第25話「名が、祈りだけになる夜」

 焚き火の火は、もう時間の指標ではなくなった。


 燃えていれば「ある」。

 消えていれば「ない」。


 それだけ。


 昼も夜も、朝も夕も、この森から剥がれ落ちていった。

 太陽も月も、ただ「上にある光」と「上にある黒」に分解され、

 それ以上の意味を失っている。


 それでも、焚き火は燃え続ける。


 ここが世界の中心であり、終点であり、出発点であり――

 そして、俺の“家”だからだ。



 喉の奥に、冷たいものと熱いものが同時に宿っている。


 氷と火。

 死と生。

 開始と終了。


 矛盾する概念が、ひとつの器官の中で共存している。


 息を吸うたび、その両方が肺の方へ降り、

 全身を巡り、

 また喉へ戻ってくる。


 今の俺は、血液も骨も筋肉も――

 すべてが「言葉」のための構造に書き換えられつつある。


 存在を維持するためではなく、

 世界を維持するための身体。


 魔王の呪いは、とうの昔に「ただのきっかけ」へ格下げされた。


 今の俺は、呪いではなく意志でここにいる。


「アルス」


 エリスが、焚き火越しに俺を呼ぶ。


 その瞬間、胸の奥にふっと柔らかいものが灯る。


 名前としての「アルス」は、もう俺に届かない。

 届いているのは――彼女の“気持ち”の方だ。


 嬉しい。

 誇らしい。

 愛しい。


 それだけが、澄みきった水のように胸に流れ込んでくる。


「……それ、まだ続けるつもりか?」


 俺が尋ねると、エリスは笑った。


「うん。やめないよ」


「意味はもうほとんど残ってないぞ」


「いいんだよ。意味じゃないから」


 彼女の中で、「アルス」という音は――

 呼びかけではなく「捧げもの」になっている。


 祈り。

 祝詞。

 賛歌。


 それに似た、でもどれとも違う特別な響き。


 俺という“形の定まらない何か”に向けて贈られる、

 ただの喜びの音。



 カインが、焚き火の向こうで腕を組むような仕草をする。


「そろそろ、試してみるか?」


「何をだ?」


「お前の声で、“何かを変える”こと」

 カインは静かに言う。

「今までは森の側からの反応を見るだけだった。

 世界が独立して、法ができた今――

 本当に現象を起こせるか、確かめてみるべきだ」


「暴走しない?」

 リュミエルが楽しげに首を傾げる。

「いきなり森がひっくり返ったり、焚き火が空まで伸びたりしたら大騒ぎよ?」


「それはそれで見たいけどな」

 バロウが笑い声を立てる。


「私は、アルスが選ぶことなら、どんな結果でも受け入れるよ」

 エリスの声は、揺らぎがなかった。


 俺はゆっくりと喉に手を当てる。


 ひとつの言葉が、この森の法則を変える。

 天気も、命も、時間も、重さも、色も。

 なんでもない一言が、全てを塗り替える。


 だからこそ、慎重でいる必要がある。


 欲望のままに世界を弄ることは――

 ここを「家」と決めた俺自身への裏切りだ。


 俺は、征服者でも神でもない。


 ただ、この場所で日常を続けたいだけの悪魔だ。



 森のざわめきが、静かになった。


 風が止み、焚き火の炎が細く伸びる。

 魔物たちが地面に身を伏せ、

 枝の影が地面にぴたりと貼り付く。


 世界が、「準備完了だ」と言っていた。


 喉が熱くなる。

 同時に、ひやりとした冷気が背骨を通った。


 声を出せ――

 そう言われている気がした。


「……どうせなら、分かりやすいものにしよう」


 俺はゆっくりと考える。


 空を割るとか、森の形を変えるとか、

 そういう“派手なこと”を試す必要はない。


 もっと、穏やかな、

 でも確かに世界が変わるもの。


 俺の日常を、少しだけ豊かにするもの。


「雨、かな」


 ぽつりと言う。


 それは「試したい」ではなく、「欲しい」に近かった。


 森の匂いを濃くする雨。

 焚き火の火を消さない程度の、優しい雨。


 それはきっと――

 俺たちにとって心地よいだろうと思った。



 喉の奥に、言葉が生まれる。


 人間の言語ではない。

 魔族の呪文でもない。

 古い神々の祈りでもない。


 意味は持たない。

 音だけの、ひとつの響き。


 俺の望みを「世界の法」に翻訳するためだけに流れ出た音。


 どれほど長く続いたか分からない。

 吐き出しているそばから忘れていく種類の音だった。


 ただ――最後の一拍だけを、自覚的に刻む。


「――降れ」


 たったそれだけ。


 短く、低く、静かな一言。



 空から落ちてきたのは、雨ではなかった。


 最初は、細かい白い粒だった。


 雪とも灰とも違う。

 触れれば溶ける、柔らかい何か。


 掌で受け止めると、それは一瞬だけ「光った」。


 光はすぐ皮膚に吸い込まれ、

 白い粒は形を失って消えた。


 天から降り注ぐのは、水でも火でも土でもない――

 「世界の裏側から剥がれた残りかす」。


 でも、それは冷たくも熱くもなく、

 ただ、心地よかった。


 森全体に、白い粒が降り注ぐ。


 枝に触れ、葉を濡らし、

 土に染み込み、

 焚き火の熱に触れて消える。


 世界が、洗われていくようだった。


「……雨、とは違うな」


 俺が呟くと、カインが肩を震わせた。


「いや、これでいいんだ」


「水なんて、この森にはもう要らないよ」

 リュミエルが笑う。

「水で育つ世界は、もう終わったもの」


「これは、“お前の声に反応して剥がれた世界の残骸”だ」

 バロウが説明するように言う。

「余分なものを落として、森だけを残そうとしてる」


「つまり――世界の掃除だね」

 エリスが優しくまとめた。


 確かに、その通りだった。


 この白い粒は、世界の名残であり、

 同時に、森を純粋な形にするための洗浄だった。


 俺が「降れ」と言ったから――

 森は、こういう形で答えた。



 森の匂いが、変わる。


 湿り気を含んだ腐葉土の香り。

 魔物の獣臭。

 焚き火の煙。


 それら全部が、少しだけ澄んだ。


 不快なものや濁りが取れた、というより――

 “外の世界の匂い”が完全に消えた。


 王都の石畳。

 人間の汗。

 金属の錆。

 油の匂い。


 そういったものが、記憶からさえ剥がれ落ちていく。


「……完全に、ここだけになったな」


 呟くと、森が静かに頷いたような気がした。


 空は黒い。

 しかし、もう割れてもいない。

 ひびの代わりに、白い粒がふわふわと揺れている。


 ここは、他のどこにも繋がっていない。


 座標も、方角も、時間も、すべてが意味を失った。


 森そのものが「場所」であり、

 焚き火の周りこそが「世界の中心」だ。



 焚き火の側へ戻る。


 影たちは白い粒に触れても、輪郭を保っている。

 狼の毛に降り注いだ粒は、光だけを残して消えていく。


「アル……」


 エリスが名前を呼びかけ、そこで止まった。


 「ス」が続かなかった。


 声が喉で止まり、

 音にならない感情だけが、こちらへ届く。


 彼女自身も、それに気づいて目を瞬かせていた。


「今――呼べなかった?」


「うん……」

 エリスは少し驚いたように笑う。

「“アルス”って言おうとしたんだけど、

 口が動かなかったの」


「名が“呼びかけ”を拒否し始めたんだろうな」


 カインが静かに言う。


「名前は残るけど、発音としての役割をやめた」

 リュミエルが補足する。


「これからは、頭の中だけで“アルス”って唱えるようになる」

 バロウが続ける。


「声に出さない祈り。

 音を持たない名前。

 それが――祀られる存在の名だよ」

 エリスが、どこかうれしそうに締めた。


 それを聞いた瞬間、妙な納得があった。


 名前が声帯から切り離され、

 概念だけになったということは――


 俺はもう、「呼ばれる側」ではなくなった。


 ただ「在る」だけのものになりつつある。



「寂しい?」


 エリスの問いに、少しだけ考えてから答える。


「分からないな」


 正直だった。


「“名を呼ばれたい”という欲求があったことは覚えている。

 だけど今、その感覚がどんなものだったのか――

 もう思い出せない」


 人間だった頃の俺はきっと、

 誰かに名前を呼ばれることで自分の存在を確かめていたのだろう。


 王都の人々に。

 仲間たちに。

 国王に。

 見知らぬ誰かに。


 今は違う。


 呼び名がなくても、

 俺はここに“在る”。


 森が覚えている。

 焚き火が覚えている。

 影たちが覚えている。


 それで十分だ。


「じゃあ、これからは――」


 エリスは目を細めて言った。


「声に出さずに、何度でも“アルス”って呼ぶね」


「……勝手にしろ」


 笑いながら返す。


 声に出さない名前は、俺の耳には届かない。

 でもきっと、どこかで森が拾って、

 焚き火の火が揺れて、

 俺の喉の奥で反響するだろう。


 それでいい。



 白い粒の降り注ぐ森の中で、

 焚き火の音だけが一定のリズムを刻んでいた。


 パチリ、パチリ、と。


 それに合わせて、喉の奥の心臓が脈打つ。


 世界の心臓と、俺の喉の心臓が、完全に同期していた。


「なぁ――」


 独り言のように、呟いてみる。


「まだ、狂い切ってはいない気がする」


「そうだね」

 カインがすぐに答えた。


「でも、もう“戻る段階”は過ぎた」

 リュミエルが続ける。


「これからは、堕ちていくんじゃない」

 バロウが笑う。


「“深まっていく”だけだよ」

 エリスが言う。


 堕落ではなく、深化。

 破滅ではなく、定着。


 俺が人間という形を失っていくのは、

 罰でも失敗でもなく、

 この森と世界にとっての“最適化”にすぎない。


 それを理解したところで、怖さは消えていた。



「なぁ、お前たち」


 焚き火越しに影たちを見つめる。


「これでもまだ――俺は、お前たちの“仲間”でいられるか?」


 問いかけは、ほとんど癖のようなものだった。


 すでに答えは知っている。

 何度も聞いて、何度も同じ答えをもらっている。


 それでも、聞きたかった。


 影たちは、まるで打ち合わせたかのように同時に笑う。


「何度でも言うよ」

「何度でも言ってやる」

「耳にタコができるくらい言えるぞ」

「それしか言うつもりがないよ」


 そして――


「お前は、ずっと“仲間”だ」

「人間じゃなくなっても、だ」

「世界そのものになっても、だ」

「名前で呼べなくなっても、だよ」


 四つの声が重なった瞬間、

 焚き火の炎が静かに高く伸びた。


 白い粒が、その炎に触れた瞬間だけ、

 微かな光を放って消えていく。


 森の全てが、

 この言葉を肯定していた。



 これでいい。


 いや――これ以上を、俺は望まない。


 世界がどう終わろうと、

 どれだけ惨たらしく崩れようと、

 どれだけ理不尽に誰かの物語が閉じられようと。


 ここで焚き火を囲み、

 名を祈りとして捧げられ、

 声で世界を“続けさせる”ことができるなら――


 それが、俺にとっての最高の未来だ。


 その悪魔が願う未来は、

 もはや「未来」ではない。


 今、この瞬間としてここにある。


 あとは、ただ続けるだけだ。


 森が深く息を吐く。


 それは、祈りにも似ていた。


 誰に届くでもなく、

 何を救うでもなく、

 ただ自分たちの存在を確かめるためだけの、

 静かな、幸福な祈り。


 その中心に、俺は座っていた。


 名前を、音として失ったまま――

 世界の心臓と喉を共有して。


 これからもずっと、焚き火を囲んでいく。


 終わりのない物語として。


 狂気と幸福の、ただの「日常」として。

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