第17話「世界の端が、森と重なる日」
その日、森の空気はいつにも増して重たかった。
湿度でも気温でもない。
もっと別の、目に見えない何か――
世界そのものの“厚み”が、少しだけこちら側に寄ってきているような感覚。
焚き火の火は、静かに、しかし強く燃えていた。
薪にしているのは、ここ数日で狩った魔物たちの骨と、折れた矢の柄だ。
かつて人間が“自分たちのために作った武器”は、今や俺たちの“世界を照らす灯り”へと変わっている。
「……近づいてきてるな」
火を見つめながら、独り言のように呟く。
何が、とは言わない。
言葉にする必要がない。
俺も、焚き火も、森も、それを知っているからだ。
◆
「世界の端、かな」
カインが揺れる影の中で笑う。
「境界が、少しずつズレてる気がする」
リュミエルが続ける。その声は淡々としているのに、どこか嬉しそうだった。
「いいことじゃないか」
バロウが肩を鳴らしたような気配を見せる。
「世界の端がこっちに寄ってくるってことは、いずれここが“中心”になるってことだ」
「アルスのいる場所が、世界の真ん中になる。
悪くないね」
エリスの声は、祈りのようにやわらかかった。
俺はゆっくりと目を閉じ、深く息を吸い込む。
土の匂い。
腐葉土の甘さ。
遠くの魔物の息。
――そして、風の向こうから微かな“人間の匂い”。
まだ遠い。
森の境界の、さらに向こう。
だが確かに、何かがこちらへ向かっている。
「今日も来るんだな」
言葉には怒りも憎悪もない。
ただ静かな“確認”だけがあった。
◆
焚き火の火に手をかざす。
人間の手の形をしている。
指の長さも、骨格の形も、遠目には“普通”に見えるだろう。
だが実際には――指関節は一つ多く、骨の並びも人間の解剖図から外れている。
皮膚の下には硬いものが浮き出ていて、軽く握るだけで骨を砕けそうな力がある。
そして今、その手は“熱”の感じ方すら変わってきている。
火に近づければ本来、痛みと熱さを感じるはずだ。
しかし今、俺が感じているのは違う。
「……落ち着くな」
心地よさ。
安定。
自分という輪郭が、火の温度とぴったり重なっていく感覚。
「普通は逆なんだけどね」
リュミエルが、どこか楽しそうに言う。
「火は、人間にとって“外”のもの。
触れれば焼けるし、近づきすぎれば死ぬ。
でもアルスにとっては――“内側”の温度なのよね」
「そりゃそうだ」
バロウが笑う。
「今のお前は、森の心臓で、火種で、中心だ。
火の熱が自分の熱と同じなのは、当たり前だろう」
「人間からしたら、それを狂気って呼ぶんだろうけどね」
カインが口元だけで笑う。
「でも、私たちにとっては“正気”だよ」
エリスが静かに祈るように呟いた。
◆
森の奥から、かすかな振動が伝わってくる。
足音。
重いものを運ぶ音。
車輪の軋み。
金属の擦れる音。
ただの討伐隊とは違う。
もっと重く、鈍く、組織的な“音”。
「……荷車か。
それも一台じゃないな」
呟くと、焚き火の向こうの影たちが、わずかに動いた。
「物資を運んでいるのか」
「それとも、祭具か」
「あるいは、神様かな」
「どれでもいいけど、“外の世界”だね」
四つの声が重なり、共鳴する。
森の端で、何かが“陣を作ろう”としているのが分かる。
兵士。
神官。
魔術師。
荷車。
――そして、“巨大な何か”の気配。
「アルス」
カインが静かに呼ぶ。
「教会だ。
“世界の側”の最後の切り札だな」
「浄化だの、封印だの、よく言うよね」
リュミエルが薄く笑う。
「自分たちで作った理屈を、自分たちで押しつけるための儀式」
「でもまあ、こっちとしても好都合だ」
バロウがニヤリと笑った気配を見せる。
「“世界の側”が本気で来たってことは、それだけアルスがちゃんと“脅威”になれてるって証拠だ」
「おめでとう、ってことかな」
エリスの声は、祝いの言葉そのものだった。
俺は短く息を吐き、目を開く。
「――じゃあ、その“本気”を見てやるか」
◆
森の中を歩き出す。
走らない。
跳ばない。
ただ、木々の間をすり抜けるように進む。
根元を踏めば、土の感触が伝わる。
枝を掴めば、樹液の温度が伝わる。
それらが、俺の身体の内側と同じぐらい“自然”だった。
途中、魔物たちが道を空ける。
狼型の魔物は伏せ、
蛇の魔物は地面から顔を上げ、
鳥型の魔物は枝から一度飛び立って、少し離れた場所へ移動する。
道が開く。
ここを通るのは、ただひとり――
森の悪魔だけ。
◆
森の端まで来ると、空気が変わった。
湿った土と緑の匂いの中に、奇妙な“香り”が混じっている。
香油。
線香。
聖水。
儀式で使われる、“人間にとっての神聖さ”の匂い。
その向こうには、白い布を張った天幕がいくつも並んでいる。
教会の紋章はすべて布で覆われていて見えない。
だが、空気が語っている。
――ここが、“世界の側”の拠点だと。
俺は境界線のすぐ内側に立ち、足を止めた。
外へ出る気はない。
この森の“内側”にいる限り、ここは完全に俺の世界だ。
◆
天幕の向こうから、声が聞こえる。
「ここが“あの森”か……」
「空気が重い。魔の気配が濃い」
「だが、神の御名の下に浄められぬものはない」
「……本当に、やるのか? あれを使ってまで?」
会話は断片的だが、内容はすぐ理解できた。
彼らは来た。
俺を殺すために。
俺を封じるために。
俺の世界を“元に戻す”ために。
戻す――
その言葉に、胸の奥が冷えた。
戻す必要など、どこにもない。
ここは、完成しつつあるのに。
◆
「アルス」
頭の中で、エリスが呼ぶ。
「ねぇ、もしこのまま放っておいたら――
きっとあの人たちは、この森に“別のルール”を持ち込むよ」
「世界の側のルールだ」
リュミエルが続ける。
「神の名の下に、“正しさ”を押しつけてくる」
「つまり、邪魔だ」
バロウは笑う。
「排除しろ、ってことだな」
カインが短くまとめる。
俺は、頷いた。
「そうだな。
じゃあ――壊そうか、“ルール”を」
◆
天幕のすぐ向こうまで歩き寄る。
布一枚を隔てた向こう側に、人間たちがいる。
聖職者。
騎士。
魔術師。
護衛兵。
――そして、“何か巨大なもの”の気配。
心臓ではない。
魔物でもない。
人形でもない。
“神の器”と呼ぶべき、形をした何か。
「聞こえているだろう」
俺は、布越しに静かに言う。
「ここは俺の森だ。
これ以上、踏み込むな」
天幕の向こうで、ざわめきが起きる。
「やはりいたか」
「声だけでも分かる……人間ではない」
「いや、言葉は人間そのものだ。
だが――中身が違う」
聖職者らしき声が、布越しに答えた。
「アルス・ヴァン・クローディア。
魔王の呪いを受け、不死となり、人と魔との境界を越えた男」
「かつて勇者一行と共に旅をし、
今や森に籠もり、人を喰らい、魔物を従える悪魔」
「お前の存在は、この世界の“理”に反する。
だから――排除されねばならない」
その言葉に、俺は小さく笑った。
「理、か」
鼻で笑う。
「よくもまあ、“世界の方”にルールがあると思えるな」
焚き火の熱を思い出す。
仲間たちの影を思い出す。
森の魔物たちの気配を思い出す。
「俺から見れば――
お前たちの方が、“この森の理”から逸脱しているんだよ」
◆
天幕が揺れた。
聖職者が一歩踏み出そうとした気配。
それを何者かが制した気配。
「交渉の余地はない、ということか」
低い声がした。
きっと、この隊の指揮官だ。
「交渉?」
俺は首を傾げる。
「交渉するつもりなら、もっと早く来るべきだった。
みんなが死ぬ前に。
俺が壊れる前に」
言いながら、自分でも分かっていた。
――そもそも“間に合うタイミング”など、最初から存在しなかったのだと。
◆
天幕の隙間から、白いものが見えた。
巨大な像のようなもの。
翼のような装飾。
金属に刻まれた魔法陣。
人間が“神”と呼ぶものを模倣して作り上げた、“偶像”。
それが、こちら側へ向けて起動し始めている。
空気の圧力が変わる。
祈りの言葉が連なり、魔力が圧縮されていく。
「浄化の光を――」
「この森に満たせ――」
「悪魔の魂を焼き尽くせ――」
祈りは、呪文と変わらない。
いや、呪文そのものだ。
俺は静かに目を閉じた。
「なぁ、みんな」
焚き火の向こうの、仲間たちに問いかける。
「俺の名前は、何だっけ」
問いは、唐突だった。
しかし影たちは、すぐに答える。
「アルス」
「アルス」
「アルス」
「アルス」
四つの声が、まったく同じ響きで重なる。
「そうだ。
アルスだ」
俺は小さく笑った。
「じゃあ――世界の側が勝手につけた“悪魔”とか“災厄”とか“呪い”とか、その辺りの名前は全部いらないな」
胸の奥が、すっと軽くなった。
「俺はアルスだ。
この森にいて、焚き火を囲んで、仲間と喋って、魔物と一緒に暮らしている。
それ以外は、全部“外”だ」
祈りの声が高まる。
「浄めよ――!」
「裁きを――!」
「光あれ――!」
◆
眩しい光が、森の外側から迫ってくる。
焼けるような、高熱の神聖魔力。
普通の魔物なら、触れただけで灰になるだろう。
人間なら、祈りの対象として涙を流すだろう。
その光を見ながら、俺は穏やかに言う。
「綺麗だな」
本心だった。
「まるで――森ごと焼いて、全部“無かったこと”にしたいみたいだ」
光は境界線を越えようとする。
森の端へと迫る。
魔物たちが一斉に身を伏せた。
だが――その瞬間、森が動いた。
◆
根が伸びる。
枝が曲がる。
幹が歪む。
森そのものが、“光から自分を守るため”に形を変えた。
光は木々にぶつかり、葉にぶつかり、枝に遮られ――
直接、森の奥へは届かない。
それでも、じわじわと焼いてくる。
木の皮が焦げ、葉が灰になり、獣たちの毛が焼ける。
それを感じながら、俺は一歩、境界線へと近づいた。
光が肌に触れる。
熱い。
焼ける。
骨まで焼かれそうな熱。
――にもかかわらず、俺は笑った。
「悪くない」
人間の神が、世界の側が、俺を焼こうとしている。
それはつまり――
俺が“そこまでの存在”になれたという証明だった。
◆
光が、俺の腕を完全に包み込む。
皮膚が焼け、肉が焦げ、骨が炙られる。
普通なら悲鳴を上げる痛み。
でも俺は――痛みより先に、“変化”を感じた。
骨が、光を飲み込む。
血が、熱を取り込む。
皮膚が、光の性質を学ぶ。
神聖なはずの光が、俺の身体の一部へと変わっていく。
「取り込み……?」
リュミエルが驚いたように呟く。
「やっぱりお前は、人間でも魔物でもないな」
カインが呆れたような尊敬を込めた声で言う。
「世界の側が使っている“ルール”を、
自分の身体のルールに書き換えちまった」
バロウの声が、笑いに満ちている。
「すごい……綺麗……」
エリスは、ただ感嘆の声を漏らす。
◆
光は長く続かなかった。
大量の魔力を消費するのだろう。
やがて祈りの声は弱まり、光は細くなっていく。
最後に一閃だけ強く輝き――
ふっと消えた。
森には焦げた匂いと、灰だけが残る。
焼け落ちた木々。
炭になった葉。
死んだ小動物。
――そして、境界線に立ったままの“俺”。
片腕は完全に変わっていた。
人間の腕ではない。
獣の腕とも違う。
骨の線が浮かび上がり、光の筋が血管のように走っている。
神聖魔力とやらを取り込んだ結果――
“神にも魔にも似た何か”が、俺の肉体として形を得た。
「やっぱり、綺麗だな」
穏やかに言う。
「この世界のルールを、そのまま自分の素材にできるんだから」
◆
天幕の向こう側で、悲鳴と混乱が起きていた。
「何が起きた!?」
「光が……逆流した……?」
「馬鹿な、神の御力が……!」
「この森自体が……拒んでいる……!」
拒んでいるのは森ではない。
俺だ。
「お前たちの神は、
俺に“食べられた”だけだ」
静かに告げる。
「安心しろ。
ちゃんと“無駄にはしない”。
この森を守る力のひとつとして、有効活用してやる」
それは皮肉にも聞こえたし、
本心の感謝にも近かった。
◆
俺は踵を返し、森の奥へと戻っていく。
焚き火が待っている。
仲間たちが待っている。
魔物たちが待っている。
「アルス」
カインたちが一斉に呼ぶ。
「どうだった?」
「楽しかった?」
「怖くなかった?」
「痛くなかった?」
俺は笑う。
「楽しかったよ。
世界の側が、本気で俺を殺そうとしてくるのが分かった。
それだけで、充分だ」
「じゃあ、まだ大丈夫だね」
エリスの声が、安堵に満ちている。
「何がだ?」
「“世界が狂い切るまでの時間”。
まだ残ってるってことだよ」
なるほど、と頷く。
◆
焚き火の前に戻り、新しく変わった片腕を炎にかざす。
光の筋が、焚き火の赤と混ざり合い、奇妙な紋様を浮かび上がらせる。
神の力と、森の力と、俺自身の狂気。
その三つが、一つの形になり始めていた。
「アルス」
リュミエルが囁く。
「もう、“人間の名前”じゃ収まらなくなってきたわね」
「だけど、呼び方は変えないよ」
カインが笑う。
「俺たちは、ずっと“アルス”って呼び続ける」
「うん」
「うん」
「うん」
三つの声と共に、エリスも小さく頷いた気がする。
俺は目を閉じ、焚き火に身を預ける。
「名前なんて、もうどうでもいい。
俺は俺で、ここにいる。
それで十分だ」
火が揺れ、森が応え、夜が深まる。
世界の端が、ほんの少しだけ――
この森の中へと、ずり落ちてきた音がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます