凄腕メカニックにも社長の恋の病は治せない

矢古宇朔也

第1話 噂の男、麗しの社長

「《Comeカム》」


 沙羅は覚悟を決めて「おいで」という意味のコマンドを告げた。ソファに深々と座り、顎を上げ、毅然とした態度で。

 視線の先には自社の社長、レネがいた。彼にDomとして命令を下したのである。

 ただのいち社員、名刺には主任としか書いていない下っ端である沙羅が。


 男は満足そうにはしばみ色の目を細め、ゆっくりと彼女の方に歩み寄ってきた。中性的な顔立ちに妖艶な笑みを浮かべている。


「そうだ、やればできるじゃないか」


 沙羅を焦らすようにたっぷりと時間をかけて沙羅の元へと来た男は、彼女が座るソファに片膝をつき、さらに距離を縮めた。


 そうして、彼は指先で沙羅の顎をすくい上げた。高い鼻梁が沙羅の鼻先、触れんばかり位置にある。

 プレイの最中、Subに見下ろされるなんて初めてだ。沙羅は思わず息を止めた。


「言われたとおりにしたぞ? 褒めてくれないのか?」


「……っ!《Good boyグッドボーイ》」


 コマンドをきちんと実行したSubサブDomドムが褒める。全てはこれが基本のプレイだ。

 咄嗟に言葉が出てこなかった。

 褒められることが好きなSubもいれば、あえて従わず仕置きを喜ぶSubもいる。はたして彼はどちらだろうか。


「さて、ご主人様、次は何を?」


 口の端に笑みを刻んだ男は、尊大な態度を崩さぬまま言った。


(こんなSub、知らない……)


 だけど悪くない。こんなプライドの高い男が、社会的地位の高い男が、自分のコマンドに従って嬉しそうにしている。 


「《Stripストリップ》まずはジャケットを」

「なるほど、そう来るか」


 なかなか面白い。そう言わんばかりに笑みを深めた男は、沙羅の顎から手を離し、上体を起こすとジャケットを脱ぎ乱雑にソファに放った。


 ***

 

「宅配で送ればよかったっ!」


 右手にキャリーケースを引き、左手には工具箱。背中には通勤にも使用しているリュックのいでたち。

 羽田空港からリムジンバスに揺られ、路線バスを乗り継ぎ、八王子郊外にある己の職場にようやっと辿り着いたのである。

 

 工場で使用される工作機械、測定機器の大手メーカーであり、グループ企業では家電なども製造する、日本人なら誰でも知る大企業、南方みなかた精密でアフターサポート技術員をしている東新川ひがししんかわ沙羅さらは工具箱を技術準備室に戻し、それから事務室に足を向けた。

 北九州の客先での機械の納入試運転を終え、職場に戻ったのである。


 出荷時に見逃された初期不良を叩いていたら昨晩の最終フライトに間に合わず、泊まって朝移動で帰ってきたのだ。

 

 彼女は額に浮いた汗を拭った。

 時計を見ればすでに一時を過ぎているが、昼食はまだ。そろそろ腹の虫が鳴りそうだ。


「戻りましたー!」

「お帰りなさい!」


 朗らかに事務員たちが迎えてくれた。部長の席も、課長の席も、その上その他外勤メンバーの席も皆すっからかん。すごく嫌な予感がした。

 移動用のTシャツジーンズ姿のまま、沙羅は立ち尽くした。まだ五月末なのに背に汗が伝う。


「ヒガちゃん帰ってきてくれて助かるー! みんなトラブルで出ていっちゃったから。部長もトラブル対応で井上くんにくっついて頭下げにいっちゃったからさ」

「……なんか問い合わせ、来てます?」

「機械のPC立ち上がらないって。これ電話番号と機械シリアル」


 事務員の小森千里は今年四十一歳。沙羅が頼るベテランだ。沙羅は小森の差し出したメモを受け取り目を落とす。


「メモリの抜き差しでもしときゃ直るんじゃないですかね。電話します。他には何かありました?」

「そうね……あ、社長が交代した! 朝就任挨拶リモートで見たんだけど超! 超! 超! イケメンでさ! ほんっとうにやっばい、今度本社行って本物見て来なよ!」


 沙羅が知りたかったのは客からの問い合わせだったのだが、小森が教えてくれたのは別のニュースだった。心の中でこっそりと苦笑する。


 噂で聞いたことがある。母親がドイツ人、ドイツ育ちで日本の大学に入り、大手銀行に入行。その後、当時社長、現在の会長である父親の熱烈なリクルートを受けて入社したはずだ。あまり表には出てこず、顔は知らなかった。イケメンだとは聞いている。

 年齢は現在二十九歳の沙羅よりも少し上らしい。


 ということは、三十ちょっとだろう。そんな年齢で社長だなんて大丈夫かと思わなくもない。


(ま、ダメダメなら取締役会で引き摺り下ろされるだろうし……株主総会も炎上しそうだし。でもなぁ、その歳で社長はないな……)


「ええ、本社ですか? 先週ユーロ受け取りに行ったばっかりで、正直近寄りたくないです……社長って、例の息子ですよね?」

「そうそう、もうホームページ更新されてるよ! で、父親の方は会長になった」


 社長の息子が新社長になったのだ。なんだ、やっぱり世襲なのかと沙羅はかなり残念に思いながらも電話を手に取ってナンバーを打ち込む。

 彼女は同時に支給のノートPCを立ち上げた。


「お世話になっております。私、南方精密、アフターサポートの東新川と申します」


 器用に電話をかけ、担当者を呼び出しながら沙羅はブラウザを開いて検索エンジンで自社の社名を打ち込む。会社案内を選択すれば、出て来たのは昨日まで社長だった見知った顔であった。彫りが深くてダンディな顔立ち。代表取締役会長、南方健二。


(ということは……代表取締役、二人体制か)


 なるほど理解した。その時だ、保留が解除になり電話口に問い合わせてきた担当者が出た。沙羅は高めの作り声を出した。


「南方精密、アフターサポートの東新川と申します。いつもお世話になっております」


 画面をスクロールした。すると、噂の新社長のご尊顔がそこにあった。沙羅は一瞬息を飲んだ。


(確かにイケメン……あ、しまった!)


「っ! 機械のPC不具合でお電話いただいた件でご連絡差し上げました、この度はご迷惑をおかけして申し訳ありません」


 動揺を隠し、努めて冷静に声を出した。だめだ、不具合対応に集中しよう。

 

 十分後、担当者にPCの中を開けてもらい、思った通りの作業をしてもらうとPCは復旧した。メモリーカードの接触不詳だ。


「小森さん、復旧しました!」

「ありがとう! 社内データ登録しとくね!」

「ありがとうございます。メモリ抜き差しで復旧、様子見で登録お願いします!」

「りょーかい!」


 顧客からの問い合わせは、どんな簡単なことでも社内で対応履歴を残すのだ。本来は自分の対応したものは自分で記載するが、小森はその辺代わりに登録してくれたりする、実にありがたい。


 沙羅は改めて自社ホームページに目を向けた。


「新社長、確かにイケメンですね。小森さん好きそう」

「いやほんと、私も十歳若ければ狙うんだけど!」

「旦那さんはどうするんですか?」


 そう、小森は既婚者なのだ。


「捨てる!」


 その言葉に笑い声が重なった。

 沙羅は新社長の写真を限界まで拡大した。左隣の席の小森が身を乗り出してきた。肩を抱かれる。


「ね、悪いニュースといいニュース、どっちもあるんだけどどっちから聞きたい?」

「……いいニュースですかね?」

「社長、今週末からアメリカに飛ぶんだって、で、来週はヨーロッパ。つまりヒガちゃんと一緒にドイツ出張!」


 変な声が出た。


「え、社長の接待までするんですか、うっわ俄然行きたくなくなってきた! 辞めたい! 会社辞めたい!」

「えー、きっといいもの食べさせてくれるって。これいいニュースじゃなかった?」

「うちの課のおじさんたち、みんなドイツ人はドケチでつまらんって言ってたからそれ、ないかと。しかもドイツってご飯微妙なんですよね? うわぁ面倒……で、悪いニュースはなんです?」


 心の底から嫌な予感がした。沙羅はごくりと唾を飲み込んだ。


「課長のお母さんが入院したとかで、一緒に出張行けないって」

「まじですか……まあ、ご家族の体調不良なら仕方ない」


 悪いニュースとはこれだけか? 小森の目を見つめた。


「となると、代打係長だったんだけど……係長、後ろから車追突されて、顔面強打、社有車大破」


 ラッパー並みに韻を踏んでいる。沙羅は若干の目眩すら感じた。


「えっ……大丈夫ですかそれ!?」

「全治二週間以上かかるってさ。で、新ソフトもハードも操れるのなんてヒガちゃんの他にいないじゃない? だからヒガちゃん、一人でドイツ、頑張ってもらうしかなさそう」

「ってことは社長とふたり……」

「多分社長と秘書さんの三人」

「め、眩暈がするっ……!」


 沙羅は文字通り頭を抱え、ショートカットをかきむしった。


「いいじゃない、イケメンと海外出張! ほら、ヒガちゃん、今フリーでしょ!? 目の保養!」


 確かに彼氏はいない。

 平日は出張に次ぐ出張。だから休みは家のことをしたり料理をしたり、まったりと過ごしたい。

 そうしたら、気づけばもう五年フリーである。


「目の保養になんてならないですよ! 私外国人顔興味ないんですってば……それにしてもこの目の色、黒じゃないですよね」

「えーそうなの? この目はあれじゃない? ヘーゼル? はしばみ色ってやつじゃない?」

「目の保養にもならない外国人顔で悪かったな」


 後ろからバリトンが響いた。

 油の切れた機械のように、小森と沙羅は後ろをぎしりぎしりと振り向いた。


「二十代の社員が、初めての海外出張で一人で業務を背負うことになると聞いて心配して来てみれば、呆れるほど余裕そうだな」


 背後に例の新社長がいた。いつ現れたのだろう、全く気づかなかった。確かに自動ドアが開いたような音がしたようなしなかったような……。

 皆のお疲れ様ですという声も聞こえたような気がしたかもしれない。


 二人は幽霊でも見たかのような大絶叫をあげた。次いで沙羅は飛び上がるように立ち上がった。


 一見してブランドものそうな、つやつやな光沢の美しい濃紺のジャケット。きっちりと同系色のネクタイをしめている。

 暑くないのだろうかとは思ったが、ほとんど黒髪に見えるダークヘアをすっきりと上げていて実に涼やかだ。ちょっと意地の悪そうな笑みを浮かべていた。


 言われなければハーフだとわからない、生粋の欧米系かと見紛うくらいの彫りの深い顔立ちに高い鼻梁。薄めで形のいい唇。

 彼のイントネーションから日本語が母語ではないのだろうなということはかろうじてわかるが、違和感をほとんど感じさせない。


 そして何より、彼の瞳に沙羅の視線の全てがとらわれた。

 緑と薄い茶のグラデーションが織りなす、あまりにも美しい虹彩。


「一緒にドイツに行くことになった、挨拶をしておこうと思ってな」


 社長は細身でありながらも見上げるほど背が高かった。160センチの沙羅が見上げるほどである。 


 彼の隣にはもう一人、同じくらいの身長の男がいた。彼はこちらを見下ろし、実に面白い、といったような笑みを口元にたたえている。きっと社長付きの秘書だろうと沙羅は踏んだ。彼もなかなかの美形であるが、社長には到底敵わない。

 

 本社があるのは丸の内だ。

 わざわざここまで来たのか。東京郊外の八王子まで。

 しかも、自社の社員はパートや派遣社員を加えれば万を超える。社長に顔と名前を認識されるだなんて、想像したこともなかった沙羅は男をぽかんと見上げることしかできなかった。

 男は満足そうな笑みを浮かべ、口を開いた。


「さて、ヒガシシっんかわ……悪い」


 噛んだ。沙羅の苗字をものの見事に噛んでみせた。


(私も電話で噛むからなぁ……)


「苗字長いんで! 慣れてます!」

「……沙羅と呼んでもいいか?」


 そう言って少し目を逸らした男の頬はうっすら赤く染まっていた。なんだかそれがとてつもなくかわいく、そこで少し不思議に感じた。この男、あれ? と。


(若干Subっぽくない?)


 だが、沙羅は冷静を装って口を開く。


「構いませんが」

「社長、この国でいきなり名前で呼ぶとかセクハラですよ」

「うるさいっ! 私のような人間には彼女の苗字は長すぎる」

「彼女が選んで長い苗字になったわけではないとは思いますが」

「お前、いい加減にしろよな?」

「ああ、申し遅れた。第二秘書課の杉山です。杉山康貴ヤスタカ


 社長と漫才をしていた男は、社長を無視するとこちら向かって笑みを浮かべた。

 その堀の深い顔立ちを見て、多分この男もハーフなのだろうと沙羅は悟った。今風のおしゃれなパーマをかけたちょっとチャラそうな、レネとは正反対の見た目である。


「よろしくお願いします。東新川です」


 その時だ、社長が名刺を差し出してきた。嫌味のない程度のふわりと爽やかな香りが漂う。


(文句なしのおしゃれ野郎だ)


「この名刺を渡すのは君が初めてだ、光栄に思うといい」

「……ありがとうございます?」


 高慢ちきすぎていっそ笑えるかもしれない。沙羅は手元の名刺をまじまじと見た。

 代表取締役社長、南方みなかたレネ由春よしはる。ミドルネームがなかなか渋くていい。


「ああ、ドイツで通じる連絡先を書くのを忘れていたな。ペンを貸してくれるか?」


 数年前にノベルティで出した自社のロゴが入ったボールペンを差し出した。一同受け取った名刺も返却する。

 彼はサラサラと数字を書き込んだ。会社支給のIP電話の番号ではない。


(ってこれ……プライベートの番号じゃ?)


「現地で何か困ったらここに電話してくれ」


 颯爽とそう言ったレネは手をひらひら振って、秘書を伴ってフロアを後にした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る