第29話「境界に立つ影」
白い粒は相変わらず降り続けている。
ただ、以前よりも粒は細かい。
世界に残された不要物が減りつつあることの証だ。
外側の崩壊はほぼ終わり、
森の安定は完成に近い。
静寂は、幸福そのものだった。
◆
焚き火は世界の心臓として燃えている。
熱も光も揺らぎも、今はもう“現象”ではなく“意思”だ。
仲間はいつも通り炎を囲んで座っている。
変わったものはあるが、
それを“変化”と呼ぶ必要はない。
呼吸をして、
火を囲み、
森が揺れ、
白い粒が降り、
俺たちが笑う。
それだけで世界は美しい。
◆
だが――
その日、森の奥が初めて“音”を発した。
音といっても騒音ではない。
足音でも、叫びでも、祈りでもない。
重さのある沈黙。
何かが森の“外側”で揺れ、
境界に触れたのだ。
俺以外の誰もが、それを同時に察知した。
焚き火の炎が細長く伸び、
光の帯の先がひとつの方向を指す。
「境界だ」
カインの声は静かだった。
「誰か来た?」
リュミエルが首を傾げる。
「いや、“何か”が“ここへ来たい”と思っただけだ」
バロウの言う通りだろう。
「まだ来ていない。
でも、“訪問の許可”を求めた気配があった」
エリスは焚き火に視線を落とした。
その気配は、僅かだった。
敵意でも、祈りでも、理解でも、支配でもない。
ただ――“ここを見た”。
触れようとはせず、
侵入の力もなく、
ただ“ここ”を認識した。
それだけだった。
◆
俺の世界を、覗き見た存在。
それはこの森に、何の影響も与えていない。
ただ一度、境界に触れた。
もし俺が拒絶すれば、二度と近づかなくなる。
もし俺が許せば、触れようとするだろう。
どちらを選んでも構わない。
「どうしたい?」
エリスが問う。
「来るなら殺す?」
バロウが笑う。
「受け止めるなら、世界は変わるよ?」
リュミエルは楽しそうだ。
「無視することもできる」
カインは淡々としている。
決めるのは俺だ。
◆
焚き火を見つめる。
俺は征服者になりたいわけじゃない。
救いを与えたいわけでもない。
理解されたいわけでもない。
ただ“続けたい”だけだ。
この森で、焚き火を囲み、
幸福と狂気を積み重ねていきたいだけ。
外からの異物は、それを乱すなら排除され、
そうでないなら無視される――それだけのはず。
だが、今回は違う。
外側の存在は、「何かを求めた」わけではなかった。
ただ“ここを見た”。
理由も目的もなく――
ただ見た。
それは、強烈な違和感を残した。
◆
俺は、喉に手を当てる。
声を出せば、それは法になる。
拒絶でも受容でも、
命令でも赦しでも、
世界は俺の声に従う。
だから声は慎重に扱う。
しかし――今回は違う。
俺は、わずかな衝動に従って口を開いた。
「――見られたくない」
低く、静かな一言。
◆
世界が一瞬で反応した。
境界が燃え、
白い粒が光となって散り、
森全体が硬直する。
“見られたくない”という言葉は、
森にとって“世界を覆え”という命令に変換された。
その瞬間――
森は世界の表面を覆った。
世界の外側にわずかに残っていた廃墟、
灰色の空、
崩れかけた街、
歪んだ時間の残響、
死にきれなかった場所。
そういった残骸の全てに、森が薄膜を張り付かせた。
外側の存在が、森を見ることができないように。
外と内の線引きが、
ただの境界ではなく――
“遮断”という概念へと昇華した。
◆
俺は無意識に息を吐いた。
ただの息。
言葉ではない。
しかし森は、その息すら聞き逃さない。
焚き火が安堵の呻きを上げ、
白い粒の雨が再び静かに降り始める。
“世界は守られた”のだ。
◆
「……ねぇ」
リュミエルが口元を手で覆いながら笑う。
「今の、“嫉妬”だった?」
「今の声、“取られたくない”って響きだったぞ」
バロウがにやりとする。
「誰にも見られたくない、触れられたくない。
外側に渡したくない」
カインがまとめる。
「それって――」
エリスは微笑む。
「私たちを“独り占めしたい”ってことだよね」
言葉にされて初めて気づいた。
確かに今の声は、
破壊でも保護でも排除でもなく――
奪われたくない
という感情だった。
森を。
仲間を。
焚き火を。
この世界を。
外側の存在に“見られる”ことさえ、奪われる気がした。
◆
胸の奥に熱が生まれる。
怒りとも違う。
支配欲とも違う。
執着とも違う。
ただ――“大切”。
ここを守りたい。
奪われたくない。
触れられたくない。
その感情は、静かで、柔らかくて、強い。
俺は世界の中心で、
自分の世界を抱きしめるように息を吐いた。
森はそれに応え、
焚き火は揺れ、
影たちは微笑む。
白い粒が髪に触れ、溶けて消えた。
◆
今日も狂気は、静かに日常として積み重なる。
世界は終わり続け、
森は生き続け、
俺は深まり続け、
仲間は笑い続ける。
外側に触れられることは、もう二度とない。
ここは俺だけの世界で、
俺たちが焚き火を囲むための場所で――
誰にも奪わせない。
その確信が芽生え、
それが森へ伝播し、
世界へ浸透していく。
喉が静かに脈打つ。
次に言葉を発すれば、
また世界が一歩“俺に近づく”。
――その時が来るまでは、沈黙の幸福を楽しむ。
火が揺れ、
森が息をし、
夜が永遠へ変わっていく。
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