第52話 先輩。


 すぐに、あおいに電話をかける。


 すると、あおいは取り乱してしまっていて、会話ができるような状況ではなかった。


 「ヒッ、えっぐ……。おに、おにーちゃんが……死んじゃった……、なぎさん。こわい。こわいよ。しんじゃった……」


 俺は、なんとかあおいの住所を聞き出し、走った。幸いウチからあおいの家は近かった。車より走った方が早い。


 どうやら、今はあおい独りのようだった。

 あの感じでは、何もできていないだろう。

 俺は走りながら、警察、救急車の手配をする。


 17歳かそこらの女の子が、たった1人で人の死に直面しているのだ。大丈夫なハズがない。



 走りながら腕時計を見る。

 まひるとの待ち合わせまで、数時間ある。


 『……大丈夫』


 俺は自分にそう言い聞かせた。



 あおいの家が見えてきた。

 俺はインターフォンなど鳴らさずに、そのままドアを開けて入った。


 (バタン)


 玄関に入った瞬間、寒気がした。


 この不気味な程の静寂。

 親父が事故で亡くなった時に、霊安室に入った時のことを思い出す。


 経験した者にしか分からない、死の気配だ。


 俺はあの時、1人ではなかった。

 だが、あおいは……。



 あおいの部屋はどこだ? 

 階段を上がろうとする。


 しかし、その必要はなかった。

 すぐ廊下の先に、あおいは膝を抱えるようにうずくまっていた。


 俺に気づくと、あおいは膝を崩したまま這うように駆け寄ってくる。その表情は、まるで、4、5歳の少女のように見えた。


 「……にーちゃん、おにーちゃん……」


 視線が泳ぎ、どこを見ているか分からない。

 錯乱している。


 俺はあおいを抱きしめる。

 あおいの肩は、震えていた。


 頭を撫で、おれはできるだけ優しい声で話しかけた。


 「大丈夫。大丈夫。俺がついてるから……」


 あおいに聞く。 

  

 「お兄ちゃんはどこにいるの?」


 「おフろ……」


 あおいが蹲っていた奥か。

 おれは風呂場のドアを開けた。


 風呂には水が張られていて、止めることなく継ぎ足された水が、浴槽から溢れ続けている。


 ザーッという音が、無感情に響いていた。


 流れ落ちる水がワインのように赤い。


 浴槽には男性が、上を向いて口を開けて座っていた。風呂にいるのに、その唇は乾き、血色が悪かった。


 不揃いな髪の毛は、数時間前に立ち上っていたでたろう湯気で湿っているようだった。……その男性は右腕だけ風呂から投げ出し、時が止まっているように動かない。



 俺はその場に立ち尽くした。

 

 ……深村先輩だ。


 その容姿は変わり果て、昔の面影がない。

 精悍だった顔は、まん丸で無精髭が生えている。


 

 すると、救急車が到着し、その場が慌ただしくなる。数名の救急隊員は、先輩を水から引き上げる。


 そして、心臓マッサージを始めた。


 その様子を見ていた俺は、まるでテレビの中の光景を見ているようだった。


 俺は、隊員に、いくつか質問を受け、分かる範囲で答える。


 ふと、横に目をやると、給湯器のエラーランプが光っていた。そうか。連続給湯でエラーが出て、水になったのか。


 先輩は何時間、水風呂にいたのだろう。


 続いて、警察が来る。

 警察は、あおいと俺に、発見時の状況や生活環境などの質問をした。

 

 おれは一つ一つの質問を、あおいに繰り返し聞かせて、答えてもらった。


 それによると、あおいの両親は海外に赴任していて、今は兄妹だけで住んでいたらしい。


 だが、あおいは混乱してしまっていて、これ以上の混み合った質問は難しそうだ。警察の方もそれを察してくれて、家の状況を簡単に検分すると、続きは後日ということになった。


 ……先輩が毛布に包まれてタンカで運ばれていく。


 俺とあおいも、一緒に救急車に乗り込む。

 あおいは膝に両手を置き、ひっきりなしに手を擦り合わせている。


 あおいが兄と2人でどんな生活をしていたのかは分からない。だが、自分の経験から、急に肉親を失う気持ちは想像できた。


 俺はあおいの肩を抱きしめる。あおいは震えていて、身体は冷たかった。俺は横にただ一緒に座って、言葉もかけられずにじっとしていた。

 

 救急車は自宅の前でしばらく待機し、受け入れ先がみつかると、けたたましくサイレンを鳴らして走り出した。

 

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