一 ふたりの遺体
神無月(十月)二日。
晴れの早朝。明け六ツ(午前六時)
「新材木町の堀から六助の遺体が上がった。今、検視中だ」
鍼医の看板をかかげる日本橋本舟町の鍼医室橋幻庵の家に近所の者が知らせた。
「六さんに何があったんだろう・・・。
和磨。見てきておくれ。ゆうべ、六さんに夕餉をふるまったの・・・。
どうして六さんが亡くなったか理由を知りたい。見てきておくれ・・・」
和磨の母のおさきは大八車引きの六助が亡くなったことを悲しみながら、亡くなった原因が昨夕ふるまった夕餉にあるのではないか気になっていた。もしそうなら、六助の親に何と詫びていいかわからない。何としても六さんが亡くなった訳を知りたいと思った。
大八車引きの六助は親孝行で優しく力持ちだ。和磨もよく知っている。どうして六さんが亡くなったか・・・。そう思いながら、室橋幻庵の子息の和磨は新材木町の堀に駆けつけた。
六助は新材木町の船着き場に引き上げられて検視されていた。胴巻きに巾着があり銭も入っている。酒の匂いがすると岡っ引きが話している。和磨は六助から、酒を飲むと心の臓が止まるので酒を飲めないと聞いたことがある。酔って堀に落ちたなら妙だと思った。
六助を検視した、町医者竹原松月と検視検分方の日野徳三郎は、六助の後頭部の髪の生え際にある蜂に刺されたような傷痕を与力の藤堂八郎に示し、それとは異なる内容、酔って心の臓が止まり堀に落ちたと話している。六助の身体に抵抗した痕跡は無い。
検視検分方の日野徳三郎は、惨殺事件の太刀筋を見極める、北町奉行所の検視役である。検視検分方の検視医は神田佐久間町の町医者竹原松月である。
和磨は六助の後頭部の傷痕を見るなり、六助は太い鍼で刺殺されたと確信した。この日本橋界隈で鍼を扱うのは父の幻庵だけだ・・・。和磨は足早にその場を去った。
家に戻った和磨は母のおさきに、検視医を務める神田佐久間町の町医者竹原松月が与力の藤堂八郎に話した検視結果を告げた。
「母上。六さんは酔って心の臓が止まり堀に落ちたとのことです。あの六さんが酒を飲むなんて信じられません」
おさきは日頃の六助を思って涙ぐみ、
「先生に六さんの死を伝えねば・・・」
といって幻庵の臥所へ行った。幻庵はまだ臥所に居た。
昨夕刻。幻庵は六助が届けた風呂敷包みを牧野豊前守上屋敷に届けに行ったまま、夕餉の刻限になっても帰宅しなかった。牧野豊前守上屋敷は、ここ本舟町から江戸橋を渡り本材木町の海賊橋を渡れば、目と鼻の先だ。往復に四半時もかからない。しかし、夜になっても幻庵は帰らず、幻庵が帰るまでは起きていようと思った和磨だったが、いつのまにか眠っていた。
昨夜、父はいつ帰ったのだろう。家に帰る前に六助に何かしたのか・・・。なぜ六助が太い鍼で殺害されたのか・・・。
堀から六助の遺体が上がったこの日。
幻庵は朝餉もとらず臥所から出てこなかった。和磨が幻庵の臥所を覗くと幻庵は褥で眠っていた。おさきが和磨に、
「父上は体調が悪いので、治療は休みにします」
と伝えた。
その夜。
幻庵の臥所を覗くと、幻庵は褥に居なかった。
翌、神無月(十月)三日。晴れの早朝。
小舟町の米問屋山形屋吉右衛門の遺体が中之橋西詰めの袂から引き上げられた。
知らせを受けた和磨は、中之橋西詰めへ行って検視を確認した。
遺体を検視した医者の竹原松月と日野徳三郎は与力の藤堂八郎に山形屋吉右衛門の後頭部の髪の生え際を示して目配せし、酔ったあげく心の臓が止まって堀に落ちたと告げた。藤堂八郎は山形屋の番頭の久市に、酔って心の臓が止まり堀に落ちたと伝えた。
検視の一部始終を見聞きした和磨は足早にその場を去った。
山形屋吉右衛門の後頭部にある傷痕も、六助と同じ、太い鍼の刺し痕だ。昨夜も一昨日の夜も父は臥所に居なかった。これは父の仕業だ。いったい父は何をしているのだろう・・・。中之橋西詰めから家へ帰る道すがら、和磨はそう思った。
山形屋吉右衛門の遺体が見つかったこの日も、幻庵は臥所にこもったまま出てこなかった。おさきが和磨に、
「父上は体調が悪いので、今日も治療は休みにします」
と伝えた。昨夜の山形屋吉右衛門の殺害で疲れているのか・・・。
朝餉の後、和磨は母のおさきに断って、加賀屋の次女で許嫁のお加代と、その母方の祖父の富吉に会いにいった。
呉服町の呉服問屋加賀屋の店先で番頭の平吉に、お加代に会いたいと伝え、奥の離れでお加代と祖父の富吉に会った。
「お加代ちゃんと富吉さんに相談があるんだ。
昨日の朝、六助さんの遺体が堀から上がった。
今朝は山形屋吉右衛門の遺体が堀から上がった。
先月も話したけれど・・・・」
和磨は先月長月(九月)一日。お加代と富吉に会うため加賀屋を訪れていた。
和磨は、六助と米問屋山形屋吉右衛門の遺体が見つかる前夜までの父幻庵の動きを、文月(七月)下旬にさかのぼって説明した。
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