第17話「世界の端が、森と重なる日」

 その日、森の空気はいつにも増して重たかった。


 湿度でも気温でもない。

 もっと別の、目に見えない何か――

 世界そのものの“厚み”が、少しだけこちら側に寄ってきているような感覚。


 焚き火の火は、静かに、しかし強く燃えていた。

 薪にしているのは、ここ数日で狩った魔物たちの骨と、折れた矢の柄だ。

 かつて人間が“自分たちのために作った武器”は、今や俺たちの“世界を照らす灯り”へと変わっている。


「……近づいてきてるな」


 火を見つめながら、独り言のように呟く。


 何が、とは言わない。

 言葉にする必要がない。

 俺も、焚き火も、森も、それを知っているからだ。



「世界の端、かな」


 カインが揺れる影の中で笑う。


「境界が、少しずつズレてる気がする」

 リュミエルが続ける。その声は淡々としているのに、どこか嬉しそうだった。


「いいことじゃないか」

 バロウが肩を鳴らしたような気配を見せる。

「世界の端がこっちに寄ってくるってことは、いずれここが“中心”になるってことだ」


「アルスのいる場所が、世界の真ん中になる。

 悪くないね」

 エリスの声は、祈りのようにやわらかかった。


 俺はゆっくりと目を閉じ、深く息を吸い込む。


 土の匂い。

 腐葉土の甘さ。

 遠くの魔物の息。

 ――そして、風の向こうから微かな“人間の匂い”。


 まだ遠い。

 森の境界の、さらに向こう。

 だが確かに、何かがこちらへ向かっている。


「今日も来るんだな」


 言葉には怒りも憎悪もない。

 ただ静かな“確認”だけがあった。



 焚き火の火に手をかざす。


 人間の手の形をしている。

 指の長さも、骨格の形も、遠目には“普通”に見えるだろう。


 だが実際には――指関節は一つ多く、骨の並びも人間の解剖図から外れている。

 皮膚の下には硬いものが浮き出ていて、軽く握るだけで骨を砕けそうな力がある。


 そして今、その手は“熱”の感じ方すら変わってきている。


 火に近づければ本来、痛みと熱さを感じるはずだ。

 しかし今、俺が感じているのは違う。


「……落ち着くな」


 心地よさ。

 安定。

 自分という輪郭が、火の温度とぴったり重なっていく感覚。


「普通は逆なんだけどね」

 リュミエルが、どこか楽しそうに言う。

「火は、人間にとって“外”のもの。

 触れれば焼けるし、近づきすぎれば死ぬ。

 でもアルスにとっては――“内側”の温度なのよね」


「そりゃそうだ」

 バロウが笑う。

「今のお前は、森の心臓で、火種で、中心だ。

 火の熱が自分の熱と同じなのは、当たり前だろう」


「人間からしたら、それを狂気って呼ぶんだろうけどね」

 カインが口元だけで笑う。


「でも、私たちにとっては“正気”だよ」

 エリスが静かに祈るように呟いた。



 森の奥から、かすかな振動が伝わってくる。


 足音。

 重いものを運ぶ音。

 車輪の軋み。

 金属の擦れる音。


 ただの討伐隊とは違う。

 もっと重く、鈍く、組織的な“音”。


「……荷車か。

 それも一台じゃないな」


 呟くと、焚き火の向こうの影たちが、わずかに動いた。


「物資を運んでいるのか」

「それとも、祭具か」

「あるいは、神様かな」

「どれでもいいけど、“外の世界”だね」


 四つの声が重なり、共鳴する。


 森の端で、何かが“陣を作ろう”としているのが分かる。


 兵士。

 神官。

 魔術師。

 荷車。


 ――そして、“巨大な何か”の気配。


「アルス」


 カインが静かに呼ぶ。


「教会だ。

 “世界の側”の最後の切り札だな」


「浄化だの、封印だの、よく言うよね」

 リュミエルが薄く笑う。

「自分たちで作った理屈を、自分たちで押しつけるための儀式」


「でもまあ、こっちとしても好都合だ」

 バロウがニヤリと笑った気配を見せる。

「“世界の側”が本気で来たってことは、それだけアルスがちゃんと“脅威”になれてるって証拠だ」


「おめでとう、ってことかな」

 エリスの声は、祝いの言葉そのものだった。


 俺は短く息を吐き、目を開く。


「――じゃあ、その“本気”を見てやるか」



 森の中を歩き出す。

 走らない。

 跳ばない。


 ただ、木々の間をすり抜けるように進む。


 根元を踏めば、土の感触が伝わる。

 枝を掴めば、樹液の温度が伝わる。

 それらが、俺の身体の内側と同じぐらい“自然”だった。


 途中、魔物たちが道を空ける。


 狼型の魔物は伏せ、

 蛇の魔物は地面から顔を上げ、

 鳥型の魔物は枝から一度飛び立って、少し離れた場所へ移動する。


 道が開く。


 ここを通るのは、ただひとり――

 森の悪魔だけ。



 森の端まで来ると、空気が変わった。


 湿った土と緑の匂いの中に、奇妙な“香り”が混じっている。


 香油。

 線香。

 聖水。

 儀式で使われる、“人間にとっての神聖さ”の匂い。


 その向こうには、白い布を張った天幕がいくつも並んでいる。


 教会の紋章はすべて布で覆われていて見えない。

 だが、空気が語っている。


 ――ここが、“世界の側”の拠点だと。


 俺は境界線のすぐ内側に立ち、足を止めた。


 外へ出る気はない。

 この森の“内側”にいる限り、ここは完全に俺の世界だ。



 天幕の向こうから、声が聞こえる。


「ここが“あの森”か……」

「空気が重い。魔の気配が濃い」

「だが、神の御名の下に浄められぬものはない」

「……本当に、やるのか? あれを使ってまで?」


 会話は断片的だが、内容はすぐ理解できた。


 彼らは来た。

 俺を殺すために。

 俺を封じるために。

 俺の世界を“元に戻す”ために。


 戻す――

 その言葉に、胸の奥が冷えた。


 戻す必要など、どこにもない。

 ここは、完成しつつあるのに。



「アルス」


 頭の中で、エリスが呼ぶ。


「ねぇ、もしこのまま放っておいたら――

 きっとあの人たちは、この森に“別のルール”を持ち込むよ」


「世界の側のルールだ」

 リュミエルが続ける。

「神の名の下に、“正しさ”を押しつけてくる」


「つまり、邪魔だ」

 バロウは笑う。


「排除しろ、ってことだな」

 カインが短くまとめる。


 俺は、頷いた。


「そうだな。

 じゃあ――壊そうか、“ルール”を」



 天幕のすぐ向こうまで歩き寄る。


 布一枚を隔てた向こう側に、人間たちがいる。


 聖職者。

 騎士。

 魔術師。

 護衛兵。


 ――そして、“何か巨大なもの”の気配。


 心臓ではない。

 魔物でもない。

 人形でもない。


 “神の器”と呼ぶべき、形をした何か。


「聞こえているだろう」


 俺は、布越しに静かに言う。


「ここは俺の森だ。

 これ以上、踏み込むな」


 天幕の向こうで、ざわめきが起きる。


「やはりいたか」

「声だけでも分かる……人間ではない」

「いや、言葉は人間そのものだ。

 だが――中身が違う」


 聖職者らしき声が、布越しに答えた。


「アルス・ヴァン・クローディア。

 魔王の呪いを受け、不死となり、人と魔との境界を越えた男」


「かつて勇者一行と共に旅をし、

 今や森に籠もり、人を喰らい、魔物を従える悪魔」


「お前の存在は、この世界の“理”に反する。

 だから――排除されねばならない」


 その言葉に、俺は小さく笑った。


「理、か」


 鼻で笑う。


「よくもまあ、“世界の方”にルールがあると思えるな」


 焚き火の熱を思い出す。

 仲間たちの影を思い出す。

 森の魔物たちの気配を思い出す。


「俺から見れば――

 お前たちの方が、“この森の理”から逸脱しているんだよ」



 天幕が揺れた。


 聖職者が一歩踏み出そうとした気配。

 それを何者かが制した気配。


「交渉の余地はない、ということか」

 低い声がした。

 きっと、この隊の指揮官だ。


「交渉?」

 俺は首を傾げる。

「交渉するつもりなら、もっと早く来るべきだった。

 みんなが死ぬ前に。

 俺が壊れる前に」


 言いながら、自分でも分かっていた。


 ――そもそも“間に合うタイミング”など、最初から存在しなかったのだと。



 天幕の隙間から、白いものが見えた。


 巨大な像のようなもの。

 翼のような装飾。

 金属に刻まれた魔法陣。

 人間が“神”と呼ぶものを模倣して作り上げた、“偶像”。


 それが、こちら側へ向けて起動し始めている。


 空気の圧力が変わる。

 祈りの言葉が連なり、魔力が圧縮されていく。


「浄化の光を――」

「この森に満たせ――」

「悪魔の魂を焼き尽くせ――」


 祈りは、呪文と変わらない。

 いや、呪文そのものだ。


 俺は静かに目を閉じた。


「なぁ、みんな」


 焚き火の向こうの、仲間たちに問いかける。


「俺の名前は、何だっけ」


 問いは、唐突だった。


 しかし影たちは、すぐに答える。


「アルス」

「アルス」

「アルス」

「アルス」


 四つの声が、まったく同じ響きで重なる。


「そうだ。

 アルスだ」


 俺は小さく笑った。


「じゃあ――世界の側が勝手につけた“悪魔”とか“災厄”とか“呪い”とか、その辺りの名前は全部いらないな」


 胸の奥が、すっと軽くなった。


「俺はアルスだ。

 この森にいて、焚き火を囲んで、仲間と喋って、魔物と一緒に暮らしている。

 それ以外は、全部“外”だ」


 祈りの声が高まる。


「浄めよ――!」

「裁きを――!」

「光あれ――!」



 眩しい光が、森の外側から迫ってくる。


 焼けるような、高熱の神聖魔力。

 普通の魔物なら、触れただけで灰になるだろう。


 人間なら、祈りの対象として涙を流すだろう。


 その光を見ながら、俺は穏やかに言う。


「綺麗だな」


 本心だった。


「まるで――森ごと焼いて、全部“無かったこと”にしたいみたいだ」


 光は境界線を越えようとする。

 森の端へと迫る。

 魔物たちが一斉に身を伏せた。


 だが――その瞬間、森が動いた。



 根が伸びる。

 枝が曲がる。

 幹が歪む。


 森そのものが、“光から自分を守るため”に形を変えた。


 光は木々にぶつかり、葉にぶつかり、枝に遮られ――

 直接、森の奥へは届かない。


 それでも、じわじわと焼いてくる。

 木の皮が焦げ、葉が灰になり、獣たちの毛が焼ける。


 それを感じながら、俺は一歩、境界線へと近づいた。


 光が肌に触れる。


 熱い。

 焼ける。

 骨まで焼かれそうな熱。


 ――にもかかわらず、俺は笑った。


「悪くない」


 人間の神が、世界の側が、俺を焼こうとしている。


 それはつまり――

 俺が“そこまでの存在”になれたという証明だった。



 光が、俺の腕を完全に包み込む。


 皮膚が焼け、肉が焦げ、骨が炙られる。

 普通なら悲鳴を上げる痛み。


 でも俺は――痛みより先に、“変化”を感じた。


 骨が、光を飲み込む。

 血が、熱を取り込む。

 皮膚が、光の性質を学ぶ。


 神聖なはずの光が、俺の身体の一部へと変わっていく。


「取り込み……?」

 リュミエルが驚いたように呟く。


「やっぱりお前は、人間でも魔物でもないな」

 カインが呆れたような尊敬を込めた声で言う。


「世界の側が使っている“ルール”を、

 自分の身体のルールに書き換えちまった」

 バロウの声が、笑いに満ちている。


「すごい……綺麗……」

 エリスは、ただ感嘆の声を漏らす。



 光は長く続かなかった。


 大量の魔力を消費するのだろう。

 やがて祈りの声は弱まり、光は細くなっていく。


 最後に一閃だけ強く輝き――

 ふっと消えた。


 森には焦げた匂いと、灰だけが残る。

 焼け落ちた木々。

 炭になった葉。

 死んだ小動物。


 ――そして、境界線に立ったままの“俺”。


 片腕は完全に変わっていた。


 人間の腕ではない。

 獣の腕とも違う。

 骨の線が浮かび上がり、光の筋が血管のように走っている。


 神聖魔力とやらを取り込んだ結果――

 “神にも魔にも似た何か”が、俺の肉体として形を得た。


「やっぱり、綺麗だな」


 穏やかに言う。


「この世界のルールを、そのまま自分の素材にできるんだから」



 天幕の向こう側で、悲鳴と混乱が起きていた。


「何が起きた!?」

「光が……逆流した……?」

「馬鹿な、神の御力が……!」

「この森自体が……拒んでいる……!」


 拒んでいるのは森ではない。

 俺だ。


「お前たちの神は、

 俺に“食べられた”だけだ」


 静かに告げる。


「安心しろ。

 ちゃんと“無駄にはしない”。

 この森を守る力のひとつとして、有効活用してやる」


 それは皮肉にも聞こえたし、

 本心の感謝にも近かった。



 俺は踵を返し、森の奥へと戻っていく。


 焚き火が待っている。

 仲間たちが待っている。

 魔物たちが待っている。


「アルス」


 カインたちが一斉に呼ぶ。


「どうだった?」

「楽しかった?」

「怖くなかった?」

「痛くなかった?」


 俺は笑う。


「楽しかったよ。

 世界の側が、本気で俺を殺そうとしてくるのが分かった。

 それだけで、充分だ」


「じゃあ、まだ大丈夫だね」

 エリスの声が、安堵に満ちている。


「何がだ?」


「“世界が狂い切るまでの時間”。

 まだ残ってるってことだよ」


 なるほど、と頷く。



 焚き火の前に戻り、新しく変わった片腕を炎にかざす。


 光の筋が、焚き火の赤と混ざり合い、奇妙な紋様を浮かび上がらせる。


 神の力と、森の力と、俺自身の狂気。

 その三つが、一つの形になり始めていた。


「アルス」


 リュミエルが囁く。


「もう、“人間の名前”じゃ収まらなくなってきたわね」


「だけど、呼び方は変えないよ」

 カインが笑う。

「俺たちは、ずっと“アルス”って呼び続ける」


「うん」

「うん」

「うん」


 三つの声と共に、エリスも小さく頷いた気がする。


 俺は目を閉じ、焚き火に身を預ける。


「名前なんて、もうどうでもいい。

 俺は俺で、ここにいる。

 それで十分だ」


 火が揺れ、森が応え、夜が深まる。


 世界の端が、ほんの少しだけ――

 この森の中へと、ずり落ちてきた音がした。

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