阪神大震災後日譚
Fujimoto C.
第1話 阪神大震災後日譚
阪神大震災から数年経った。
その日、俺は大阪ミナミの大衆食堂で遅い夕食をとっていた。夜九時を過ぎたというのに、客は俺一人。仕事帰りのサラリーマンが暖簾をくぐる様子もない。
店内に殺伐とした空気が流れている。
俺は、ただならぬ気配を感じた。この雰囲気、この殺気、震災当時に似ている。不謹慎であるが心が躍った。
俺は、五円玉に三脚が生えたような椅子に座った。座り心地最悪。テーブルには、コーヒーカップの跡が丸くこびりついている。
メニューは、手書きでマジックインキで塗りつぶした跡が目立つ。セロテープでビリビリになった裂け目が補修してある。
日替わり定食(木) 味噌カツ 五百円と汚い字で書いてある。はねた油がメニューにこびりついている。
「すんません! 日替わりテーショク!」
俺が呼ぶと、眉を吊り上げた六十ぐらいのおばちゃんが出てきた。
「揚げるんじゃまくさいし、チンしたやつしかないで! 他にするゆーても、焼肉とかコテンコテンなる奴はやめといてや。フライパン、また洗わなアカンねん!!!」
「ほんなら、焼き魚」
「油がたれる、ゆーーーーーーーーーてるやろーーーー!!!」
「すんません。味噌カツでいいです」
夕食の稼ぎ時に利益率の少ない定食を頼んだ俺が悪かったのだろう。気を利かせて酒とつまみにしておけばよかったかもしれない。
だが、この時の俺は震災の後遺症で肺炎を患い、肝炎を併発して退院したばかりであった。
「はい。味噌カツ定食。味噌汁は今、温めなおしてるねん。片づけたとこやったのに! 今度から、もっと早よ来てんか」
おばちゃんが、バンっと音を立てて丼を置いた。山盛りのご飯が雑に盛り付けてある。縁にご飯粒がいっぱい付いている。おばちゃんは、ブツブツ言いながら奥の四人掛け席に行った。異様なムードは、そこから漂ってくる。俺は、新聞を広げてそーっと覗いた。
「あんたもなぁ。しょっちゅうしょっちゅう休まれたら困るねん! なんぼ、気楽なパートやいうても天気予報みたいな勤務されたら困るねん」
何やら賄いを食べながら従業員を説教している様子だ。
「はぁ……」
ヨボヨボのお婆さんがうなだれる。
「あんたの旦那が震災で寝たきりになって病院に見舞いに行かなアカンのは分かるよ。そんでも休みすぎや」
「でも、私は仮設を追い出されたら生活が……。貯金もしとかなあかんし」
「まったく。被災者被災者被災者、どこへ行っても被災者。被災者は、あんただけ違うんよ」
爆弾発言が飛び出した。
「あんたが被災者いうんなら、私も被災者や!」
「……」
「そりゃ、ここは神戸から遠いよ。あんた何ゆうてんねんって思ってるやろ? でもな、震災で店の売り上げが半分以下になってるねんで。苦しい苦しいいうんやったら、店長店員二人でギリギリ回してるのに、しょっちゅう休まれる私も被災者と考えてんか!」
「私も夫が入院してギリギリで」
「あんたは援助があるやろ! 援助があるんちゃうんか? ウチの店には無いんや!」
「すんません」
「本当にすまないと思うんやったら、何とかしてや、この状態!」
飯が不味くなったという程度の問題ではない。けったくそ悪い。俺は黙って五百円玉を置いて立ち去った。ありがとうございましたの挨拶どころか、怒鳴り声がまだ続いている。
大震災という極限の人間の醜悪がここにもあった。
人心の荒廃。
どちらが正しくてどちらが間違いだろう? 追い詰められた者同士の利害が衝突しているだけだ。譲歩すれば死ぬしかなく、互いに譲れば共倒れる。今は、人も物も神戸がむさぼっている。それが客足や求人に響いているのだろう。被災者の定義を広げれば、おばちゃんも被災者だ。
俺には何が正義か分からない。しかし、絶対的な真理はどこかにあるはずで、それはめいめいが悩み苦しんで探すしかない。
主(しゅ)に縋るのもいいだろうが、見守ってくれるだけで何も解決してくれない。自分で発見するのだ。生きるという現実に隠された何かを。
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