タオルと、シャワーと、ホットミルク
黒い白クマ
タオルと、シャワーと、ホットミルク
今なら。今なら、外に飛び出すだけで誤魔化せる。最後の意地を振り絞って口角を上げ別れの挨拶を告げて、そのまま店を飛び出した。
――つまり、最初から私だけだったんだ。
バシャバシャと自分の足音が煩い。全身からどんどん熱は奪われているはずなのに、スニーカーから広がる冷たさがやたらと目立って不快だった。全身が熱い。足元だけが、じくじくと冷えていく。何かが内側で暴れているみたいに、頭痛がした。
何に意地になっているのかなんて、私が一番聞きたい。最初から分かっていたことだと、頭の冷静な部分が笑っている。どうせいつか言わせる台詞だと、知っていた。
それでも、きっと相談されると信じていた。
「結婚しようと思って。」
いつも通り、私と彼の仕事が終わったあとに夕食を共に取っていた。珍しくどちらの家でもなく、少し良い店なのが気にかかっていたけれど、その程度。
唐突にいつもと違う言葉を放り投げた彼は、至っていつも通りの表情をしていた。
「……は、」
窓を打つ音と風の音が酷くて、よく聞こえなかった。よく聞こえなかったことに、したかった。
「だからね。結婚、しようと思って。」
「誰、と。」
朝から天気が悪かった。外が薄暗いから、ちらりと見た窓はただ彼の凪いだ横顔を映すだけだった。
「早織さん。華ちゃんも会ったことがあるだろう。」
「あぁ、うん、冬にな。」
「彼女だよ。」
「……分家の方だったっけ。」
「そう。」
「まだ子供じゃなかったか?」
「21歳だから、子供じゃないさ。」
出会った時は子供だったろ、と言いかけて口を噤んだ。もう五年以上彼を知っていること、彼の家族を知っていることを、強く意識するだけだから。
「だから、」
「別れて欲しい?」
「……そう。」
いつかはそうなると知っていた。こんなに突然告げられるものとは、知らなかった。
「いつから?」
絡まった思考とは裏腹に、落ち着いた声で私の口が音を紡いだ。
この時代にそぐわぬ価値観を持った家に生まれ、その価値観に不満を持たぬ彼との交際がこうやって終わることは、最初から分かっていた。お互いに認識していたことで、そして、認識の仕方が違っていた。
「いつ、婚約を?」
「……先月。」
何故その時に教えてくれなかったのか。
聞きたかった言葉は喉に絡まって、とうとう口から出ることは無かった。頭の奥が痛むような不快感。目が熱い。
負けだと思った。ここで、この衝動に任せて吼えてしまえば、負けだと思った。
目を閉じた。窓を打つ音。今なら。
今なら、外に飛び出すだけで誤魔化せる。
「なぁ、詫び代くらいは出してくれるだろ。」
いつでも彼と私は対等だった。だから、伝票の黒いホルダーを掴んでそれを放ったのはこれが初めてだった。コースを食べ終わっていないのに、立ち上がったのも。
「華ちゃん、」
「じゃあな。」
最後の意地を振り絞って口角を上げる。
「式には呼べよ。」
別れの挨拶を告げて、そのまま店を飛び出した。ドアベルがけたたましく鳴るのと、喉が引き攣った嗚咽を上げるのがほとんど同時だった。
つまり、最初から私だけだったんだ。
――畜生!
どんどん天気は悪くなっていく。もう自分の嗚咽も聞こえなかった。空気を求めて口を開く度に、薬品みたいな苦味が邪魔をする。嫌な味がした。しょっぱくて、苦くて。
分かってた。最後は別れると、お互いに理解していた。それがこのザマだ。一ヶ月前から、彼奴は分かってて私に何も言わなかった!
お互いに理解していたと思っていたのも私だけだ。最後は別れると分かった上で、本気で向き合っていたのは私だけだった。彼奴にとって私は、最後の最後まで使い倒してひょいと横に退けるようなものに過ぎなかったのか。
畜生、畜生!
服が絡みついて、段々と足が重くなる。
静かだった。煩かった。喉からひっきりなしに零れる声は、全部地面に跳ねる音に紛れた。
つまり、最初から私だけだったんだ。真面目に向き合ってたのは私だけだった!同じ言葉が壊れたレコーダーのように頭を回る。私だけ、私だけ!
普段は黒々としている公園のベンチが街灯を反射して、てらてらと光っていた。ろくに働かない頭のまま、べしゃりとそれに座り込んだ。跳ねた光が、ぱしゃんと地面に落ちる。もう冷たさも感じまいと思っていたのに、触れた腰と背中から、じわりと不快感が広がってゆく。
足元で小さな円が広がっては壊れていく。
ポツポツと描かれる模様が移り変わる様は音の煩さの割に目で追えて、私は重なっては壊れていく模様をただ眺めた。色の変わった服がまとわりついて重い。
ベンチに触れたところが、足元が、頭の芯が、変に冷えて。目元ばかりが、変に熱い。
「華?」
不意に、自分が息を吸った音が耳に入った。
いつの間にか少し周りが静かになっている。さっきまで気にしなくて良かった自分の情けない声が脳に反響して、眉を寄せる。ノロノロと顔をあげれば、足元で出来ては壊れていた円の代わりに、くたびれた灰色のスニーカーが視界に入った。
「うわ、やっぱり華だ。」
「うわってなんだよ。」
聞き慣れた友人の声に返事をする。ポタポタと音を立てるのは私の髪から落ちる分だけで、瑞希の声も、それに返した私の返事も良く聞こえた。酷く凛とした声と、情けない声だ。
「ほっとこうかと思った。」
「いやほっとけよこういう時は。今話しかけて良い奴じゃないだろ、私。」
自分が今どれだけ惨めな様になっているかくらいは、冷たさと纏わり付く不快感が教えてくれていた。視界に入った、張り付いて束になった前髪を払う。
「や、寝覚め悪ぃっしょ。何、何があったの?」
「言わねぇ。」
「強情。」
腕を引っ張られて、立ち上がる。この天気だ、瑞希の手も充分冷えているのだろう。でもずっとここに何も持たずに座っていた私からすれば、随分と熱い手だった。
渡された柄を素直に握って、瑞希の方に傾ける。今更自分の肩がはみ出した所で、大した違いでもなかった。跳ねる音。煩くて静かで、隣の声はクリアだ。
「タオルとシャワー貸してやるから、つまみに何があったのか話してみろよ。瑞希様が聞いてやらぁ。」
「ホットミルクもつけろよ。そしたら話す。」
「おーせのままに。」
「……お節介な奴。」
「アンタにだけだよ。腐れ縁だな、まぁ。」
同じ言葉が壊れたレコーダーのように頭を回る。
私だけ。
小さく零れた笑い声は、酷く大きく耳に響いた。
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