初めての喧嘩? 後編

 放課後も、悠は和也の元には顔を出さずに、ずっと机に項垂れていた。そろそろ部活が終わっていてもおかしくない時刻だと言うのに、紗奈が顔を出す気配がない。


「先に帰ったのかなあ……」


 スマホを見ても、紗奈からの通知は無かった。連絡履歴を見た悠は、昨日自分がかけた電話やチャットの量に、少しだけ虚しくなる。


「ストーカーかよ」


 悠は机にゴツッと頭をわざとぶつけたら、考える。


 (紗奈に嫌われたら、俺ってどうなるんだろ……。今まで通り、みんなと上手く話せるのかなあ…………)


 そんな事を考えたら、ばからしくなってきた。悠は顔を上げて、嘲笑した。


「どんだけ紗奈に甘えてたんだろ。俺……」


 悠は時計を見あげると、ため息をついて席を立つ。鞄を持ったら、下駄箱に向かった。自分のではなく、紗奈のクラスの下駄箱だ。


「まだ、いるっぽい……」


 紗奈の靴はまだ下駄箱に入ったままだった。悠はまた廊下に戻ると、調理部の活動場所である調理室に向かう。


 その渡り廊下の途中で、端っこに座ってぼーっと地面を眺めている紗奈を見つけた。紗奈の表情は悲しそうで、今もまだ、少し拗ねているようだった。


「紗奈」


 悠の声にピクリと反応する紗奈だが、視線を向けることもなければ、返事もしなかった。地面をジーッと見つめたまま、動かない。


「本当に、なんで怒ってるの?」


 悠が紗奈の隣に座ってそう聞いたら、紗奈がまたピクリと反応した。


 じわりと、紗奈の目に涙が溜まる。紗奈は堪えるような顔をして、唇をキュッと結んだ。


「え……」


 悠は驚いて、紗奈を凝視した。悲しい時に素直に泣く紗奈が、こんな風に涙を堪えているのを見るのは初めてだった。


(素直に涙を見せられない程、俺の事が嫌になったのだろうか……)


 悠はそう思いつつ、紗奈に恐る恐る触れた。


「ごめんね……。紗奈」


 悠がそう言って謝ると、紗奈の目からはついに、大粒の涙がこぼれ落ちた。


「なに、に……、謝ってるのよっ……!」


 紗奈は手で涙を必死に拭いながら、悠を睨む。その表情が、悠の心を抉った。紗奈の悲しみや怒りを理解できないことが、大きな罪のように悠の心を貫いてくる。


「わか、らない……」


 そう言った悠の声は、酷く震えていた。悠も泣きそうだった。


「本当に、わからないんだ……。だから、ごめん…………。わからなくて、ごめんね」


 悠はそう言って、胸を押さえる。久しぶりに息苦しさを感じた。紗奈の方が苦しいはずなのに……。そう思って、悠は自己嫌悪する。


「ごめん。紗奈が何に怒っているのか、教えてくれない……?」


 震える声で悠がそう聞くと、紗奈は小さな声で、言う。涙声だった。


「昨日、女の人といた……」


 その言葉が予想外で、悠は少しだけ顔を上げる。


「? ……母さんのこと?」


 悠がそう聞いたら、紗奈はムスッとむくれた顔をして、ぶわっと堪えていた涙を一気に流す。


「嘘つき。またそうやって誤魔化す! ……っ。悠くんのっ…浮気者ぉっ!」

「わっ!」


 紗奈が悠の胸に飛び込んできた。かと思えば、悠の胸をドンドンと叩く。


「ばかっ! 悠くんのばかあっ!」


 紗奈は鼻を啜りながら、ドンドンと悠の身体を叩いてくる。悠は困ってしまって、紗奈を優しく抱きしめることしか出来なかった。紗奈を引き剥がすのはきっと簡単だが、そうするのは悠の方が絶対に嫌だった。


「痛いよ。紗奈」

「……嘘つき」

「嘘じゃない。昨日は、本当に家族で出かけてたんだよ。父さんの収録が終わるのを待って、横浜駅にあるレストランで食事をした」


 悠がそう言うと、紗奈は思い出したくもなくなっていた、悠と一緒にいた女の人の特徴を口にした。


「悠くん、昨日金髪の人と歩いてた。真陽おばさんは茶髪だもん! あんなに…長い髪もしてないもん!」


 紗奈は叫ぶようにそう言うと、今度は悠の制服をぎゅうっと強く掴んで、身体を固くした。力を入れすぎて、やはり紗奈の身体は震えていた。


「金髪……?」


 悠は紗奈の言葉を聞いて、考える。金髪の知り合いなんて、いない。悠は昨日の出来事を思い浮かべつつ、長考した。


「金…髪…………。え!? もしかして、あれを歩いてたって言ってるの!?」


 悠は、ひとつ心当たりを見つけた。そして、目を丸くして驚いてしまう。ここまで考えなければ思い出すことも出来ないくらい、悠にとっては何でもない些細な出来事だったのだ。


「な、何よ。やっぱり一緒にいたんじゃない!」

「ちょ。違うっ!」 


 紗奈は不安げに顔を上げて、うるうると涙を目に溜めた。それを見た悠が慌てて弁明をする。


「あれは…あの時は、外国の人に駅ビルに入ってる店の場所を聞かれただけで、数分程度しか一緒にいないんだよ!?」


 悠の言葉に、紗奈が一瞬だけ大人しくなる。


「でも、親しそうに近くで話してた……」


 紗奈はそう言葉にすると、また泣きそうになってしまう。グイッと悠に顔を寄せて、口を開いた。


「こんなにくっついて話してたんだよ!?」


 泣きそうになっている紗奈が間近にいるから、悠はつい紗奈の頬を両手で包んだ。そして、優しく撫でる。

 

「それって多分、メモを見せてもらってた時の事だよ。ここどこですか? って。その時確かに顔を近づけたけど、それだけ」

「……本当に?」


 頬を撫でられて少しだけ落ち着いた様子の紗奈が、不安そうに聞いてくる。


「本当に。あの後、母さんもトイレから帰ってきて、あの女の人と会話をしたから。母さんに聞いてみてもいいよ」

「……そう、なの?」


 それでも尚不安そうな紗奈に、悠はムッとする。


「まだ疑ってるの? 俺は紗奈一人だけに好意を伝えてたつもりなんだけど。紗奈からはそう見えなかった?」


 もしもそうなら、悲しい。悠はムッとした気持ちと、悲しい気持ちで複雑な気分になる。


「……ごめんなさい」


 紗奈は頬に触れる悠の両手に自分の手を重ねると、泣きそうに謝った。というか、謝罪を口にした後に、結局また泣いてしまった。


「わ。紗奈……。泣かないでよ」

「だ、だって……」


 紗奈はボロボロと涙を流して、悠に謝る。


「ねえ、紗奈。そんなに泣かないで? 俺と仲直り、してくれる?」


 悠の優しい声と表情に、紗奈の涙腺はもっともっと緩くなってしまう。


「仲、直り……。いいの? 私、悠くんにっ…ひ、酷いことしちゃったのに……っ!」


 ボロボロと泣き続ける紗奈の頬を軽く拭って、悠は紗奈のおでこにコツンと自分のおでこをくっつける。


「いいよ。俺、絶対にやましい事はしないから。何か不安になるような事があったら、もっとハッキリ聞いてよ」


 悠はそう言うと、紗奈の顔から少し距離をとって、ニコッと微笑む。


「不安がらせたみたいで、ごめんね。紗奈」


 悠の優しい微笑みに見蕩れて涙を引っ込めた紗奈だった。しかし、悠の謝罪の言葉を聞いた途端、またぶわっと涙腺が決壊して、涙を流す。


「悠くんは謝っちゃだめなんだよっ。私が悪いんだもん……っ。ごめんね、悠くんっ。ご、ごめんねえぇっ!」


 グズグズに泣くのが止まらない紗奈の瞳に軽くキスをして、悠は小さく笑う。


「早く泣き止んでくれなきゃ、このまま学校で食べちゃうからね?」

「うぅっ…うぇ……。が、学校では、だめぇ……」

「じゃあ、早く泣き止んで? 家に帰ろ?」

「う、うんっ……」

「今日は約束してないけど、紗奈の家に行ってもいいかな?」


 ゴシゴシと涙を拭う紗奈の手を掴んで、悠は空いている方の手で今度は優しく拭ってやる。


「お家?」

「うん。紗奈の顔、大変なことになってるから。説明しなきゃだろ?」


 悠がそう言うと、紗奈の顔色がサーッと変わる。


「ゆ、悠くんが何にも悪くないこと、ちゃんと言わなきゃっ!」


 過保護な真人だから、紗奈が悠に泣かされたと勘違いをされたら、大変なことになるかもしれない。紗奈は別の意味で泣きそうになって、また困ってしまうのだった。

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