第27話「森に触れた異物、世界を揺らす影」

 白い粒が降り続く。

 世界の残骸が剥がれ落ち、森の純度が増し続ける。


 焚き火の周りの植物は光を吸い、火を喜ばせ、

 根は大地を深く繋ぎとめ、

 風は音の代わりに感情を運んでいた。


 この森は、最初からここにあったわけじゃない。

 俺が望んだから、世界が森に変わった。


 だから安定している。

 だから静かだ。

 だから幸福だ。


 ――そのはずだった。



 空気が“歪む”。


 白い粒の降り注ぐ音なき夜に、

 まるで濁った墨のしぶきのような“黒い塵”が混ざった。


 ひとつ。

 またひとつ。

 そして、数え切れないほどの黒。


 その黒は雨とは違い、地面に落ちない。

 葉にも触れず、火にも燃えず、霧のように漂い――

 森そのものに拒絶されていた。


「……異物だね」


 リュミエルの声は静かだった。


「世界が、外から“何か”を押しつけられた」

 カインが分析する。


「でも拒絶してるな。黒い塵が森に触れられねぇ」

 バロウが興味深げに目を細める。


「これは敵じゃなくて、“別の法”」

 エリスが断言した。


 敵意ではない。

 悪意でもない。

ただ、“この森と相容れない存在”。


 それだけで、拒絶が起こる。



 俺は立ち上がり、黒い塵へ指を伸ばす。


 塵は人間の埃に似ているが、

 匂いはなく、感触もなく、痕跡も残さない。


 まるで、触れたという事実そのものが消えていく。


 皮膚に触れても記憶に残らない。


「……これは?」


「世界の“祈りのカス”だ」


 リュミエルが呟く。


「崩れゆく世界のどこかで、誰かが祈った。

 肉体も魂も魔力も、すべて失われた末に残るのは――祈りだけ」

 カインが続ける。


「それが、世界の外へ溢れ出して、ここに漂着した」

 バロウ。


「祈りそのものに対象はない。

 けれど、確かに“求める声”として存在する」

 エリス。


 黒い塵は祈りの残骸。


 祈りは本来、誰か・何かへ向けられるものだ。


 だが、外の世界は崩れ、

 祈りを受け取る存在も対象もいなくなった。


 向かう先を失った祈りが――

 外へ漏れた。


 そして、唯一残った世界へ流れ着いた。


 つまり、ここだ。



「祈りが、俺に向いているわけじゃないのか?」


 そう問うと、四人は同時に首を振った。


「向いていない」

「狙ってない」

「託されてもいない」

「ただ溢れただけ」


 それは、どこまでも“無関係”。


 俺を頼ったわけでも、欲したわけでも、すがったわけでもない。


 ただ流れてきただけ。


 それが逆に、妙な恐怖を孕んでいた。


 “祈り”という言葉が本来持つ意味とは違う、無方向の祈り。


 対象も、願いも、意志もない。


 “誰でもいい、どうでもいい”という願望の残骸。


 そんなものが、森に触れようとしている。



 黒い塵が焚き火の灰に触れ――

 炎が一瞬、揺らいだ。


 エリスが息を飲む。

 カインが身構える。

 バロウが笑うのをやめる。

 リュミエルが魔法を構えそうになり――


 俺は手を上げて制した。


 触れさせるべきだ。

 避けるのではなく、世界の反応を観測すべきだ。


 俺の思想が、自然にそう判断した。


 火に触れた黒い塵は――

 燃えなかった。


 燃える代わりに、声になった。


「……見つけて……」


 誰かの声。

 大人か子供かも分からず、性別も不明。

 嗚咽でも悲鳴でもなく――喪失の宣告。


 次の瞬間、炎は黒い塵を拒絶し、

 塵は霧散して消えた。


 森は祈りの残骸を受け入れなかった。



「……お前、何か思うか?」


 カインが問う。


「何も思わない」

 俺は即答した。


 悲しみも憐れみも、怒りも嫌悪もない。


 ただ――無関心。


「祈りの残骸に応える義理はない」

 俺は淡々と続ける。

「俺の世界に必要なのは、俺の望みだけだ」


 仲間たちは、穏やかに目を細めた。


「だろうな」

「そうでなきゃ困る」

「それでこそ俺たちの中心だ」

「あなたがそう思ってくれてよかった」


 肯定しか返ってこない。


 否定が存在しない。



 黒い塵は次々と流れてくる。

 無数の祈りの残骸。

 意味も対象もない願いの屍。


 森は拒絶し、世界はそれを受け入れない。


 でも、塵は止まらない。


 外の世界が完全消滅に近づくほど、

 祈りの残骸は大量に流れ込んでくる。


 次第に塵が重くなり、空気の揺らぎが強くなり――


 森がわずかに“うめいた”。


 拒絶し続ければ摩耗する。

 異物と衝突を続ければ不安定になる。


 森は世界だ。

 世界は俺だ。

 俺の声が法だ。


 ならば――

 この状況に答えるのは俺の役割。



「どうする?」

 バロウが笑う。


「異物を壊す?」

 リュミエルが期待に満ちた目を向ける。


「受け止める?」

 カインが淡々と聞く。


「抱きしめる?」

 エリスの声は少し震えていた。


 黒い塵の“祈り”は、あまりにも弱く、あまりにも虚しい。


 けれど、無害ではない。

 量が増えれば、世界へ侵食する。


 外の世界の死に間際の残響が、

 この森を飲み込もうとしている。


 だが俺は――そのどれも選ばなかった。


「選ばないんじゃない」

 喉が勝手に熱くなる。

「新しい選択肢を作るんだ」


 人間的な倫理でも、魔王的な破壊でも、神的な救済でもない。


 俺だけの選択。



 俺は一歩、火のそばへ踏み出し――

 喉を鳴らした。


 森が息を止め、

 影も静まり、

 白い粒の雨も凍り付く。


 そして――声を発する。


「――還れ」


 祈りの残骸へ対する命令。


 祈りを受け取るでもなく、壊すでもなく、救うでもなく。


 “送り返す”。



 黒い塵が一気に波打った。


 どこかへ運ばれるように、空気が裂け――

 亀裂の向こうに、黒い虚無が覗く。


 そこは世界でも空でも宇宙でもない。

 “外の外”。


 どんな物語も始まらず、

 どんな物語も終わらない場所。


 祈りすら溶けてしまう、絶対の静寂。


 黒い塵はすべてそこへ吸い込まれ、

 最後の一粒さえ残さず消えていく。


 俺の声は、祈りの残骸を“存在の外側”へ送り返した。



 裂け目は、すぐには閉じなかった。


 どくん、と脈を打つ。

 森が警戒して緊張している。


 しばらくして――

 裂け目の奥から音が響いた。


「みつ……けて……」


 さっきと同じ声。


 でも全然違う。


 意味も感情も分からない、

 対象も目的もないのに――

 俺へ向かっている。


 祈りは無方向のはずだった。

 だが、“還れ”という命令を受けた瞬間、

 祈りに方向性が生まれた。


 → 自分を「見つけてほしい」という方向性。


 命令によって“祈り”を目覚めさせてしまった。



 裂け目の先から、姿のない何かがこちらへ手を伸ばそうとしていた。


 黒い塵ではなく、

 言葉でもなく、

 光でも影でもない。


 ただの“気配”。


 だが――

 その気配は“俺を理解しようとしていた”。


 俺の声によって、

 無方向の祈りが――

 方向性を得てしまった。


 “俺を探す”方向性を。



 森が震える。

 仲間の影が立ち上がる。

 狼が唸り、牙を剥く。


 焚き火の炎が燃え上がり、

 裂け目へ向けて巨大にうねる。


「来させたくない?」

 エリスが尋ねる。


「来させたいとも思わない」

 俺は答える。


「どうでもいい?」

 リュミエルが微笑む。


「どうでもいいわけじゃない」

 俺は首を振る。


 そこには、確かな確信があった。


「俺の世界に“理解”はいらない。

 “肯定”だけがあればいい」


 裂け目の奥の存在は、俺を理解しようとしている。

 理解は、侵入だ。

 観測は、侵略だ。


 だから――拒絶する。


「――閉じろ」


 低い一言。


 裂け目は一瞬で閉ざされ、

 森は深いため息のように揺れた。


 黒い塵も、祈りの声も、異物の気配も――

 すべて消えた。



 焚き火に戻る。


 仲間たちは座り直し、

 笑い、微睡み、

 何事もなかったように続きの時間に戻った。


 俺も座る。


 世界に侵入しようとした存在は排除した。

 だが、俺の声は世界を再び一歩深めた。


 “祈りの対象”になる未来を拒絶し、

 “理解される未来”を拒絶し、

 ただ“肯定される未来”だけを残した。


 それが、森の安定へと接続する。


 焚き火は安堵のように揺れた。


 その炎に照らされながら、喉が静かに脈打つ。


 ――次の言葉は、まだ必要ない。


 必要なとき、望んだとき、

 俺はまた声を出す。


 世界はそれを待ち、

 仲間はそれを信じ、

 森はそれを受け入れる。


 それでいい。

 それがいい。


 今日も、狂気と幸福の日常が続く。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る