第42話 星見の山脈 3

 土と草の匂い。川のせせらぎの音。

 わずかに瞼を開ける。ぼやけた視界に木漏れ日が眩しい。

 体を動かそうとすると、背中に激痛が走った。


「――けほっ」


 咳き込むと口の中に血の味がした。

 横を向いて、体の奥から込み上げてくる液体を吐き出す。

 その痛みで少しだけ意識がはっきりとしてきた。

 そうだ。たしか、崖から川に落ちて、きっとそのときに気を失ったんだ。


 体はまだ濡れていて、服が張り付いている。

 地面からは、土でも石でもない柔らかな感触を感じる。どうやらアリアは、毛布の上で寝ていたらしい。


 低くかすれた男の声がした。


「……気がついたか」


 まだ焦点の定まらない視界のまま、アリアは声のほうへと視線を向けた。


「……だれ……?」


 アリアの声もかすれていた。かろうじて絞り出した声という感じだった。どうやら、相当弱っているらしい。

 男は質問に答えることなく、アリアに一本の小瓶を差し出した。


「これを飲め……少し良くなるだろう」


 その小瓶に、なんとか焦点を合わせる。どうやら回復のポーションのようだ。

 ふと、そこで思い至ったアリアは、自分のベルトを探った。

 あった。神花の霊薬の小瓶だ。どうやら崖から落ちても割れるどころか失くすこともなかったらしい。運がよかった。


「……大丈夫、です……自分のが、ありますから……けほっ……」


 咳き込みながらも霊薬を一口飲むと、背中の痛みがだいぶ和らいだ。

 ようやくまともに息が吸えるようになったアリアは激しく呼吸を繰り返してから、もう一度、男のほうへと目を向けた。


 黒づくめの男だった。つば広の帽子を被り、襟のある暗色のコートを身につけている。口元にも布を巻いて隠しているため、見えているのは目元だけ。声からして、年はアリアの父親くらいだろうか。

 冷たく、どこか悲しい目をした男だった。


 アリアが上体を起こすと、まるで凍りついたようだった男の表情が少しだけ動いた。


「もう動けるのか。……たいしたものだ」

「私、あれからどうなったの……?」


 動くと、かすかにまだ背中が痛む。霊薬一口で治らないのなら、大怪我だったのだろう。


「……お前は、おそらく崖から転落したのだろう。落ちた先がちょうど滝壺だったから、一命を取り留めた」

「そう……」

「だが……川底に体を叩きつけられてもなお無事でいるのは、お前が運と生命力に恵まれていたからだ」


 生命力。そういえば、フローリアに生命力の加護をもらったから、それが効いているのかもしれない。

 今回ばかりは本当に死んでしまうかと思ったけど、なんとか生き延びることができてよかった。と、アリアは安堵した。


「あなたが、私を助けてくれたんですね。ありがとうございます」


 見ると、男の服も濡れていた。

 おそらく、川に流されているところを助け出してくれたのだろう。


「……ああ」


 素っ気なく返事をしながら、男は作業を始めた。

 木の皮と繊維を削り出し、火打ち石を使って慣れた手つきで火をつける。その種火をあらかじめ集めていた枯れ枝の束へと移し、あっという間に焚き火が完成した。


「火に当たるといい。体が冷えているはずだ」


 アリアはもう一度「ありがとうございます」と礼を言って、焚き火に近づいた。濡れたまま気を失っていた体は、たしかに底冷えしていたため、炎から伝わってくる熱が心地よい。

 本当は濡れた服も脱いで乾かしたほうがいいのだろうが、見ず知らずの他人が見ている前でははばかられる。年が離れているとはいえ、異性の前ではなおさらだ。


 すると男は、アリアから背を向けて言った。


「地面に敷いたものでもよければ、その毛布は好きに使え」


 言われてアリアは、お尻の下に敷かれた柔らかい毛布を見た。

 それは意外にも綺麗で新しいもののようで、土を払えば使えそうだった。

 服を脱げ――ということかな。男は背を向けたまま何か作業をしている。

 アリアは毛布を拾い上げてパタパタとはたいて土を落とし、体を覆い隠すようにかぶると、覚悟を決めて服を脱ぎ始めた。

 革鎧、シャツ、ショートパンツにスカート。それからブーツと靴下。一つずつ濡れた衣服を脱ぎ去る。

 さすがに下着は外さなかった。


 アリアは脱いだものを綺麗に畳んでから、男に声をかける。


「もう大丈夫です」

「そうか」


 男は作業を中断して振り向いた。


 何をしていたのだろうか。彼の手元を覗いてみると、そこには加工した木製の器具があった。先端に小さめの弓のようなものがついている棒状の器具で、反対側には持ち手とレバーがある。

 クロスボウと呼ばれる武器だ。特殊な機構によって銃のように構えて矢を発射することができる飛び道具である。――というのは、すべてゲームの知識であるが。


 どうやら男は武器の手入れをしていたらしい。


「濡れた服は、そこの木の枝に干しておけ。……すぐに乾く」

「あ、はい」


 アリアは言われた通りに低い木の枝に服を干した。濡れた下着姿に毛布をかぶっているだけなので、作業中はやや無防備になって恥ずかしかったが、男はとくに気にした様子もなく焚き火に薪を加えていた。

 一通りの処置が終わって一段落ついたアリアは、改めて挨拶をする。


「あの……。改めて、先ほどはありがとうございます。私は大須、えっとオースアリアです。アリアと呼んでください」

「……エヴァンだ」


 名前を聞くことができて、なんだかアリアは、ほっとした。

 エヴァンと名乗る彼の口数が少なかったこともあって、さっきから息が詰まりそうな気持ちだったからだ。


「エヴァンさんは、こんなところで何をしていたのですか?」

「……」


 エヴァンはしばし沈黙する。

 あまり詮索してはいけなかっただろうか。そうアリアが不安になってきたところで、彼はぽつりと口を開いた。


「狩りだ」


 アリアは首をかしげた。

 狩人。そう言われるとそんなよそおいにも見えるが、このような人里離れた場所まで狩りに来るものなのだろうか。


「……そういうお前は、どうなんだ?」


 たしかに、先に自分の素性を話さなかったのは失礼だったかもしれない。

 アリアはこれまでの経緯いきさつをエヴァンに話した。神花や使命の話は説明しづらいので「冒険者だから」とその辺りはぼかした。


「そうか。仲間とはぐれたのなら、あまり動かないほうがいいだろう。……今頃、お前のことを捜索しているかもしれない」

「はい……」


 それきり、またエヴァンは黙ってしまった。

 何度目かの沈黙だが、今回は不思議と気まずさはなかった。

 口数が少ない彼だが、言葉や行動の節々ふしぶしにある小さな気遣いや優しさ。それに気がついたからだ。

 彼はどんな人なのだろう。気になったアリアは、改めて尋ねてみる。


「エヴァンさんは、この辺りに住んでいるの?」

「敬称は不要だ」

「えっと……じゃあ、エヴァン」


 わずかな沈黙のあと、エヴァンは語った。


「……俺は、各地を旅している身だ。……帰る場所は持たない」

「ふぅん。じゃあ、私と同じだね」

「そうか」

「うん」


 アリアもまた、帰る場所がない。エレノーア教会でお世話になったあとは、ずっとナガルの宿屋で暮らしているのだから。

 少しずつ、日が陰ってきた。夕暮れにパチパチと弾ける焚き火の音。


 アリアはエヴァンのことがもう少し知りたくて、また質問をしてみることにした。


「エヴァンは狩りをしていると言っていたけど、この辺だと何が狩れるの……ですか?」


 他愛のない会話である。

 いずれにしても、服が乾くまではここを動かないほうがいいだろうから。おそらく彼も、アリアを放り出してどこかへ行ってしまうことはないように思えた。


「……普通の動物ではない」

「え?」

「俺が狩るのは、怪物・・だ」


 怪物、それは魔物のことだろうか。

 アリアがそう尋ねる前に、エヴァンは言葉を続けた。


「お前は『穢れの怪異』と呼ばれる存在を知っているか?」




 穢れの怪異。それこそまさに、アリアがこの世界を旅する二つの理由のうちの一つだ。

 アリアの目的は五つの「アウラの花弁」を集めることと、放っておいたら異世界ファウンテールだけでなく現実世界アストリアにまで影響を及ぼすとされる「穢れの怪異」を退治することなのだから。


「うん……知ってる」

「なら話は早いな。俺はそれを狩るためにここに来た」

「穢れの怪異が、この辺りにいるの?」


 穢れの怪異の目撃情報でもあったのだろうか。

 それをアリアが尋ねると、エヴァンは「いや、ない」と否定した。


「だが、俺にはわかる。……奴らは、この谷に現れる」

「どうして?」

疼く・・からな……」


 アリアは首をかしげたが、エヴァンからそれ以上の説明はなかった。

 代わりに、彼は鞘に入った一本の剣をアリアに差し出した。


「あ、私の剣」

「大事なものなのだろう……お前が急流に流され気を失っているときにも、決して手放すことはなかった」


 アリアは剣を受け取り、鞘から抜いてみた。

 銀色に光る刀身。たしかに自分の剣だ。


「ありがとう。エヴァン」


 エヴァンは無言でうなずいた。

 剣を失わなくてひとまず安心したが、もう一つアリアの大事な装備品がある。


「盾はなかった……? このくらいの、小さいやつなんだけど」

「……ないな。周囲にお前の荷物がないか確認してみたが、見つからなかった。……おそらく滝壺の底に落ちているのだろう」

「……そっか」


 盾もまた大事なものだったが、仕方ない。

 その他の荷物は戦闘前に崖の上に置いてきたため、ルイスとシスティナが無事だったら、二人が回収してくれるだろう。

 ――無事だったら。


「ルイス……システィナ……大丈夫かな」


 ぽつりとつぶやくと、エヴァンが横目でアリアへと視線を向けた。


「お前の仲間のことか?」

「うん。崖の上で魔物に襲われて……」

「信じるしかないだろう。まずは、お前自身が生き延びることだ」

「……そうだね」


 なんとなく不安で、心に冷たい隙間風が吹くような気持ちになったが、エヴァンの言う通り、今は自分のことを優先すべきだろう。

 体が温まって、服が乾いたら、二人のことを探しに行くべきかもしれない。エヴァンは何も言わずにアリアの面倒を見てくれているが、いつまでもそれに甘えているわけにもいかないし――。


 そんなことを考えていると、ふと、かすかに音が聞こえてきた。

 茂みをかき分けるような音に聞こえる。人だろうか。一瞬、システィナとルイスが近くを歩いているのかと期待したが、すぐに違うことを悟った。

 草木をかき分けているのではなく、踏み倒すような音だと気づいたからだ。

 その乱暴な音は、少しずつこちらに近づいてきていた。


「……何か来る!」

「ああ……どうやら、匂いを嗅ぎつけられたらしいな」


 魔物だ。草木を踏みつけている音はなくなったが、すでにその大きな足音が聞こえてくるくらいまで近づいていた。


「……行ってくる」


 エヴァンは立ち上がり、腰に下げた革製の鞘から武器を取り出した。

 刃物だ。長いなたのような剣。それが彼の得物らしい。


「お前はここにいろ」

「待って!」


 アリアはそう言って、毛布を握りしめたまま少し躊躇ためらう。

 恥ずかしい。頬が熱くなる。でも、そうも言っていられない。


「……私も戦います」


 アリアは思い切って毛布を脱ぎ捨てると、下着だけのほとんど裸の姿のまま、剣を鞘から抜き放った。


「……無理をするな」

「だ、大、丈夫……!」

「……」


 エヴァンは半ば呆れたようにアリアに目を向けた後、しかしなだめている時間はないと判断したのか、黙って茂みの奥へと入って行った。

 魔物の足音のする方へ。

 ほとんど裸のアリアも、今は少し頼りない剣を手にしてその背中を追った。

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