バトンパス
誠に奇妙な話だが、気がつくと電車に揺られていた。夢かもしれない。一体何時、何のために電車に乗ったのか皆目覚えもないから。周りには誰もいなかった。都会で電車の貸切状態なぞ、まず、ない。やはり夢だ、と瞬いてから少し笑った。初めて見た、明晰夢だ。いつか体験してみたいと思っていたのだから、これはいい。
にしても、本当に夢かどうか。覚えがないから、ここが本当に都会なのかも確かではない。何時かも分からない。真夜中かも。だってほら、窓の外が黒、黒、黒。
おや、と首をかしげた。
そもそも自分はどちらに住んでいたのだったか。都会に来たのか?都会に住んでいるのか?やれ、何も覚えてない。やはり夢か。奇妙な夢だ、記憶喪失の明晰夢なぞ。
電車が止まった。ガタガタと開いた扉から一人、人が乗り込んできた。暗闇から現れた、スラリと背の高い、化粧のきつい女性。年の頃は三十前後だろうか。
「あら、随分可愛らしい人がいたものね。」
予想より、低い声。美しい声だ。言われて、はじめて自分の容姿を意識した。窓に映る自分をちらりと見れば、なるほど、まだ年若ようにみえる。大人といえなくもないが、せいぜい二十と少しか。言われてみれば、そうだったような気もする。いや、人は皆この歳を通るのだから、だった、のは当然か。兎も角、今私は二十歳そこそこの若者らしい。
「その、こんにちは。」
「君、名前は?」
誰もいない車内なのに、女性は当たり前のように私の横に座る。
「覚えていません。」
正直に返す。女性は特に驚くことも無く、一つ頷いた。
「そうよね。ここに乗っているんだもの。」
「ここ?」
「んー、つまりね。記憶はこれに乗らないから。」
せっかく言い直してもらったものの、私には全く意味が分からない。女性の顔を覗き込む。彼女は困ったように、ふっと笑った。
「いいのよ、普通そうだから。私が変なの。」
ガラガラとドアの開く音がして、私は返事をしようとした口を閉じる。また誰かが入ってきた。今度は、隣の車両から。
「あー、また来た!困りますよ、菊池さん。」
制服を着込んだ青年は、おそらく車掌のようなものだろう。どこに掴まることも無く、揺れる車内をずんずん歩いて近づいてくる。
「ごめんねぇ。」
「まだ元気なのになんで乗ってくるんですか。」
「仕事よ仕事。」
どうやらこの菊池さんという女性と車掌は知り合いらしい。邪魔しては悪いだろうか。いやでも、聞きたいことは山ほどあるのだが。
「狙って乗り込んでくるのなんて菊池さんくらいですよ。」
「うん、もうね、疲れちゃって。私の役目も終わったし、バトンパスしたくてたまんないのよ。」
「そんなホイホイ乗られたら困ります。」
話が読めない。さすが明晰夢、といったところだろうか。自分の夢なら自分でコントロール出来ればいいものを。
「私次で降りるから。さっきの駅には新しい子を降ろしてちょうだい!」
「スパンが早すぎるんですよ!本体に負担がかかるでしょう!」
だんだんお互いの声が大きくなり、しまいにはギャンギャンと怒鳴り合いの喧嘩になってしまった。止めようと口を開きかけたところで、別の声が上がった。
「あの、車掌さん。僕、次で降りた方がいい?」
いつの間にか、車掌が来た車両とはまた反対側から少年が入ってきていたらしい。連結部分のドアの前で、困ったようにこちらを見ている。
「あぁ七番さん。いや、もう少し待って下さい。菊池さんを説得して無理なら……」
「私はさておき、このかわい子ちゃんのかわりはどうするの?」
菊池さんが私を指さす。残りの二人の目がこちらを見る。なんだか、気まずい。
「あれ、君はどこの駅で乗ってきたの?新しい子かな?」
車掌がようやく私を認識したらしい。
「さっきから座ってたわよ。私より先に乗ってたから、新しい子なんじゃない?」
「なら隣の車両に案内しないと。」
「あの、全く話が掴めないんですが。」
おずおずと声を上げると、七番と呼ばれた少年が口を開く。
「この子菊池さんの一周前に乗ってきたから。だから僕、この人のかわりに降りるほうがいいのかと思って。」
「え?現の駅で乗ってきた子だったの?」
「うん、だからかわりに誰か早く降ろさないと。」
完全においてけぼりだ。話が一切見えてこない。現の駅?私はそこからこの電車に乗ったのだろうか。まったく覚えていないのだが。
ガタン、と電車が止まった。脱兎のごとく立ち上がった菊池さんを、車掌が座席に押し戻す。
「なんにも覚えてないの?」
二人が攻防を繰り広げるのを横目に、少年が私の横に座った。まだ小学生くらいに見える少年は、目がくりくりとしていて実に愛らしい。
「なんにも。」
「名前も?現のことも?この電車のことも?」
「はい。」
素直に答えれば少年は小さく頷いて、未だに菊池さんと揉み合っている車掌に声をかけた。
「ねぇ車掌さん。この子は分離しているよ。次の子を決めていいと思う。」
ドアが閉まり、電車がまた発車する。菊池さんは諦めたように椅子に深く座った。車掌は肩で息をしながら私の方に視線を投げる。
「分かりました。じゃあ一応、本体と照らし合わせますね。行けそうなら七番さん次でお願いします。」
車掌が元の車両に戻っていった。なかなか夢が覚める気配はない。
「あーあ、次また消失の駅に着くまでかなりかかるのに。」
「菊池さん、また新しいお仕事?」
「まだ次があるわけじゃないわよォ、私の仕事が終わったの。」
「じゃあまだしばらくいいじゃない。」
「まーねぇ。」
少年と菊池さんは、私を挟んでなんでもない事のように会話を繋ぐ。何となく、この状況はあまり歓迎出来たことじゃないような気がしてきた。
「あの、私は一体何なのでしょうか。」
二人同時に私を見る。なんだかデジャヴを感じてたじろいだ。さっきも思ったけど、気まずい。
「私と同じ、『人格』でしょ。」
「人格?」
菊池さんは、苦笑いを浮かべながら私の頭を撫でた。案外、力の強い骨張った手だ。暖かい。
「あまり気にしなくていいよ。君は次に消失の駅に着いたら降りればいいだけだ。」
少年は呟いて窓の外に視線を投げる。つられるように見た窓は、相も変わらずに真っ暗だ。
どうやらこの電車は、消失の駅、誕生の駅、現の駅をぐるぐると回っているらしい。電光掲示板の上にはその三つの駅が円上に書かれているだけだし、電光掲示板が次は誕生の駅だとアナウンスしている。
「君が、現の駅で降りるんですか?その、私のかわりに。」
「そうなるかもね。まぁ、車掌さんが本体の確認を終えないと何とも。」
「本体、って?」
聞いた後に、体のことかなと思い巡らす。私達が「人格」なら、本体は肉体の方と考えるのが順当に思えた。
「『記憶』かな。『魂』、でもいい。」
「え、それは人格とは違うんですか?」
予想外の返答に瞠目して聞き返すと、今度の問いには菊池さんが答える。
「うん、人格はかえられるけれど本体はかえられない。」
「かえるって……つまり、その、私はもういらない人格ってことですか?」
菊池さんと少年は目を合わせた。そしてゆっくり頷く。
「まぁ、そうなるかな。」
「といってもバトンパスするだけよ。本体の方がこれじゃ上手くいかないって思ったら、人格を消失の駅に送るの。それで、新しい人格がかわりに現の駅で降りる。」
「菊池さんは上手くいかないとかじゃなくて勝手に来るけどね。」
ケラケラと笑う菊池さんと少年の顔を交互に見やって、私は恐る恐る疑問を口にする。正直、返答次第では逃げ出したい。
「消失の駅に降りたらどうなるんですか?」
「知らない。」
「知らないわよ。」
意外にも、二人は揃って首を傾げた。曰く、少年は誕生の駅からここに乗り込んだだけ。曰く、菊池さんは誕生の駅から電車に乗り込み、その後現の駅に降り、仕事を終えてまた現の駅から乗り込んだだけ。消失の駅に降りたことなどないという。
「知らないのに、降りたいんですか?」
「もう終わりでいいんだもの。」
ケロッと言い放つ菊池さんに、思わずため息が漏れた。名前からして不穏な駅に、そうも元気に降り立とうと思える気持ちが分からない。
ふいに電車が止まった。扉は開かない。
「あれ、駅に着いたんじゃないんですか?」
「あぁ、隣の車両しか開かないんだよ。新しい子はみんなそっちにいるように言われているからね。」
そう言って少年は、彼が出てきたドアの方を指さした。分かるような、分からないような。ふうん、と薄いリアクションだけ返して黙り込む。電車が動き出した。
「それにしても困ったな、私は別に消えたいわけじゃあないんだけど……」
「そうなの?本体に追い出されたのかもね。」
少年が腕を組みながら呟いた。普通は消失の駅に降りることに抵抗など抱かないという。皆そういうものかと納得して降りていく、と車掌が言っていたそうだ。
「どうも、確認終わりましたよ。」
車掌が再び顔を出した。ぴらぴらと手に持った紙を振りながら、真っ直ぐこちらに歩みよってくる。
「貴方、本体から無理矢理弾かれたみたいですけどね、如何せんまだガタが来たわけでもなんでもないので、一回戻って貰えます?」
「何、私のお仲間だったの?」
「菊池さん程タチ悪くないですから。」
頬を膨らませた菊池さんにさして可愛くないですよと言い捨て、車掌は私の方にそれでいいですか?と尋ねてくる。消えたくはなかったので、慌てて頷いた。少年がそれなら自分は戻ろうかと車掌に問いかける。
「いや、七番さんは菊池さんのところに行きましょうか。如何せんこうなるとテコでも動かないんですよ、菊池さん達は。」
「分かりました。」
「ありがとぉ!」
腕にまとわりついた菊池さんを片手で払いながら、車掌はうんざりとした顔で少年を見た。
「七番さんも菊池さんになればすぐ戻ってくるんですかね?勘弁して下さいよ。」
肯定も否定もせずに少年が肩を竦める。少年と私にもう一度次の駅で降りるように言った後、戻ろうとした車掌に思わず声を上げた。
「あの、戻れるんですか?本体に弾かれたのに。」
「ええまぁ、衝動的なものでしょうから。駄目ならまたここに戻りますよ。」
それだけ答えて、車掌はドアの向こうに消える。いまいち腑に落ちず、自然と眉に皺が寄った。
「大丈夫、大丈夫。所詮僕らはただの人格なんだから。さ、降りよう。」
いつの間にか電車は減速していた。少年に手を引かれ、ドアの前に立つ。後ろで菊池さんが、さようなら、と言うのが聞こえる。開いたドアから出て振り返り、少年と二人、菊池さんに手を振った。三両しかない電車が、遠ざかっていく。
***
「パンとご飯ならどっちがいいカイ?」
不意に聞きなれた声が耳元でして、がばりと起き上がった。……起き上がった?
「うわ、びっくりしたナァ。ゆっくり起きてヨ。」
「谷澤?」
「そうだヨ。違ったらびっくりだネ。」
谷澤が私の顔を覗き込んで、もう一度パンかご飯か尋ねてくる。やっと覚醒してきた頭が、朝飯の話だと認識した。
「パン……昨日の残りがまだあるぞ。」
「ウン、分かった。パンにするネ。」
ベッドから身を起こして、一つ伸びをした。谷澤にはリビングのソファベッドを貸しているから、窓のない寝室で寝ている私よりも谷澤は早く起きる。こうやって起こしにくるのは珍しい事じゃなかった。
「なんだか、死に損なったような気分だな。」
谷澤に言ったつもりはなかったのだが聞こえたらしく、寝室から出ようとしていた彼がびっくりしたように振り返った。
「ゲ、何か変な夢でも見たのカイ?縁起でもないこと言わないでヨ。」
「あぁ、うん。ごめん。」
夢の内容はもう覚えてなかった。ただ漠然と上手くいかなかったという思いが燻っている。
「蓬がいなくなってから変だヨ。やっぱり探すカイ?」
「いや、蓬はもうここには用がないだろうから。それはいいんだけど。」
ベッドからおりて、クローゼットを開ける。服を物色する私を横目に、谷澤は私のベッドに腰掛けた。
「じゃあどうしたのサ。」
「さぁ。」
適当な返事をすれば、谷澤は何も言わずにベッドから立ち上がる。寝室のドアを開けてから、あぁそうだ、とベランダの方を指さした。
「洗濯物外に出しといたカラ。乾いたら取り込むの、忘れないようにしないとネ。」
「あぁありがと。今日天気いいって言っていたからね……」
昨日の天気予報を思い出しながら、着替えを持って谷澤を追いリビングに行く。ちらりとみた窓の外に違和感を覚えて、窓を開けた。
「谷澤、お天気雨だよ。吹き込むから、中に干した方がいい。」
「えっ晴れじゃなかったのカイ?」
すっ飛んできた谷澤が私の横に並んで外を見て、だいぶ経ってからほんとだァと間の抜けた声を出した。着替え終えていた彼が外に出て、私は中で洗濯物を受け取る。
「晴れるって言ってたのにナァ。ごめんネ。いつも気が付かないんだヨ。」
「いいよ、別に谷澤はそのままで。」
そういう所が君らしい。その言葉は何となく気恥ずかしく、飲み下して黙って洗濯物を受け取る。
「じゃあ君もそのままでいてネ。」
何気なく投げられた言葉に、何気なく頷く。脳に言葉の意味が届いた瞬間、思わず彼の顔を見た。
「ア、今何時?」
当の本人は最後の洗濯物を抱えて、するりと窓から戻ってくる。時間を伝えながら窓を閉め、洗濯物を風呂場の方へ持っていく。時間を聞いた谷澤は、慌てたように洗濯物を風呂場の物干しに引っ掛けてリビングに戻っていった。
「危ない、危ない。始まっちゃうヨ。」
「何か見たかったのか?」
「菊池君がネ、今日ゲストで出ているんだってサ。昨日絶対見ろってせっつかれちゃってネ……あ、いたヨ、ホラ。」
風呂場にもテレビの音が聞こえた。私達の級友の菊池は、すっかり俳優が板につき遠い世界の奴となった後も時々連絡をよこしてくる。洗濯物を等間隔になるようにかけた後、私もリビングのテレビを覗きに行く。懐かしい顔だ。もうしばらく彼には直接会っていないというのに、やけに既視感を覚えた。
「じゃ、朝ご飯にしようネ。目玉焼きが食べたいナ。」
テレビをつけっぱなしにして台所に移動する彼の後を追う。後ろで懐かしい声が流れ続けていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます