見えなくて。
だからこそ――。
だからこそ、その深淵には得体がしれない何かが潜んでいる気がする。
彼女たちはただの友達のようで、きっとそうではない。
それだけの事件に、彼女たちは巻き込まれたのだから。
――普通でいられるわけがないのだ。
「あ、そうだ。水筒に水入れないとだよにゃ。……メンター、悪いんだけど水持ってきてくれない?」
「……おう」
「あ、自分で取りますよ」
「いいよいいよ。ちょうど俺も飲みたかったし」
俺は冷蔵庫からピッチャーを取り出しながら、リリーたちを横目で見る。「上官に物を取らせるなんて失礼だよ」と注意するリンドウを、リリーが適当にあしらっている。
コップに水をそそぐ。
二人の事情には安易に踏み込んではいけない。メタ的なことを言えば、そこまでのイベントをこなしていないから、まだフラグが立っていないのだ。今踏み込んだところで、ただの勇み足に終わるだろう。
リリーとリンドウ。
二人の関係性はまだ不透明で、不鮮明だ。
「……ほら」
「ありがとうにゃ」
俺はピッチャーをリリーに渡し、コップの水を飲んだ。喉が渇いていたからか、冷たい水がするりと入ってくる。頭の痛みが少し緩和された気がして、気分がほぐれた。
リリーがリンドウの水筒に水をいれる。
「……ありがとうリリー」
「どういたしまして。リリーちゃんがそそいだ水だからね、女神の聖水だと思ってありがたく頂くにゃん」
「うん、ありがたく頂くよ」
「……素直に言われるとやり辛いにゃ」
冗談をかわされたリリーは、少し恥ずかしそうに口をモニョモニョと動かす。
リンドウは小さく笑って、水筒に口をつけた。こう言うのは変かもしれないが、水筒を傾ける姿が様になっているな……。完全に女子テニス部員か陸上部員だ。
リンドウの健康的かつ爽やかな姿に目を奪われていると、裾を引っ張られた。
リリーがジト目で睨みつけてくる。
「……目つきがいやらしいにゃ」
「そんなことはない」
そんなことあるね、うん。
目を逸らしながら嘘をついても信用はされなかったみたいで、リリーはさらに裾を引いてきた。
「メンターもメンターで分かりやすすぎるにゃ。椿姉居たら目潰されかねないにゃんよ」
「……」
うわあ、想像しただけで鳥肌が立った。
「まあ、それも面白そうだけどねえ」
……面白くねえよ。
こいつ、自分の愉悦のために椿に告げ口しないだろうな……しそうだな。
ケラケラと笑うリリーを戦々恐々とした面持ちで見ていると、リンドウが小首を傾げながら話かけてきた。
「何の話をしているんですか?」
よかった。聞こえてなかったみたいだ。
「大したことじゃないにゃ〜。いっぱいお仕事頑張ったリリーをメンターが褒めてくれていただけにゃんね。……ねえ?」
「あ、ああ。そうだな。掃除頑張って偉いぞ」
俺は引きつった笑みを浮かべてそう言った。
リンドウの手前、否定するわけにもいかないから話を合わせるしかない。ここぞとばかりに嘘八百を並べたてて楽しみやがって。
本当、いい性格をしてやがる。
「えへへ、でしょでしょ? たくさん頑張ったもんね。だからもっとご褒美がほしいにゃ」
「ご褒美」
嫌な予感しかしない。
リリーは可愛げのある、それでいて含みのある笑みを浮かべて身体を寄せてきた。
「頭撫でてほしいにゃ〜。この前は撫でてくれなかったし」
「……えぇ」
嫌なんだけど。
だが、断ることは許されていない。リリーの愉悦に滲んだ瞳が言っている。「椿姉に告げ口してもいいの?」と。
……この腹黒猫女め。
「……はいはい。仕方ないな」
「にゃふふっ」
頭に手をおいて撫でまわしてやると、リリーが喉を転がすように上機嫌な声をあげた。よく手入れされていることがわかる柔らかい髪だった。なめらかで、手触りがよくて、撫でるたびにしっとりと指に絡んでくる。
ピコピコと猫耳が揺れている。たまに指が耳に触れると、リリーはなんとも表現しがたい声をあげて擽ったそうに身をよじった。
……なんだこれ。いけないことをしている気分なんだけど。
いたたまれなくなって手を離そうとすると、リリーがさりげなく腕をおさえてきた。力を込めて振り払おうとしたが、けっこう力が強い。ていうか、めちゃくちゃ強い。こいつ、こんな怪力だったのかよ。
無言の押し問答をしていると、大きな溜息が聞こえてきた。
「……馬鹿馬鹿しい」
心底呆れたような声。
リンドウの表情は、氷のように冷たかった。
「ボクはもう戻りますね。雑草取りとか水やりとか、まだまだたくさんやることが残っているので」
「……そ、そうなんだ。頑張ってくれ」
「はい。ボクは言われなくとも、ご褒美なんかなくとも精一杯働きますよ」
不機嫌そうにそっぽを向いて、リンドウは踵を返した。少しだけ乱暴に扉を開くと、彼女は恨めしそうに俺を睨んで、唇を尖らせる。
その表情は、いつもの大人びた様子からは遠く。
宿題を頑張ったのにお菓子を買ってもらえなかった子どものような、幼い不満が滲んでいて。
彼女が扉を閉める直前。
最後に耳に届いた言葉は、石を投げ入れた水面のような波紋を耳に残した。
「……ボクの方が頑張ってるのに」
【キャラクターイベント】
・リンドウルート開放
アンサス「リンドウ」の個別キャラクタールートが開放されました。『ルート1 悲哀の花壇』の進行により、次のルートが開放されます。また、椿の廃棄処分による固有ストーリーの開放後「分岐ルート」が発生します。
・リリールート開放
アンサス「リリー」の個別キャラクタールートが開放されました。『ルート1 狂気のはじまり』の進行により、次のルートが開放されます。
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