第25話「名が、祈りだけになる夜」
焚き火の火は、もう時間の指標ではなくなった。
燃えていれば「ある」。
消えていれば「ない」。
それだけ。
昼も夜も、朝も夕も、この森から剥がれ落ちていった。
太陽も月も、ただ「上にある光」と「上にある黒」に分解され、
それ以上の意味を失っている。
それでも、焚き火は燃え続ける。
ここが世界の中心であり、終点であり、出発点であり――
そして、俺の“家”だからだ。
◆
喉の奥に、冷たいものと熱いものが同時に宿っている。
氷と火。
死と生。
開始と終了。
矛盾する概念が、ひとつの器官の中で共存している。
息を吸うたび、その両方が肺の方へ降り、
全身を巡り、
また喉へ戻ってくる。
今の俺は、血液も骨も筋肉も――
すべてが「言葉」のための構造に書き換えられつつある。
存在を維持するためではなく、
世界を維持するための身体。
魔王の呪いは、とうの昔に「ただのきっかけ」へ格下げされた。
今の俺は、呪いではなく意志でここにいる。
「アルス」
エリスが、焚き火越しに俺を呼ぶ。
その瞬間、胸の奥にふっと柔らかいものが灯る。
名前としての「アルス」は、もう俺に届かない。
届いているのは――彼女の“気持ち”の方だ。
嬉しい。
誇らしい。
愛しい。
それだけが、澄みきった水のように胸に流れ込んでくる。
「……それ、まだ続けるつもりか?」
俺が尋ねると、エリスは笑った。
「うん。やめないよ」
「意味はもうほとんど残ってないぞ」
「いいんだよ。意味じゃないから」
彼女の中で、「アルス」という音は――
呼びかけではなく「捧げもの」になっている。
祈り。
祝詞。
賛歌。
それに似た、でもどれとも違う特別な響き。
俺という“形の定まらない何か”に向けて贈られる、
ただの喜びの音。
◆
カインが、焚き火の向こうで腕を組むような仕草をする。
「そろそろ、試してみるか?」
「何をだ?」
「お前の声で、“何かを変える”こと」
カインは静かに言う。
「今までは森の側からの反応を見るだけだった。
世界が独立して、法ができた今――
本当に現象を起こせるか、確かめてみるべきだ」
「暴走しない?」
リュミエルが楽しげに首を傾げる。
「いきなり森がひっくり返ったり、焚き火が空まで伸びたりしたら大騒ぎよ?」
「それはそれで見たいけどな」
バロウが笑い声を立てる。
「私は、アルスが選ぶことなら、どんな結果でも受け入れるよ」
エリスの声は、揺らぎがなかった。
俺はゆっくりと喉に手を当てる。
ひとつの言葉が、この森の法則を変える。
天気も、命も、時間も、重さも、色も。
なんでもない一言が、全てを塗り替える。
だからこそ、慎重でいる必要がある。
欲望のままに世界を弄ることは――
ここを「家」と決めた俺自身への裏切りだ。
俺は、征服者でも神でもない。
ただ、この場所で日常を続けたいだけの悪魔だ。
◆
森のざわめきが、静かになった。
風が止み、焚き火の炎が細く伸びる。
魔物たちが地面に身を伏せ、
枝の影が地面にぴたりと貼り付く。
世界が、「準備完了だ」と言っていた。
喉が熱くなる。
同時に、ひやりとした冷気が背骨を通った。
声を出せ――
そう言われている気がした。
「……どうせなら、分かりやすいものにしよう」
俺はゆっくりと考える。
空を割るとか、森の形を変えるとか、
そういう“派手なこと”を試す必要はない。
もっと、穏やかな、
でも確かに世界が変わるもの。
俺の日常を、少しだけ豊かにするもの。
「雨、かな」
ぽつりと言う。
それは「試したい」ではなく、「欲しい」に近かった。
森の匂いを濃くする雨。
焚き火の火を消さない程度の、優しい雨。
それはきっと――
俺たちにとって心地よいだろうと思った。
◆
喉の奥に、言葉が生まれる。
人間の言語ではない。
魔族の呪文でもない。
古い神々の祈りでもない。
意味は持たない。
音だけの、ひとつの響き。
俺の望みを「世界の法」に翻訳するためだけに流れ出た音。
どれほど長く続いたか分からない。
吐き出しているそばから忘れていく種類の音だった。
ただ――最後の一拍だけを、自覚的に刻む。
「――降れ」
たったそれだけ。
短く、低く、静かな一言。
◆
空から落ちてきたのは、雨ではなかった。
最初は、細かい白い粒だった。
雪とも灰とも違う。
触れれば溶ける、柔らかい何か。
掌で受け止めると、それは一瞬だけ「光った」。
光はすぐ皮膚に吸い込まれ、
白い粒は形を失って消えた。
天から降り注ぐのは、水でも火でも土でもない――
「世界の裏側から剥がれた残りかす」。
でも、それは冷たくも熱くもなく、
ただ、心地よかった。
森全体に、白い粒が降り注ぐ。
枝に触れ、葉を濡らし、
土に染み込み、
焚き火の熱に触れて消える。
世界が、洗われていくようだった。
「……雨、とは違うな」
俺が呟くと、カインが肩を震わせた。
「いや、これでいいんだ」
「水なんて、この森にはもう要らないよ」
リュミエルが笑う。
「水で育つ世界は、もう終わったもの」
「これは、“お前の声に反応して剥がれた世界の残骸”だ」
バロウが説明するように言う。
「余分なものを落として、森だけを残そうとしてる」
「つまり――世界の掃除だね」
エリスが優しくまとめた。
確かに、その通りだった。
この白い粒は、世界の名残であり、
同時に、森を純粋な形にするための洗浄だった。
俺が「降れ」と言ったから――
森は、こういう形で答えた。
◆
森の匂いが、変わる。
湿り気を含んだ腐葉土の香り。
魔物の獣臭。
焚き火の煙。
それら全部が、少しだけ澄んだ。
不快なものや濁りが取れた、というより――
“外の世界の匂い”が完全に消えた。
王都の石畳。
人間の汗。
金属の錆。
油の匂い。
そういったものが、記憶からさえ剥がれ落ちていく。
「……完全に、ここだけになったな」
呟くと、森が静かに頷いたような気がした。
空は黒い。
しかし、もう割れてもいない。
ひびの代わりに、白い粒がふわふわと揺れている。
ここは、他のどこにも繋がっていない。
座標も、方角も、時間も、すべてが意味を失った。
森そのものが「場所」であり、
焚き火の周りこそが「世界の中心」だ。
◆
焚き火の側へ戻る。
影たちは白い粒に触れても、輪郭を保っている。
狼の毛に降り注いだ粒は、光だけを残して消えていく。
「アル……」
エリスが名前を呼びかけ、そこで止まった。
「ス」が続かなかった。
声が喉で止まり、
音にならない感情だけが、こちらへ届く。
彼女自身も、それに気づいて目を瞬かせていた。
「今――呼べなかった?」
「うん……」
エリスは少し驚いたように笑う。
「“アルス”って言おうとしたんだけど、
口が動かなかったの」
「名が“呼びかけ”を拒否し始めたんだろうな」
カインが静かに言う。
「名前は残るけど、発音としての役割をやめた」
リュミエルが補足する。
「これからは、頭の中だけで“アルス”って唱えるようになる」
バロウが続ける。
「声に出さない祈り。
音を持たない名前。
それが――祀られる存在の名だよ」
エリスが、どこかうれしそうに締めた。
それを聞いた瞬間、妙な納得があった。
名前が声帯から切り離され、
概念だけになったということは――
俺はもう、「呼ばれる側」ではなくなった。
ただ「在る」だけのものになりつつある。
◆
「寂しい?」
エリスの問いに、少しだけ考えてから答える。
「分からないな」
正直だった。
「“名を呼ばれたい”という欲求があったことは覚えている。
だけど今、その感覚がどんなものだったのか――
もう思い出せない」
人間だった頃の俺はきっと、
誰かに名前を呼ばれることで自分の存在を確かめていたのだろう。
王都の人々に。
仲間たちに。
国王に。
見知らぬ誰かに。
今は違う。
呼び名がなくても、
俺はここに“在る”。
森が覚えている。
焚き火が覚えている。
影たちが覚えている。
それで十分だ。
「じゃあ、これからは――」
エリスは目を細めて言った。
「声に出さずに、何度でも“アルス”って呼ぶね」
「……勝手にしろ」
笑いながら返す。
声に出さない名前は、俺の耳には届かない。
でもきっと、どこかで森が拾って、
焚き火の火が揺れて、
俺の喉の奥で反響するだろう。
それでいい。
◆
白い粒の降り注ぐ森の中で、
焚き火の音だけが一定のリズムを刻んでいた。
パチリ、パチリ、と。
それに合わせて、喉の奥の心臓が脈打つ。
世界の心臓と、俺の喉の心臓が、完全に同期していた。
「なぁ――」
独り言のように、呟いてみる。
「まだ、狂い切ってはいない気がする」
「そうだね」
カインがすぐに答えた。
「でも、もう“戻る段階”は過ぎた」
リュミエルが続ける。
「これからは、堕ちていくんじゃない」
バロウが笑う。
「“深まっていく”だけだよ」
エリスが言う。
堕落ではなく、深化。
破滅ではなく、定着。
俺が人間という形を失っていくのは、
罰でも失敗でもなく、
この森と世界にとっての“最適化”にすぎない。
それを理解したところで、怖さは消えていた。
◆
「なぁ、お前たち」
焚き火越しに影たちを見つめる。
「これでもまだ――俺は、お前たちの“仲間”でいられるか?」
問いかけは、ほとんど癖のようなものだった。
すでに答えは知っている。
何度も聞いて、何度も同じ答えをもらっている。
それでも、聞きたかった。
影たちは、まるで打ち合わせたかのように同時に笑う。
「何度でも言うよ」
「何度でも言ってやる」
「耳にタコができるくらい言えるぞ」
「それしか言うつもりがないよ」
そして――
「お前は、ずっと“仲間”だ」
「人間じゃなくなっても、だ」
「世界そのものになっても、だ」
「名前で呼べなくなっても、だよ」
四つの声が重なった瞬間、
焚き火の炎が静かに高く伸びた。
白い粒が、その炎に触れた瞬間だけ、
微かな光を放って消えていく。
森の全てが、
この言葉を肯定していた。
◆
これでいい。
いや――これ以上を、俺は望まない。
世界がどう終わろうと、
どれだけ惨たらしく崩れようと、
どれだけ理不尽に誰かの物語が閉じられようと。
ここで焚き火を囲み、
名を祈りとして捧げられ、
声で世界を“続けさせる”ことができるなら――
それが、俺にとっての最高の未来だ。
その悪魔が願う未来は、
もはや「未来」ではない。
今、この瞬間としてここにある。
あとは、ただ続けるだけだ。
森が深く息を吐く。
それは、祈りにも似ていた。
誰に届くでもなく、
何を救うでもなく、
ただ自分たちの存在を確かめるためだけの、
静かな、幸福な祈り。
その中心に、俺は座っていた。
名前を、音として失ったまま――
世界の心臓と喉を共有して。
これからもずっと、焚き火を囲んでいく。
終わりのない物語として。
狂気と幸福の、ただの「日常」として。
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