十五話 悶着②
「お初にお目にかかります、先代エブローティノ子爵夫人」
ひとまず組み敷かれる形から解放されたニレナの前に出たアルチェは——————念のため、リフィーリアが腕を掴んだままではあったが——————リヴァルト貴族の正式な礼をしてその視線を引いた。アルチェ自身は貴族ではないため詐称にはなってしまうのだが、今はとにかくニレナの頭を混乱させていることから気を逸らせて、落ち着いてもらう必要がある。
「……どなた?」
見知らぬ第三者、しかも階級持ちらしい人間の出現で、彼女の頭にのぼっていた血が少し下がったらしい。アルチェは少しでも冷静さが伝染するように、
「わたくしはアルチェ・ヴィンスカーと申します。リヴァルト王国より遊学のために貴国に参りました。現領主様のご厚意で、今はこちらのお屋敷に滞在させていただいております。ご療養中とのことで、ご挨拶を控えさせていただいておりました」
「あら……そうだったのね。どうかしら、この地は。何かお役に立てそうなことが、少しでもあればいいのですけれど」
錯乱状態から一転、子爵夫人らしい物言いをし始めたニレナに、アルチェはにっこりと笑いかける。
「それはもう! 本日は水の司様から、この地を潤す素晴らしい浄水の設備についてご教授いただきまして……手段の少ない古い時代に、よくぞあのようなものを作り出したものだと感心しきりでございました。そしてわたくしが何より驚きましたのが、ここ十年ほどのこの地域の成長の凄まじさです。エブローテの町はもちろん、こちらに至るまでの道々で人々が先代様のおかげでこうして豊かに暮らせるのだと口にするのを耳にしまして……人の上に立つ身として、わたくしもかくありたいものだと感服いたしました」
ニレナは嬉しそうに微笑んだ。
「わかってくださる? あの人はいつも領民のことに心を砕いていたの」
先ほどまでの鬼気迫る形相はすっかり
「それでですね、人様のご家庭のことに、このような門外漢が口を出すのもいかがなものかとも思ったのですが……先ほど仰っていたことで、ひとつ気になることがございまして……というのも、リフィーリア様は家を出られた後に、帝国騎士団にて素晴らしい武勲をたてられまして、なんと特等女騎士として叙勲を受けていらっしゃるのです。ですから、領主の座に未練は欠片もございませんでした。放棄していた継承権が戻ったことは、彼女にとっても青天の
「……あの帝国騎士団の中で、特等騎士にまで上がったですって……?」
驚いたような顔をしてニレナがリフィーリアを見上げた。さっきから顔を突き合わせていたというのに、まるで初めて顔を見たかのように彼女を見つめている。
「まぁ、運が良かったんですよ。配属された先の隊長が有能な方だったので、色々と仕込んでもらえてなんとか生き残りました」
「仮にそうだったとしても、なかなかできることではないわ」
ニレナが素直に褒め、二人の間にある空気がやわらいだところで、アルチェはすかさず間に入った。
「ところでニレナ様、先ほどから気になっていたのですが、少しお顔の色が優れませんね。もしや体調がよろしくないのではありませんか?」
「ええまぁ……でもこのところ、体調が良い日なんてまずありませんしね」
そう彼女は苦笑する。
「これ以上無理をして、お身体に障るといけません。一度お部屋にお戻りになって、少しお休みください。グラムスさん、ニレナ様のお部屋はどちらに?」
アルチェはそう言って、すっかり落ち着きを取り戻した彼女をグラムスと共に速やかに部屋まで送り届けた。彼から指示を受けたのか、すぐにメイドが沈静効果のある香草茶を運んでくる。
一通りの世話をして、ニレナが横になるのを見届けてから、アルチェは部屋を出た。
「……」
遅れて出てきたグラムスと、しばし無言で廊下を歩く。彼は何度か迷うような素振りをした後、そっと切り出してきた。
「アルチェ様、先ほど奥様が仰られたことは……本当なのでしょうか。先代様が、リフィーリア様を追い出して爵位を継承したというのは」
「あの、さっきの貴族の礼は、ニレナ様の意識を引くためのフリですので、呼び方は今まで通りでお願いします。私は貴族ではありませんので」
———やっぱり知らなかったんだ……
そんなことを思いながら、アルチェは言葉を選びつつ淡々と告げる。
「……私も、その辺りの事情を詳しく知っているわけではありません……ただ少なくとも、この家は直系継承で……当時後見人であった先代様に、遠方の伯爵家との婚姻か、帝国教導会で生涯を祈りに捧げるかの二択を迫られて……リフィー様が騎士として生きていく道を選んだというのは、間違いないことのようです」
「……あの方が……そのようなことを……」
普段は穏やかで冷静なグラムスが衝撃を受けているその様子に、ディフィゾイという男のもつ信用の高さが透けて見えた。最初にリフィーリアから話を聞いた時にはどんな典型的悪徳領主かと思ったが、その足跡を知れば知るほど実像はそれとはかけ離れていく。
———どうして彼は
「……先代様は、リフィー様のことを悪く仰ったりはしていなかったんですね?」
「そのようなことはひと言だって……むしろ、もし自分に万が一何かあってリフィーリア様がお戻りになることがあれば、その時はあの方のことをくれぐれもよろしく頼むと言いつかっていたくらいです。本当にぎりぎりになるまで弱音は吐かないし、根を詰めやすいところがあるから、気をつけてやってほしいと……まさかお二人の間でそのようなことがあったなど、まったく思いもよらず……」
グラムスは幾度も首を振りながら、途方に暮れたようにそう呟いた。
「ではグラムスさんは初めから、ニレナ様やリュフィ様だけでなく……リフィー様も守り支えるものだと思って下さっていたんですね。……彼らの間に遺恨があったとしても、それは変わりませんか? あの人を守るために、手を貸してくださいますか?」
アルチェの問いに、彼はハッとしたような顔になる。物事をよく見ている執事だ。エブローテや領主一家を取り巻く不穏な空気に、気づいていないはずがない。
「当たり前です。リフィーリア様にしてみれば、わたくしは自分に不条理を課した叔父の手先に見えるかもしれませんが……それでもわたくしの意志に、変わりはありません。彼の方をお守りするためならば、なんだって致します」
彼のその真っ直ぐな視線と言葉に、嘘はなさそうだった。ナイフが飛んでくるなどとんだ一悶着ではあったが、共にリフィーリアを守ろうとする存在がいるとわかったのは、アルチェにとっては嬉しい収穫だ。
「では、グラムスさん。ふたつお願いがあります。ひとつは、エブローティノの方々のために、心苦しいかもしれませんがあることをお願いしたいんです。そしてもうひとつ、瓶をありったけ貸してください。数がなければ、瓶の形をしていなくても水を入れられればそれで構わないので」
アルチェは彼にそう頼むと、身を寄せ合ってその詳細を話し始めた。
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