038.蟲
──男はゆっくりと、自分の腕を掻いた。
「昔からよく聞きますよね。まあ映画とかドラマとかの知識ですけど。こう、違法薬物の過剰摂取なんかで。身体中を虫が走り回る幻覚を見る、って」
テーブルの下でカタカタと音が鳴る。音に合わせて男の肩も揺れている。口調とは裏腹に、落ち着きのない様子が顔にもありありと浮かんでいた。
「俺は、そんな、クスリとかやったことないんですよ。どちらかというと、健康オタクっていうか。食べ物……口に入れるものにはけっこう、気をつかってて。はい。病気も、全然。風邪くらいしか」
右手に二の腕を掴まれていた左腕がゆっくりと曲がりだす。いつしか男は、自身を抱くようにして両腕を掻き始めた。
「でもね、昔から、幽霊は視えて」
両腕を掻く指の力が強くなる。ざわざわと服を擦るような音が、ザッザッと鈍い音に変わる。
「けっこういるんですよ。幽霊。その辺に。何するでもなく、ボーッと突っ立ってるのがほとんどで。触れたり、話したり出来るわけじゃないんで。まあ、影とか残像とかみたいなもんです。慣れちゃうと、別にそんな、気になるほどのものでもないんですよね。意外と」
男の貧乏揺すりが激しくなる。口調はあくまでも冷静を演じているが、震える唇を押さえつけるように時折下唇を噛むその様は、男から正気が失われつつあるのを知らせていた。
「幽霊って、人間だけじゃないんですよね。動物とか、虫とかもいて。一寸の虫にも五分の魂、なんて言いますけど。ほんとそうみたいで」
腕を掻く範囲が広がっていく。首元に蚯蚓腫れが浮かんだ。それはきっと首から腕を通り、脇腹まで広がっていることだろう。
「だから、これは、幻覚じゃ、ないんです」
汗か涙か、ぐっと俯いた男の顔から雫が落ちる。
「幽霊なんですよォ」
声から仮初の冷静さが消える。
「虫の、幽霊。それが、俺の身体中に。ほんとにクスリとかやってなくて。違うんですよ。幻覚とかじゃなくて。病気でもないんです。健康オタクだから。だから、これは、虫の幽霊で。でも虫だから、なんか、全然除霊とか出来なくてェ!」
男は激しく、シャツに血が滲むほど強く、自分の身体を掻いていた──。
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