7.あなたの世界

 ――数日後、図書館第1階層。


 その日はUNCHESの大規模な会議が行われていた。各支部、各部門からの報告とプロジェクト・コレオグラフィーの総括が行われる総会。リンネと美空は並んで、湾曲した巨大なスクリーンの前に立っていた。


 最高意思決定機関である評議会の面々はもちろん、ネブラやドロリスなどの主任クラスの技術者、ヘイマン博士やユキナなどの専門家も出席している。


「観測可能な宇宙の状態は以上です。宇宙論的な見地からは、本プロジェクトは成功したと結論できます」


 白衣を来たアジア人男性が映していた資料を消しながら言った。


「では次にターミナル管理部門から。リサ・ヘイマン博士」


「集合的無意識を機械的に走査した結果ですが……」


 ヘイマン博士が資料を提示しながら説明を始める。集合的無意識に特段の異常は見られず、人類の同一性も確保されているが、特異事象は残存しているとのことだった。


「それはプロジェクトが成功したと捉えていいのですか?」


 評議会の一人が質問する。


「はい。特異事象はもともと天球の中枢部。その残存をもって失敗とは言えません」


「なるほど。わかりました」


 その後も様々な議題が取り上げられる。複層現実nの現実性変動について。他現実への影響について。図書館の解体について。


 そして、その時が来た。


「では最後に、司書との特約事項についてですが」


 全員の視線がリンネに注がれる。


「ミス・ミカド。内容を開示して頂けますか?」


「はい」


 美空もリンネを見た。

 彼女は既にその願いを知っている。ここから出ること。外の世界に行くこと。リンネの役割は終わった。もうこの閉じた図書館に居続ける必要もないだろう。


「外の世界へ行くことを希望します」


 静かに宣言した。


 会議は一瞬静まる。それは言葉を無くしたというよりも、噛み締めているような感じだった。


「希望を受け入れましょう。ミス・ミカド」


 評議会の一人、白髪の黒人女性が穏やかな口調で言った。


「どこの国での生活を希望されるのでしょうか?あなたは国籍上は日本人ですが……」


 別のメンバーが問いかける。


「財務部からは生活保障の準備もあるとお伝えしておきます」


 評議会ではない別部門の男性が食い気味に発言した。


 教育。生活。市民権。そんな話が大人たちの間で始まった。


「……いいえ」


 リンネが芯のある声で言うと、ガヤガヤと相談をしていたメンバーが一斉に沈黙した。


「私は……」


 リンネは一瞬美空の方を見ると、スクリーンに向かって言った。


「基底現実で暮らすことを希望します」


 今度こそ会議のメンバー全員が言葉を失った。

 その中でネブラとドロリスだけが、どこか満足げな顔をしている。


「……ミス・ミカド、他現実への移住はさすがに……」


「『なんでも1つ願いを叶える』。それが特約事項だったはずです」


 ヘイマン博士も顔負けの毅然とした態度でリンネが応じる。


「……実行するかどうかは一旦置いておいて、現実的にそれは可能なのかな?技術主任」


 ずっと黙って会議を見守っていた評議会の一人がネブラに話を振る。

 その言葉を受けてネブラは口を開いた。


「可能か不可能かで言われれば、可能っす」


 ざわざわと困惑したようなざわめきが広がる。


「簡単にご説明しましょう。リン……じゃなかった、ミス・ミカドとミス・アヤカワは現状、意識場を介して強いリンク状態を維持しているっす。なのでミス・アヤカワが退去をしていけば、それに引っ張られるようにミス・ミカドも基底現実へ転移していくと考えられるっす」


 再びざわめきが場を支配する。


「この現実への影響は?」


「宇宙が上書きされて確定した以上、なにも。通常の漂流者が帰っていくのと同じっす」


 ばっさりとネブラが言い切る。


「あとはそれを認めるか否か、ということか」


 評議会の男性は顔の前で手を組んで考え込む。

 と、会議のメンバーの中から声が上がった。


「よろしいですか」


 声の主はヘイマン博士だった。


「どうぞ、ヘイマン博士」


 司会を務めるアフロヘアの白人女性が言う。


「私は認めるべきだと考えます」


 その言葉に美空は思わず目を見開いた。あれほど厳しく接していたヘイマン博士から、そんな言葉が出るとは思ってもみなかったからだ。


「それはなぜ?」


「彼女は誰にも出来ない仕事をやってのけた。その功績に対する見返りとして。そしてなにより……」


 ヘイマン博士は小さく笑みを浮かべて言った。


「大人が子どもとの約束を違えてはなりませんから」


 彼女の言葉に、全員が沈黙せざるを得なかった。

 全員が考え込んでいる。


 沈黙を破ったのは、評議会のメンバーの一人だった。


「決議を取りましょう。ミス・ミカドのこれまでの功績と、子どもの権利を鑑み、特約事項の実行に反対の方は」


 誰も手を挙げず、また声も上げなかった。


「では全会一致ということで。ミス・ミカド。あなたの希望に沿うようにしましょう」


「……っ。ありがとうございます!」


 勢いよくスクリーンに向かって礼をするリンネ。


「詳細は技術主任と相談しながら進めてください。あなたのこれまでの貢献に感謝を」


 評議会のメンバーの女性はそう言うと、美空に視線を映した。


「ミス・アヤカワ。漂流者にもかかわらず、半ば強制的に協力をさせてしまったこと、ここに謝罪します」


「いえ、それはもういいんです」


「あなたのことは責任をもって基底現実へお送りします。ご安心ください」


「ありがとうございます」


「UNCHES総会、議題は以上ということでよろしいでしょうか?……では、これで解散とします。議事録は後ほど」


 司会の女性が言うと、中空の巨大なスクリーンは消えた。


「よかったね、リンネ」


「はい!……でも、驚かないんですね、美空さん」


 願いの中身を知っていたことを伝えるタイミングを、ついぞ逃してしまっていた。


「実はね……」


 美空はリンネに、深層に落ちた時にそれを知ったことを伝えた。


「ごめん、盗み見みたいなことして。それにそのこと伝えるタイミングもなくて」


「いえ、気にしないでください。知られて困るようなことでもないので」


 リンネは少し困ったような笑みを浮かべながら言った。

 それから思い出したようにウィンドウを開くと、リストの中から1つのアドレスを呼び出してコールする。


「なんですか、リンネ」


「先程はありがとうございました、ヘイマン博士」


 相手はヘイマン博士だった。

 確かに先程の会議は彼女の発言によって大きく動いた感じがあった。


「当然のことを言ったまでです」


「それでも、ありがとうございます」


「困りましたね。あなたからそんなに感謝されるとは」


 珍しく本気で困った顔を見せるヘイマン博士。

 会議の時の笑顔といい、今日は見たことのない表情ばかりだ。


「あの、ユニとノラは」


「あの子達ももうすぐ外での暮らしが始まります。話しておきますか?」


「はい、ぜひ」


「わかりました。少し待っていなさい」


 ヘイマン博士はウィンドウを開くと何箇所かタップする。

 2,3分ほどして、部屋にユニとノラが入ってきた。


「私は一旦退出します。3人で話していなさい」


「ありがとうございます」


 そう言うとヘイマン博士は通信を維持したまま踵を返し、研究室から出ていった。


「リンネ、その、なんて言ったらいいかわからないんだけど」


 いつもすらすらと言葉を並べるユニが珍しく言い淀む。


「……ありがとう。あなたのお陰で私達もやりたいことができる」


「よかった。ほんとに。これからどうするの?」


「UNCHESの生活保障はあるけど、仕事を探そうと思ってるんだ」


「仕事を?学校じゃなくて?」


「そう。リアルに社会を感じたいの。学校にいるよりも、もっと」


「それ、とってもいいと思う」


 リンネは微笑んで言った。


「ほら、ノラ。これが多分最後なんだから」


 隣でそっぽを向いて腕を組んでいたノラにユニが声を掛ける。


「……結局あたしたちの出番はなかったけど、さ」


「うん」


「なんていうか、その、あーもう!」


 組んでいた腕をほどいて、ウィンドウの先のリンネを真っ直ぐに見据える。


「感謝してんだよ!ここから出られるのもお前のお陰だからな!」


「うん」


「ったく、その余裕そうな感じ、やっぱ気に食わねー。でもまあ……元気でな」


「ありがとう。ノラも元気でね」


「あとそこのアンタ!」


 噛みつくように美空を指差しながらノラが言う。


「ちゃんとリンネのこと見とけよ。こいつほんと世間知らずだからな!」


「……わかったよ。約束する」


「ユニ、ノラ。二人とも、元気でね」


「リンネも、元気で」


 ユニがそう言うと、二人は研究室から退出していった。

 しばらくしてヘイマン博士が戻ってくる。


「しっかり話せましたか?」


「はい。ありがとうございました」


「リンネ。あなたの名はこの複層現実で後世まで語り継がれるでしょう。あなたは、あなた達はそれだけのことを成し遂げたのです」


 世界を救った英雄。陳腐な言葉だしそんな実感も湧かないが、とにかく自分たちの成すべきことは終わったのだ。


「リンネ、ミス・アヤカワ。改めて感謝を」


 ヘイマン博士が頭を下げる。

 リンネとの連絡は十年以上続いてきたが、こんな博士を見るのは初めてだった。


「リンネ、これは図書館管理者ではなく、一人の人間としての言葉です。――どうか、幸せに」


「……はい!お世話になりました。ヘイマン博士」


 博士が会議で見せた小さな笑みを再び浮かべると、ウィンドウが消えた。






 ◆






「ユキナ先生」


「リンネ、綾川さん。改めて、本当にお疲れ様でした」


 リンネが次にコールした相手は、ユキナだった。


「先生こそお手紙とネックレス、ありがとうございました」


「支えになったようでなによりだわ。あ、そうだ」


 ユキナはデスクの引き出しから小さな透明のパネルを取り出した。


「ミコトとカスカさんの写真がまだあるんだった。これを渡さないと。綾川さん」


「はい?」


「この記録媒体は基底現実でも使われているものですか?」


「いえ、初めて見ました」


「そうですか。……そうしたら印刷したものを転送するから、持っていって、リンネ」


 すぐに送るからと言って、少しの間ユキナは画面外に消えた。


「今印刷と同時に保管庫へ転送を始めたわ。確認してね」


 リンネはウィンドウを掴むと部屋に向かって走り出す。美空もそれを追いかけた。簡易保管庫の前で別のウィンドウを開くと、そこには確かに項目が追加されている。タップして保管庫の蓋を開けると、束になったL判くらいの写真が置かれていた。


「わあ!ありがとうございます!」


「ふふ。あまり長く思い出話をできないのは申し訳ないし残念だけれど、あなたは集合的無意識の中でご両親に会ったのだったわね」


「父とは直接……母とは、美空さんを介して会いました」


 リンネにとってはそれで十分だった。決してユキナの話に価値を見出していないわけでは決してない。直接父に会い、母の残留意識場に触れ、二人の思いを直接受け取れた。その事実が何にも勝るものだった。


「綾川さん」


「はい」


「リンネを、よろしくお願いします」


「はい」


(ほんとに大切にされてたんじゃん、リンネ)


「リンネ」


「……はい」


 寂しそうな声でリンネが答える。


「行ってらっしゃい」


 さようならとは言わない。それがユキナの大人としての在り方を示していた。


「はい!行ってきます!」






 ◆






 最後に1つだけ、しかし最大の問題が残っていた。それは、なぜか発生しない美空の退去。


 初めて会った時にリンネが言ったように、確実に起こることは間違いないのだが、それが未だに起きない理由がわからなかった。こればかりはリンネの知識の範疇を超えている。


「というわけで、あたしの出番っすねー」


「うるさい、姉。今は私が話す番」


 ネブラとドロリスの姉妹がウィンドウに映っていた。


「そもそも漂流者である以上は退去が起こるはずだと思うんですが……」


 リンネが困ったように言う。


「ん、ミス・アヤカワは基底現実からの漂流者。高い現実強度を持っている。それはその通り。けれど他現実からの漂流者である以上、不安定な複層現実に存在は根付かず、必ず退去の転移が起こるはず。それがなかなか起きないのはなぜか」


「なぜ、なんですか?」


「UNCHESの現実性保全システムのせい。そこはこの世界の中でもっとも現実強度が高く保たれている場所。図書館の現実強度とミス・アヤカワの現実強度との差が小さく、現実性の流動が起こらないでいる。それが原因」


「それなら、これまでの漂流者の人達は?」


「単純に彼らの現実強度が低かったから。図書館の現実強度との差で流動が起き、それによって退去が発生した。とてもシンプル」


 ドロリスが淡々と説明する。

 まさか図書館の現実性を保障するためのシステムが、他現実の人間である美空を縫い留める役割を果たしていたとは。灯台下暗しとはこのことだとリンネは思った。


「つまり……」


「そう。図書館を止めちゃえばいい。それだけの話。とても簡単」


 止める。それは図書館全システムの停止を意味する。以前であれば考えられない話だが、この図書館は宇宙新生とともに役目を終えた。会議で解体の話すら上がっていたくらいだ。現場の一存で止めても問題はないだろう。


「現実性保全をすべて切れば、おそらくミス・アヤカワの退去が始まる」


「あたしからも説明!一度極点に至って観測者になったL+のリンクは、そう簡単に切れるもんじゃないっす。だから会議でも説明したように、ミス・アヤカワの退去が始まれば、同時にリンちゃんも一緒に基底現実へ引っ張っていかれると予想できるっす」


 ネブラがドロリスに負けじと、その体を押しのけるように画面を占領して言う。

 ドロリスはそんなネブラを突き飛ばすと、説明を続けた。


「基底現実にリンネが行って何が起こるかは予測しきれない。出たとこ勝負。修正力が働いて追い返されるか、それとも迎え入れられるか。どっちか」


 世界の修正力。あるべき姿になろうとする、現実に備わった理の力。

 それがどう働くかは誰にも予想できない。


「……それでも可能性があるのなら、私は試してみようと思います」


「ん、わかった。それでリンネの願いが叶うなら、協力は惜しまない」


 ドロリスが親指を立てて言う。


「リンちゃん、どうなるかわからないっすけど、無事に基底現実に行けたら今まで出来なかった分、自由に暮らしてほしいっす」


 突き飛ばされてフレームアウトしたネブラが、画角内に戻って眼鏡を直しながら言う。


「私もそう思う。リンネ、あなたはとてもとても重大なことをやり遂げた。お別れは寂しいけど、あなたのやりたいことをやってほしい」


「ネブラさん……ドロリスさん……」


「やることは二つ。まずは図書館の現実性を支えている全世界のUNCHES支部とのネットワークを切断する」


 現実性を支える仕組みは図書館本体にも備わっているが、ドロリスの言うように全世界のUNCHES支部それぞれがアンカーの役割を果たすことで、その保全体制をさらに強固なものにしていた。


「そして図書館のシステムを停止させる」


 ドロリスはそう言うとウィンドウの向こうで凄まじい速さでコマンドを入力し始めた。

 しばらく猛烈に手を動かした後、言った。


「……図書館をUNCHESの現実性ネットワークから切り離した。そこは今スタンドアローン状態」


「あとはそっちでシステムを停止させれば完了っすね。おそらくそれで退去が始まるかと」


「あとは世界を信じるだけ。ミス・アヤカワが元の時間座標に戻り、リンネの存在が基底現実に根付くことを祈る」


「ありがとうございます。ネブラさん、ドロリスさん。なんとお礼を言っていいか……」


「お礼はまだ早い。リンネにもシステムをシャットダウンする役目が残ってる」


 最終的なシャットダウンの権限は、現状リンネの手にあった。

 この複層現実での最後の作業だ。


「姉、そっちは」


「急かさなくてもモニターしてるっすよ。ミス・アヤカワから現実性の流出を確認したっす」


「二人とも、そろそろ荷物をまとめたほうがいい」


 二人は通信を維持したまま、それぞれの部屋に走っていった。






 ◆






 美空は漂着時、荷物を持っていなかった。つまり荷物を置き去りにして、美空自身だけが転移してしまったということだ。


(荷物か……どうなってるんだろうな)


 簡易保管庫を操作し、漂着時に身に着けていたブラウスとワイドパンツを取り出す。


(私より、リンネを手伝ったほうが良さそうだな)


 着替え終わった美空はそんなことを考えていた。

 部屋を出て、開けっ放しになっていたリンネの部屋のドアを軽くノックする。


「あ、美空さん。もう準備できたんですか?」


「まあね。服だけ。荷物は最初から持ってなかったし。それよりそっちは大丈夫?」


「はい、えーと、大丈夫じゃない、です」


 困り顔でリンネが言う。無理もない。外出用の荷物を作る機会などなかったのだ。

 部屋の床には様々な物品が広げられていた。


「こういうのは優先順位が大事なんだよ」


「優先順位、ですか。だったら……」


 リンネはボストンバッグのポケットに、ロケットペンダントとユキナから送られてきた写真の束を入れた。それから本を何冊かとお気に入りの文房具。黒いパーカーを2着。スカートとショートパンツを1着ずつ。下着やハンカチ類。


「あっ、そうだ」


 小さく呟くと、右手首のバングルに触れた。統括個体のくーたが滑らかに部屋に入ってくる。リンネはくーたを両手で掴むと、バッグに押し込もうと奮闘し始めた。


「ちょ、ちょ、さすがにくーたは入らないって」


「でも、連れて行きたくて」


「手で持っていったらいいんじゃないの?」


「あ、そうでした。焦ってて……」


 恥ずかしそうに笑う。

 リンネはボストンバッグを肩に掛けて、くーたを両手で持つ。


「準備できました!」


 本当にどこかへ旅行にでも行くかのような出で立ちのリンネに、美空は思わず笑みが溢れる。


「準備できたっすかー?」


 ネブラの声がした。

 部屋を出ると、ウィンドウがどこからか二人を追いかけるように浮遊してきた。


「第1階層中央部に立ってくれます?そこがこの図書館の術式の中央部なんすよ」


「中央部の必要があるんですか?」


「ん、図書館の現実性保全の術式を反転させる。そうすると退去が始まる、と思われる。その影響を一番受けるのが中央部」


 二人は入り組んだ通路を通り、天球が設置されたままの中央部に立った。


「んじゃリンちゃん、やっちゃってください」


 リンネは通信の先のネブラとドロリスに向かって頷くと、複数のウィンドウを一気に開いた。

 くーたを小脇に抱え、コマンドの入力を始める。


「図書館内の全システム、シャットダウン開始。現実性保全アンカー全基停止確認、外装欺瞞システム停止確認」


 ほんの一瞬、リンネの手が止まった。


「天球……停止確認」


 天球の光が弱まっていき、やがて消えた。そこにあるのは無機質な黒い球体だった。


(お父さん、行ってきます)


「この通信もそろそろ終わりっすね。リンちゃん、あたしはキミに会えて楽しかったっす」


「ん、私も。リンネのこと、好き」


 姉妹がそれぞれリンネに言葉をかける。


「どうか今度こそ自由に。キミの人生はキミだけのものっす」


「行ってらっしゃい、リンネ」


「はい。行ってきます。今まで本当にありがとうございました。ネブラさん、ドロリスさん」


 リンネと美空は手を繋いだ。二人の輪郭が光で縁取られていき、ゆっくりとその姿がぼやけていく。やがて波紋が消えていくように、二人は形を失って空間に溶け、縁取っていた光も粒子となって霧散した。


「行っちゃった。姉、泣いてるの?」


「んなわけないっす。ドロリスこそ」


「私は泣いてない。言いがかり」


「でもまあ、これで」


 ネブラは眼鏡を外して天井を見上げた。


「全部終わったんすねえ」






 ◆






 車の行き交う音。たくさんの人の話し声。温かな日差し。

 美空がゆっくりと目を開くと、そこは駅前のベンチだった。


(帰って、来た?)


 ビルと一体化した駅舎を見る。入口の上に掲げられている看板には、良く知っている駅名が書かれていた。あの日、終電に乗って美空が帰るはずだった駅。彼女の住む街。


 ふと、右肩に重みを感じた。

 ボリュームのあるボブヘアが頬をくすぐる。


「リンネ、起きて」


 優しく肩を揺する。


「んえ、あれ、私……」


 ぼんやりとした様子でリンネが目を覚ます。


「着いたよ、リンネ」


「……!」


 ベンチからばっと立ち上がる。

 その格好はいつものパーカーとスカートではなかった。上下の濃紺に襟部分がブルーグレーのセーラー服。リンネは自分の体をぺたぺたと触りながら、不思議そうに言った。


「いつもの制服、なんで休みの日に?」


「……いつもの?」


 そういえば美空の膝の上には、転移時に置いてけぼりになったバッグが乗っている。慌てて中身をかき回し、スマートフォンを取り出して日付を確認する。あの日の翌日、土曜日の正午。


「どういうこと……?」


 リンネの服装や反応といい、自分の荷物や時間といい、状況が飲み込めない。

 ひとまず基底現実に帰ってこられたことだけは理解できた。


「美空さん、あの、とりあえずどこかに入って話しませんか?」


「そう、だね。お昼だし。お腹すいてる?」


「私はそこまで」


「そしたら軽食でいいか」


 美空はバッグを肩に掛けて立ち上がると、リンネを連れて歩き始めた。


 二人はチェーンのカフェに入ると、レジで注文を済ませて品物を受け取った。

 手近な二人がけの席に座ると、同時に息をつく。


「えーと、状況を整理したいんだけど」


「私もです」


「リンネ、何をどこまで知ってる?」


「私は美空さんの親戚で、両親を亡くして美空さんと一緒に暮らしている。今は何駅か先の高校に転入して少し経った、という感じですかね」


「私もそんな感じ。リンネが小さい頃の記憶まである……」


「多分ドロリスさんが言っていたように、私が『迎え入れられた』ことで、辻褄合わせがされたんだと思います」


「なるほどなあ」


 この分だと戸籍の類もすべて都合の良いように書き換わっているのだろう。

 サンドイッチを食べながら、美空はそう思った。


「不思議な感覚です」


 リンネはアイスカフェラテのグラスにストローを刺して、一口飲むと言った。


「知らないはずなのに経験した記憶がある。あれだけ行ってみたかったカフェにこうして来て、すごく嬉しい気持ちと同時に、なんでもないことと感じる気持ちもある」


 変化はあれど、もともとの世界に戻ってきた美空とは違い、リンネは二重の人生史を持っているような状態だ。


「でも、間違いなく言えることがあります」


 からん、とグラスの氷が音を立てた。


「本当に嬉しいって気持ち」


 はにかみながらリンネが言った。






 ◆






 二人はカフェを後にすると、街をふらつき始めた。

 リンネは手ぶらだったが、図書館で用意した荷物は美空の家にある。新しい記憶がそう伝えている。だから特に気兼ねもなく、二人は『いつもの風景』の中を歩いていく。


 新しい記憶の上ではリンネのセーラー服姿を知っているが、実際に見るとまったく印象が違った。図書館ではルーズなパーカー姿だった反動か、とても大人びて見える。もともとの色白で穏やかな印象を濃紺のセーラーと膝丈のスカートがぐっと引き締めていて、とても似合っていた。


 二人は駅ビルの中に入ると、店を見て回った。

 飲食店。雑貨店。書店。服飾店。

 リンネは記憶より体験のほうが勝ったらしく、どれも興味深そうに見ている。


 フロアを上がると、化粧品売り場が目に入った。


「リンネ、ちょっと寄って良い?」


「はい!」


 美空はジェルネイルやリップグロスの比較的低価格なものを見ながら、リンネに聞いた。


「ねえ、好きな色とかある?」


「好きな色、ですか……強いて言うなら青、ですかね」


「ほうほう、なるほどね」


 そう言うと美空は眼の前に並んだ色とりどりのネイルの小瓶から、空色のものを取った。


「この色、好き?」


「……きれい。とっても良いと思います!」


「おっけー、ちょっと待っててね」


 店の奥に消えていく美空。リンネはどことなく自分が場違いな気がして、店の前で気まずそうに待っていた。しばらくして小さな紙袋を持った美空が戻ってきた。リンネに向かってそれを差し出す。


「はいこれ」


「え?」


「プレゼント。さすがに学校にはして行けないけど、休みの日なら大丈夫でしょ」


「でも」


「お祝いだよ。この世界に来られたお祝い」


 こんなもので申し訳ないけどね、と美空は笑って言った。


「ありがとうございます……!とっても嬉しい……!」


 リンネは紙袋を大事そうに受け取った。


 その後は更に上階に上がり、幾つかの店を見た後、屋上へ行った。

 そこは簡素な庭園のようになっており、緑を囲むように木製のベンチが並んでいる。


 二人は中央の芝生を背にしてベンチに座った。

 高層階にいるせいか、街の雑踏が遠く聞こえる。


 美空はリンネの心象風景を思い出していた。夕日をバックに街を見上げながら空に落ちていく風景。今リンネは、諦めていたその街の中にいる。


 その存在は基底現実に根づき、最初から存在していたものとして辻褄が合わせられた。

 リンネの存在は、この世界に肯定されたのだ。


「空、広いですね」


「そうだね。私もここまではあんまり来ないから、新鮮かも」


 二人は空を見上げる。

 飛行機雲が青の中に白線を引いていた。


「美空さん」


 見上げたまま、リンネが語りかける。


 街も人も変わることなく、今日を営み続ける。

 それが当たり前ではないことを、二人は知っている。


「私、複層現実から退去する瞬間に聞いた気がするんです」


「ネブラさんたちのこと?」


「いいえ、そうじゃなくて」


 星明かりは小さくて、遠い。

 けれど人はそこに向かって、手を伸ばし続ける。


「お父さんとお母さんの声で」


「……なんて言ってたの?」


「……頑張ったね、って」


 真昼の月が、二人を見下ろしていた。

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