5.天の絨毯
切り替わった美空の意識が捉えたのは、無限に広がる光の海だった。
無数の光点がそれを作っている。
空間には天球と同じ薄い緑の光が満ちていた。宇宙の色を変えればちょうどこんなふうに見えるかもしれない。
(きれい……)
美空は想像を超えた光景に圧倒されていた。人間の意識が作るもう一つの現実。それがこんな場所だったなんて。
「美空さん、気分や感覚は大丈夫ですか?」
呆気に取られている美空に、左隣のリンネが声を掛けた。
「大丈夫。今のところは」
彼女はその言葉に安心した表情で頷くと、美空に説明を始めた。
「私と美空さんは今二人で一人の状態にあります。これから私がこの空間に満ちる意識をデータとして図書館へ送ります。美空さんはダイブ前に説明した通り、私との繋がりを維持したまま待機していてください」
「わかった」
美空とリンネの右手首には、現実空間で着用していたバングルの代わりに光の輪があり、その間を光の線が繋いでいる。ネブラが設定したリンクが可視化されたものだ。
「心理結界、部分開放」
リンネは前方に移動して、そう呟くと両手を広げた。
「捕集、開始」
音声コマンドに呼応して、システムがリンネの能力を最大値まで活性化させる。周囲を星々のように漂っていた光たちが、次々とリンネの意識体に引き寄せられ、吸収されていく。
『バイパス稼働正常。意識場活性値、安全域内。現実強度、カテゴリー7』
二人の頭の中に直接システムの音声が流れる。
(想定通り、美空さんの現実強度が私の能力を強化している)
いつものダイブ作業中なら緩和していてもかなりのフィードバックを受けるはずが、美空のお陰で今のところそれが一切ない。
(これなら、やれるかもしれない)
リンネは両手を広げて意識の光をその身に受け入れながら、制御システムに音声コマンドを入力する。
「形象化リミッター、限界値までカット」
リンネの父を襲った形象化。それは意識場が一定以上に励起した際、極稀に起こる現象。今のシステムにはそれを防ぐためのリミッターが設定されているが、リンネはそれを限界まで低下させた。それは枷を外し、リンネ本来の意識場出力を発揮することを意味する。
光の粒子がリンネの体に引き寄せられるスピードがどんどん上がっていく。粒子として視認できていたそれは、今や無数の線のように見えている。
「コードアレイ6基解凍。出力最大へ……!」
(意識場の出力を……もっと!)
意識場の出力が加速度的に上がる中、リンネの体に変化が現れた。リンネの背、肩甲骨のあたりから眩い緑の光が噴出する。それは乱流となって吹き出したあと、ゆっくりと形を成していった。
(あれは、翼?)
リンネから溢れ出した膨大な意識場のエネルギーは、薄い緑に発光する6枚の大きな羽になった。
意識場が最大まで励起したことで、その身は人の域を超えるギリギリのところまで来ていた。
(これで……いける……!)
リンネの精神を莫大な数の意識が通り抜けていく。まるで凄まじいスピードで人波の中を飛んでいるかのようだ。複層現実nに生きる人々の思考が、感情が、記憶が、その身を突き抜けて図書館のストレージへ送られる。
「リンネ!」
その身を案じた美空が大声で叫ぶ。
「大丈夫です!今のところは問題ありません!」
正面を向いたまま、右後方に浮かんでいる美空に聞こえるように声を上げる。
「大丈夫なの?かなり、その、やばそうに見えるけど」
「美空さんがいてくれているおかげで大丈夫なんです。――コードアレイ7基解凍。アドユニット保護を優先」
意識場を直接操作するMNDL言語で構築されたコードが、光のラインを通じて美空に送られる。
それらは美空の意識場に作用し、リンネとの繋がりを保ったまま、集合的無意識からのフィードバックを抑える。
(私の願いは……この先に……)
美空が深層で触れたリンネの願い。今の彼女を突き動かすのは、それを叶えるという強い意思だった。その意思はさらにエネルギーを高め、意識場の海からプラン予定値を遥かに超える速度で意識データを吸引する。
加速度的な意識場出力の増大は、リンクを通して美空にも影響を及ぼしつつあった。彼女の意識にリンネの感情が流れ込み始める。
使命感、不安、それから期待。
流れ込んできたリンネの感情に影響されるように、美空もまたリンネに対する強い感情が惹起される。美空の記憶の中で、暗闇の空間にいた幼いリンネが振り向いた気がした。
そしてリンネ側と美空側。双方の意識場が光の線を通じて繋がる。
その瞬間、美空は幻視した。
天地が逆転した夕焼け空の中、彼女は空に向かって落ちていく。ひゅうひゅうという風切音とともに、体全体で風を感じる。
(リンネの心象風景……そっか、そういうことだったのか)
街を見上げながら空に落ちていく世界。リンネにとって社会とは、世界とは、見上げる星と同じものだった。あそこに行けたらいいのに。たぶん無理だろうけど。リンネにとって外の世界に行くことは、自分の力で空を飛ぶようなものだったのだ。美空はようやく理解した。リンネの持つ諦観と願いの強さを。
(願いを叶える……私はせめて)
重力が反転する。美空は街に向かって落ちていった。ビルを突き抜け、雑踏を突き抜け、星の中心に向かっていく。
美空がはっと気がつくと、眼の前では変わらずリンネが大きな翼を広げ、意識の海と繋がっていた。
「美空さん、大丈夫ですか?」
「こっちは大丈夫だよ」
「良かったです。こちらの作業にも支障はありません。とっても順調です」
トップギアの状態にも慣れたのか、首だけ振り向いてリンネが笑顔を見せる。
『意識データ捕集率、
二人の頭にシステム音声が響く。
「損傷率を確認」
すぐさまリンネが言う。
『ユニットL+、損傷率確認……意識場減衰0.11。損傷なし』
あれだけの意識場を集めたのにこの程度。リンネは改めて美空の存在の大きさを感じていた。
今までの自分ならば、今回のようなことをしたら確実に数日寝込んでいたか、最悪後遺症が残るほどだったはずだ。
(これなら、もしかしたら……)
リンネの頭に一つの考えが浮かぶ。
プロジェクトに必要な意識データの総量は計り知れない。だがこの十数年、リンネはこの空間で作業を続けてきた。器はもうすぐ満ちる。今のこのL+状態なら、もしかしたらこのまま必要量を集めきれるかもしれない。そんな期待。
リンネは一度、意識場の捕集を止めた。それと同時に光の翼が粒子となって霧散する。美空のほうに移動すると、顔を見て言った。
「美空さん、試してみたいことがあります」
「なに?」
「今、プロジェクトの進捗はほぼ最終段階に差し掛かっています。このまま私達が意識データの捕集を続ければ、このダイブ中に集め終えられるかもしれません」
「ほんとに?それならやろうよ」
「ただ……」
二つ返事の美空に対し、リンネは心の定まらない様子で言った。
「これは美空さんにも一定の負担をかけてしまうかもしれません。もちろん美空さんを守るためのコードは今も働いていますが……」
あくまで美空の身を案じるリンネ。
「ねえリンネ、私言ったよね」
美空はリンネに言う。
「あなたのために働きたいって。そのためなら無理したって構わないと思ってる」
好きなリンネのために、その願いのために力を尽くしたい。それが美空の思いだった。その言葉と想いを受けて、リンネはユキナからの手紙を思い出していた。
(大切な人を、信じて……)
共感実験中に自分の暗部を見たかもしれない。UNCHESという組織に失望しているかもしれない。それでも美空はリンネにまっすぐな好意と信頼を向け、その力になりたいと言っている。
(私は……)
リンネもまた美空を案じている。すでに巻き込んでしまっているが、これ以上危険に晒すわけにはいかない。そして何より、自分の願いを叶えるために利用するような真似はしたくなかった。
それでも美空はリンネのために無理をしても構わないとすら言っている。それほどの覚悟に対して自分にできること。それはもう決まっていた。
「わかりました。美空さん、改めてありがとうございます」
「うん。それでよし」
「これから最後の座標に向かいます。……たぶん、今よりずっと危険な場所です」
「覚悟はできてるよ」
(……敵わないな、本当に)
「今から向かうのは『封鎖領域』と呼ばれる座標です。銀河の中心のように、星――ここでは意識場ですが――が密集している場所です。美空さんはどうして銀河の中心に星が集まっているか知っていますか?」
「あれ、そう言えば知らないかも」
「ブラックホールがあるとされているからです。その重力に引かれて星が集まっていると仮説が立てられています。集合的無意識でも、封鎖領域には意識場を強力に引き寄せる何かが存在すると考えられています」
「それが危険な理由?」
「はい。正体不明の何かがある場所。けれどそこに行けばおそらくプロジェクトに必要な量の意識場を集めきれる。危険な賭けですが、一緒に来てくれますか?」
我ながら少し意地悪な聞き方だな、とリンネは思った。
「もちろん。今の私達は二人で一人だからね」
美空の覚悟はリンネの思った通り、とうに決まっていた。
◆
二人は手を繋いだまま、凄まじい速度で意識の星々が作る銀河の中心に向かって突き進んでいた。
リンネは道中の意識場も捕集できるよう、4枚の羽を展開している。出力は上げているが、先程の6枚羽状態よりはセーブしているようだ。
二人はまるで彗星のように、意識場の光の尾を引きながら飛んでいた。
『警告。封鎖領域存在想定エリアに接近中。離脱を推奨』
システム音声が目的地への接近と警告を発する。
「司書権限で命令。座標到達時のサルベージ手順を削除」
リンネがコマンドで命ずる。封鎖領域に到達した時、システムには強制的にダイブ中の作業者をサルベージする設定がされていた。
「このまま行きます」
「うん!」
翼を広げたリンネが更に速度を上げた。周囲の意識場がみるみる引き寄せられ、リンネに吸収されていく。
やがてそれは見えてきた。
光の粒が球状に密集している。
リンネは意識場の捕集を一旦止め、無数の光点が作る球体の前で速度を緩めた。背中の羽は霧散し、二人は完全に止まった。
「これが……」
「はい。封鎖領域外縁部です」
光の粒は完全な球体として固まっているわけではなく、ところどころに隙間があり、絶えず流動している。その隙間から、中心にある何かが垣間見えた。
(樹……?)
見えたのは一瞬のことだったが、少なくとも美空の目にはそう映った。
「はじめましょう、美空さん」
「え、あ、そうだね。はじめよう」
リンネの声にあわてて意識を戻す。
「L+リンクの現実性リミッター解除……現実性流入を確認。意識場最大出力へ」
リンネが胸に手を当てて唱えると、再びその体から明るい緑の光が噴出し、6枚の羽を形作った。
「美空さん、このまま手を繋いでいてください」
「わ、わかった」
直接美空の意識体と触れていることにより、リンクがさらに強化される。
リンネが両手と翼を広げると、それに呼応して封鎖領域外縁を形成していた意識場が次々に吸引されてきた。それらはリンネの意識体をバイパスとして通り抜け、図書館へ送られていく。
(この密度……今の状態じゃなきゃ取り込まれていたかもしれない)
それほどまでに、ネブラの設計したL+のリンクは完璧だった。いや、美空とリンネの相性の良さが完璧だったとも言える。
リンネは外縁部にわだかまる膨大な意識場を捕集していく。
その力は中心で意識場を引き寄せていた何かよりも圧倒的に強かった。
埋もれた土を少しずつ掘り起こしていくように、意識場の光はリンネへ吸い込まれて数を減らしていく。
そして、その時が来た。
『意識場捕集率、プロジェクト・コレオグラフィー既定値を突破』
ついに満ちる器。
だが二人の意識は眼の前の『それ』に向けられていた。
「な……」
「これ、は……」
意識場の光が吸い尽くされた先に、『それ』は姿を表した。
光の大樹、あるいは雷の軌跡。
太い幹を挟んで、上下方向に無数に伸びた枝と根のような構造物。
『警告。特異事象観測。即時離脱を推奨』
そのアラートと同時に、二人の体が『樹』に引き寄せられ始めた。
(まずい……)
「強制サルベージ起動!」
『強制サルベージ起動……失敗。再試行……失敗』
「なんで!?」
終始冷静だったリンネが取り乱す。
(せめて美空さんだけでも……!)
「L+リンク解除!アドユニットをサルベージ!」
『エラー。該当コマンドなし』
「なしってどういうこと!?」
『コマンド未規定』
「くっ……」
二人のリンクを切ることは最初から想定されていなかったことになる。
美空を切り離して一人だけでもサルベージさせようとした目論見は外れてしまった。
そうしている間にも、みるみるうちに『樹』は近づいてくる。
「リンネ……!」
「美空さん!絶対に手を離さないでください!」
引き寄せられる速度が上がっていく。
リンネは光の翼を広げて何とか踏ん張っているが、美空にそれはない。彼女の意識体は、未知の重力源に向かって今にも落ちていきそうだ。リンネは両手で美空の右手を掴んで引っ張るが、意識体の力を最大限に引き出しても限界だった。
そしてついに美空の手は、リンネの両手をするりと抜けてしまった。
「リンネ!」
「美空さん!」
光の樹に向かって小さくなっていく美空。リンネは体をぎゅっと丸めて力を込めると、一気に両手両足を広げた。羽はさらに2枚増え、8枚の光の翼が背中から展開された。リンネはその莫大なエネルギーを使って加速し、美空を必死で追いかける。
だが美空の落ちていくスピードは思っていた以上に速い。
限界を超えた速度でも追いつけず、ついに美空の姿は点になって「樹」の中に消えてしまった。
「いやあああ!」
悲痛な叫びを上げながら、なおも飛び続けるリンネ。
その姿もまた点となって、見えなくなった。
◆
「いたたた……」
樹の内部に吸い込まれたはずの美空は、なぜか固い地面に尻餅をついた。
あたりを見回すと、そこは真っ白な空と地面に、点々と枯れ木が立つ異様な空間だった。
「リンネー!」
手首から伸びる光の線は前方にピンと張っている。
どこかでリンネと繋がっているのはわかるのだが、光の線の先はぼんやりとぼやけて空間に溶けていた。
ふとネブラの言葉を思い出した。
アンビリカルアンカー。確かそんな名前。自分がどこにいてもリンネが辿れるようにするためのもの。それが正常に機能するのであれば、ここで大人しくリンネの救援を待つべきなのだろう。
だがこの空間は素人の美空でも感じ取れるほどに、何かが違う。
嫌な感触というわけではない。何かとてつもなく大きな存在がいるような、そんな圧迫感。
同じ場所に居続けるのは不安だった。
美空は光の線を手繰るように、それが伸びる方向に歩き始めた。
枯れ木を何本も通り過ぎ、ところどころに積まれた石塔のようなものを視界に捉えながら、歩いていく。やがて美空の行く手を阻むように川が現れた。石が幾つも積まれているそれは、三途の川を強く想起させる。
(なんなの、ここは)
「あの」
突然横から声をかけられ、ビクッと飛び上がった。
髪の長い眼鏡の女性が立っていた。
「驚かせてしまってすみません。あなたはどうしてここに?」
穏やかな声でそう訊く。
「私は……大きな樹に吸い込まれて」
「そうでしたか。あなたはあちら側の人だったんですね」
その話し方にはどことなく誰かを思い出させる雰囲気があった。
何よりもその風貌。美空は記憶を手繰り寄せる。
そして、思い出した。
「あなたは……御門、ミコトさんですか?」
「私を知っているということは、あなたもUNCHESの?」
「いえ、違うんですが、協力者、みたいなものです。リンネの」
「リンネ……!」
御門ミコトはがっと美空の両肩を掴むと、矢継ぎ早に言った。
「あの子もいるんですか!?あの子は無事なんですか!?」
「えっと、すみません。はぐれてしまって……」
ミコトは美空の肩から手を離すと、うなだれるように頭を下げた。
「すみません、取り乱してしまって」
「いえ、でも、あなたは……その、確か」
「死んだはず、ですか?」
「……はい。これは誰かの記憶なんですか?」
「いいえ。これは特異事象『中心の樹』に保存された残留意識場です」
「残留、意識場?」
「はい。意識場は生体から発せられるものですが、死後も空間に一定レベルで意識場だけが残留することがわかっています。ここはそんな残留意識場、いわば死者の意識が集まる場所なんです」
あの世、という言葉が浮かんだ。
実際、この空間は進入した人間の死生観や宗教観によって姿を変える。美空が眼前の風景を三途の川だと感じたのは、彼女がそのような死生観に親しんでいたからに他ならない。
「あなたは、ずっとここに?」
「ずっとがどのくらいか、私にはわかりません。私には時間を感じる力がないんです」
「それはどういう……」
「完全な人間ではないということです。今の私は、家族への思いだけが人の形をとった存在」
ミコトは両手を後ろで組むと、ただ白い空間が広がる川の向こうを見つめた。
「リンネは何歳になりましたか?」
「16歳だと言っていました」
「16歳……大きくなったんだね……」
美空はその横顔を見る。目尻に光るものがあった。
「リンネはどんな様子でしたか?」
「明るくて、優しくて、丁寧で、真摯。人のために怒れるくらいの子です」
「……そうですか。安心しました」
「本当に頑張っています。何度も助けられました」
「ふふ……私なんかよりずっと強い子になったみたいですね」
目尻の涙を拭いながら言った。
リンネが2歳の時にこの世を去ったミコト。おそらく美空とそこまで大きく歳は慣れていない。リンネの母親という事実を除けば、少し年上の友人といるようなフランクさを感じさせる雰囲気が彼女にはあった。
「リンネのことを考えると後悔ばかり浮かんできてしまいます。いけませんね」
寂しそうに微笑む。
「もっと抱っこしてあげたかったな、とか。一緒に色んなところに行きたかったな、とか……」
段々涙声に鳴っていくミコト。
「一番近くにいてあげたかった……!母親なのに……!」
「ミコトさん……」
その涙には後悔と悲しみと、早くに逝ってしまった自分への怒りが籠もっていた。
「リンネはあなたの存在を確かに感じています。あなたの事情を知ってから、あの子はとても強くなった」
眼鏡を外して涙を拭う。その仕草はリンネそっくりだった。
「リンネの心の中にはあなたがちゃんといます。他人の私から見てもそう思います」
「……あなたも優しい方なんですね。お名前を聞いても?」
「綾川美空です」
「美空さん。あなたもきっとたくさんのものを抱えているのでしょうね」
「……私は、私の母は生きています。けど、もうずっと会っていなくて」
美空は静かに話し始めた。
「言葉が通じるのに心が通じない。そんな相手。だから話すたびに虚しくて、傷ついて、苦しくて。それで、家族を捨てました」
「……そうだったんですね」
「だから私はリンネがとっても羨ましい。こんなに愛されているリンネが」
今度は美空が涙を浮かべる番だった。
「これは私の考えですけど」
ミコトが確信めいた様子で口を開く。
「リンネとあなたが親しくなったのは必然だったんじゃないか、って。家族を知らなかったあの子と、家族を捨てたと仰るあなた」
美空の顔を見て言った。
「もしかしたらあなたたちは二人で一人なのかもしれませんね」
美空はその言葉にはっとする。
L+リンクのことを見抜いたのかと思ったが、それは違う。彼女はリンクのことは知らない。それはきっと、もっと本質的なことだ。
「リンネにはあなたのような人が必要で、あなたにはリンネのような子が必要なんだと思うんです」
ミコトはそう言うと首にかけていたロケットペンダントを外し、美空に差し出す。
「これは……」
「私の宝物です。あ、でもここでは意識場の凝集体といったほうが的確ですね。受け取ってください」
美空がロケットペンダントを受け取ると、それはみるみるうちに光の玉になった。
「これをあの子に、リンネに渡してください。残留意識場としての私のすべてが詰まっています」
「……わかりました。必ず」
「その光のほうにあの子がいるのでしょう?」
美空の右手首から伸びる光の線を指してミコトが言った。
「はい。きっと」
「それなら安心です。美空さん」
「はい」
「リンネを、よろしくお願いします」
「……はい!」
「さようなら。あなたも幸せになれますように」
「さようなら」
(あなたはきっと、誰よりもお母さんでしたよ)
◆
「美空さーん!」
何度その名を叫んだだろう。枯れた声でそれでも名を呼ぶ。
リンクの光の線はどこかに繋がっているし、それを通じて美空の存在も僅かに感じられる。だが光の線の先は空間の中に溶けるように消えており、正確な方向を辿ることは難しそうだった。
(ここは……)
特異事象。封鎖領域の中心にあった概念重力源。
リンネは今、水鏡のような地面の上に立っていた。上空は白く、時折絡み合った木の枝か神経回路のように、複雑な模様を描きながら光が走っている。
背中の翼は役目を終え、いつものパーカー姿で立ち尽くしていた。
「アンビリカルアンカー起動」
『座標捕捉』
(よし……!)
「アドユニットの状態は」
『意識場強度および現実強度に変化なし』
(よかった……)
「抜錨開始」
『失敗……再試行……失敗』
「なんで!?」
『アンカー座標に不明な意識場反応。現状での引き揚げは存在に危険が及ぶ可能性あり』
(どういうこと……?)
システムは死者の意識場を未知のものとして判定した。
それゆえに未知の領域からのサルベージを危険なものとしてストップしたのだ。
(しょうがない。リンクを辿っていくしか……)
リンネが光の線を辿って歩いて行こうとしたその時だった。
「リンネ、か?」
空間全体に反響するように、男性の声が聞こえた。
「え……?」
声の主は水鏡のような地面の中央に立っている。
聞き覚えのない声。見覚えのない姿。
それでもリンネは引き寄せられるようにそちらへ歩いていった。
やがて男性の顔がよく見える位置までくると、声をかけた。
「あなたは……?」
「ああ、そう、か。わからないのも当然か」
ジーンズに黒いパーカー。上から白衣を纏った男性は残念そうな表情をした。
「御門カスカ。君のお父さん、と言えばわかるかな。リンネ」
「お父さん……でも、私のお父さんは」
「その様子だともう知っているみたいだな。うん。事故で天球に取り込まれた」
「……どうして、ここに?ここは一体……?」
「ここは特異事象『中心の樹』。もともと天球の中枢だった場所が、父さんが取り込まれ流れ着いたことで変質したものだ。生者、死者を問わず、集合的無意識を形成する意識場のエネルギーが集まってこれが作られている。父さんは、そうだな、ここから動けないんだ」
「動けない、んですか?」
「そう。父さんの存在はここに根付いてしまったからね。リンネも知っているだろう。集合的無意識はもう一つの現実なんだ」
リンネの知識と経験をもってして、なんとか飲み込めるスケールの話だった。
眉間に指を当ててため息を吐いた後、カスカはリンネに言う。
「ごめんな。リンネ。結局守ってあげられなかった」
「……私は大丈夫、です。もう、慣れましたから」
いつもの言葉を口にする。
長身のカスカは、リンネの目線に合わせるように片膝をつくと言った。
「あのな、リンネ。二つ言いたいことがある」
「……はい」
「一つ目。親に向かって敬語なんて使わなくていい」
「……はい……うん」
「二つ目。自分で何もかも背負い込まないこと。人のせいにしてもいいこともあるんだ」
「……でも」
「今のリンネには支えてくれる人がいるんだろう?」
「……美空さんのこと、知ってるの?」
「『中心の樹』は天球システムの中枢。ダイブのたびにリンネと共感しているようなものだ。自然と心が流れてくる。だから知っているよ」
「ずっと居てくれていたんだ」
カスカはその言葉に柔らかな、しかし複雑そうな表情をした。
「リンネ。親の後悔なんて聞きたくないかもしれないだろうが、これが最初で最後のチャンスだ。お互いに言いたいことを言い合おう」
こくりと頷くリンネ。
「本当は一番傍にいてあげたかった。色んなところに連れていってあげたかった。色んなことを教えてあげたかった。この世界は素晴らしい物事で満ち溢れていると、教えてあげたかった。朝起きておはようを言ったり、夜おやすみと言ったり、自転車の練習をしたり、公園で遊んだり、そういう当たり前のことが、一緒に、したかった」
悔しさを噛み潰すように、必死に涙を堪えるように語る。
「……ごめんな、リンネ。こんな父さんで」
父の独白を黙って聞いていたリンネは、ゆっくりと首を振って言った。
「お父さん、私はね、こうして会えて、それだけでとっても嬉しい。確かにお父さんの望んだ当たり前は出来なかったかもしれないけど、私は、私は」
リンネの心の深層から涙が込み上がってくる。
「私はとっても大切にされてたんだなって。お父さんが、お母さんもとっても私のことを愛してくれてたんだなって。それを知ったから」
眼鏡の奥の大きな目から涙が流れ落ちていく。それは頬を伝い、顎を伝い、地面の水鏡を作る一雫となる。
「私も同じだよ。ほんとはね、一緒にいたかった。一緒にいられたらどんなによかっただろうって」
いつも笑顔の裏に隠されていた、本当の気持ちが露わになっていく。
「ほんとは慣れてなんていないの。そうやって言っていないと壊れちゃいそうだったからそう言ってるだけなの」
娘の悲痛な言葉を、父は静かに聞いていた。
「くーた達もいる。ユキナ先生もいる。ネブラさん達もいる。今は美空さんもいる。でも、それでも……」
ぶわっと涙が一気に溢れるのと同時に、リンネは眼の前のカスカに抱きついて叫んだ。
「寂しかったよ……!」
泣きじゃくるリンネの背をぽんぽんと優しく叩くカスカ。最後にミコトと一緒に2歳のリンネをあやしていた時のことを思い出した。
(大きくなったんだな、リンネ)
カスカの脳裏に様々な記憶が去来する。ミコトと出会った学生の頃のこと。一緒に巡った海外の風景。臨月のお腹を抱えて部屋で作業をしていたミコト。深夜に病院へ向かうタクシーと、その窓から見えた月明かり。生まれた瞬間の産声。病室で二人で名前を決めた時のこと。喜んでくれた上司や同僚。リンネが初めてハイハイをした日、初めてつかまり立ちをした日。
気が付けばカスカも静かに涙を流していた。
それは悔しさではない。美しい日々の思い出と、その喪失に対する悲哀の涙。
「リンネ、一人にしてしまってごめんな。一人でやらせてしまってごめんな」
一体どれだけの負担だっただろう。あの閉じた図書館でたった一人暮らし続けた日々に思いを馳せた。
「わ、わた、し、頑張った、よ」
しゃくり上げながらリンネが言う。
「ああ、リンネは本当に良く頑張った」
「たく、さん、がんば、ったよ」
「そうだな。ずっと頑張っていたもんな」
少し落ち着いたリンネは、何度か深呼吸をして息を整える。
カスカから離れると、その目を見て言った。
「でもまだ私にはやらなきゃいけないことがある」
「彼女を助けに行くのか?」
「うん。約束、したから」
その目に強い光が宿るのを見て、カスカは娘を自由のもとで育ててあげられなかった悔しさと、知らぬ間に娘が強くなっていた心強さ、相反する2つの感情を抱いた。
「その光はリンクか?」
「うん。これを辿っていけばいずれ会えるはずだと思って」
「『中心の樹』の内部は複雑だ。どれだけリンネの意識体が強くても、それを辿っていくのは無謀だと思う」
「でもアンカーはうまく動作してくれないし……」
「アンカー?装着しているのか?」
「うん、でも未知の意識場がある座標だから、引き揚げは危険だって……」
「そうか……」
カスカは立ち上がると、少し考え込む。
(『彼女』がいるのはおそらく……であれば)
「リンネ、手を」
「うん」
カスカが差し出した掌に、リンネが手を重ねる。
重なった部分から光が漏れ出て、リンネの手に吸い込まれた。
「これは?」
「『未知の意識場がある座標』のパラメータだ。父さんはこの『中心の樹』の核だから、枝葉の部分まで把握できる。ここからは動けないけどな」
「ありがとう!これで――アンビリカルアンカー起動、サルベージ開始」
『アンビリカルアンカー起動。アドユニット、サルベージ開始』
システム音声はアンカーが正常に動作したことを伝える。
程なくしてリンネの右隣、リンクの光の向こうから美空が歩いてくるのが見えた。
「美空さん!」
「リンネ!」
美空が駆け寄る。リンネも思わず走っていき、二人は光で満ちた空間の中でしっかりと抱き締め合った。
「よかった……無事で」
「ごめんね、心配かけて」
「いいえ、いいんです。ちゃんとまた会えたから」
二人は体を離す。
リンネはカスカの方に振り向いて言った。
「ありがとう。お父さん」
不器用そうな笑顔で応えるカスカ。
「お父さん?」
「はい。私のお父さんです」
リンネに手を引かれ、美空はカスカの方に歩み寄る。
「あなたが綾川美空さんですか。リンネの記憶を見て知ってはいましたが、こうして会うのは初めてですね」
「御門、カスカさん」
「リンネの傍にいてくれてありがとうございます。たとえ短い期間だったとしても、この子にとっては何より濃密な時間だったはずです」
リンネはくすぐったそうに俯く。
「綾川さん、妻に、ミコトに会われましたね?」
「……どうして、それを」
「リンネにも説明しましたが、私がこの特異事象の中心だからです。残留意識場のわだかまる領域があることも知っている」
「なるほど……あ、そうだ」
美空はリンネに向き直ると、掌を差し出した。その上には光の玉が乗っている。
「これ、お母さんから預かってきたんだ。リンネに渡してほしいって」
「本当にお母さんに会ってきたんですね……」
そう言ってリンネが光の玉に触れると、それは浮き上がり、リンネの周囲を何回か回った後、胸のあたりに飛び込んだ。
「……つ」
膨大な記憶と感情がリンネの意識を巡る。
母の記憶、思い、後悔、そして願い。
意識場の捕集とはまた違う感覚に、思わずくらっとなる。
「大丈夫?」
肩を支えながら美空が訊く。
「大丈夫、です。お母さんの思い、確かに受け取りました」
噛みしめるように言った。
(この宇宙を、お父さんとお母さんが生きた世界を、終わらせない)
それは初めてリンネに芽生えた内発的な動機だった。
誰のものでもない、リンネ自身の願いだった。
「お父さん」
「うん?」
「私達は帰らなきゃいけない。やるべきことがあるの」
「だろうな。わかってるさ。ちゃんと送り届ける」
そう言うとカスカは左手を天に向かって広げた。
「今二人を留めているのは『中心の樹』の持つ巨大な概念重力だ。それは父さん自身が核として存在している以上、どうにもならない」
「なら、どうすればいいの?」
「一瞬だけ孔を開ける。リンネ、今の最大出力ならそれが閉じる前に影響領域外へ抜け出せるはずだ。父さんの意識場も渡そう」
カスカは左手を天に広げたまま、右手をリンネに向ける。
その手に薄緑の光が生まれると同時に、リンネの意識体を光が包んだ。
(すごい……この出力は……)
カスカには極めて高い共感適性と強い意識場があった。リンネはユキナの手紙に書かれていた内容を思い出していた。
「ありがとう。お父さん。これなら行ける」
リンネは胸の前で両手を組んだ。まるで祈りを捧げるかのようなポーズ。
その背中から光が吹き出し、瞬時に6対12枚の翼が形作られた。
「美空さん」
美空が手を繋ぐと、リンネはぎゅっと握り返す。
今度は絶対に離さない。そんな強い意志を感じた。
「行ってらっしゃい。リンネ。君は独りじゃない。ずっと見守っているよ」
「……行ってきます。お父さん」
カスカの左手から天に向かって鋭く光が放たれる。
リンネは美空の手を握ったままノーモーションで飛び上がると、その光を追いかけるように飛ぶ。
カスカの放った光は空間を閉ざす光の構造物を突き破り、文字通り次々と孔を開けて飛んでいく。リンネは12枚の翼から眩い光を放ちながら、父の作った道を通っていった。
やがて二人は『中心の樹』の外に飛び出した。
リンネはそのまま速度を落とさず、集合的無意識の宇宙を飛んでいく。
(12枚の羽。光を掲げる者。神に近づきすぎた天使、か)
美空の脳裏に講義で見た宗教画が浮かんだ。
そんなものを想起させるほど、今のリンネの姿は神々しいものだった。
「システムコンタクト」
『L+コンタクト確認』
「術式終了。サルベージ開始」
『深深度共感術式、終了準備開始。サルベージ開始』
サルベージの際の光が二人を包み始める。
光の尾を引きながらソラを飛ぶ二人は、やがて流れ星のように光を放ちながら、空間から消えていった。
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