ダビングライフ

燈 歩

1-1.

「おー、岩田お疲れ」


 畳二畳分ほどの狭く無機質なスペースに、同期の有馬が居た。


「有馬じゃないか。課長補佐のお前でさえも、ここでは肩身が狭いな」


 俺はアイコスを取り出しながら言った。


「そろそろ禁煙するつもりだから、あと少しの辛抱さ」


「そりゃご大層なことで」


 すりガラスシートの向こうでは、自動販売機の側で立ち話をしているような影が見えていた。


 俺たち喫煙者は隔離されたこの小部屋に押し込められている。社ビルにかろうじて残っているだけでも感謝すべきなのかもしれないが、電子化の次は禁煙の波である。人が減って快適に利用できるのは有り難いが、肩身が狭いことには変わりない。


 ここにみっしりと人が詰まって、あれこれコミュニケーションを取っていた頃が懐かしくさえある。ただ、加齢臭や皮脂の臭いが混ざった小さな空間は簡易版の地獄だったが。


「ところで、最近はちゃんと遊んでる? 夜の方はどうよ」


「俺、結婚したんだけど」


「そうは言ったって性欲は溜まるし、一人の女じゃ飽きちまうだろ」


「お前は彼女作らないのか?」


「そんなの面倒臭えよ。毎晩違う女とヤれた方が楽しいっしょ?」


「あ、そうだ、今夜久しぶりの同期飲みだって聞いてるよな? 小沢の昇進祝い」


 俺の話を無視して有馬は言った。


「もちろん。あの小沢も、遂に役職付きかぁ」


「人一倍努力してたからな」


「あーあ、俺は取り残されちまったよ」


 へらっと笑って意味もなく伸びをする。シャツの下でたるんだ腹がずり動き、ベルトの上に乗る感覚があった。


「岩田、いつまでそんなとこにいるんだよ」


「何が?」


「お前ほどの奴が」


「いいんだよ、俺は」


 有馬の言葉を遮って俺は言った。


「ヒラ社員の方が、なーんの責任も負わずにラクじゃねえか。そういうお堅いことは、有馬とか佐野とか、できるやつがやったらいいんだよ」


 そう言いながら俺はニヤついてみせた。


 こんな狭っ苦しい喫煙所で、真っ当な動機で説教されるなんてまっぴらごめんだった。入社したての頃は俺の方が仕事ができた。そんな過去が俺のことを惨めにしようとしている。


「課長補佐サマはそんなことより、心配することいっぱいあんだろ? ほら、早く行ってやれよ」


 扉の向こうでうろうろしている影を指差して言った。


「……また今夜な」


 肩をぽんと叩かれ、有馬は喫煙所を出て行った。


 俺は吸えなくなった煙草を灰皿に投げ捨て、次の煙草を取り出した。




―――――




「え~! 炊飯器ないの!?」


 煙草の煙を吐き出しながら大袈裟にリアクションを取る俺の前で、その子はクスクスと笑っている。


「自炊は? しないの?」


「電子レンジでチンです。パスタもラーメンもお米だって、レンジでできる時代ですよ~?」


「や、そうかもしれんけどさぁ」


 俺は吸殻を放って、次の煙草を弄びながら言った。


「やっぱちゃんとできた方がいいっしょ? できないよりは、さぁ」


 すーはーと呼吸をする。口の中で、その子の匂いが煙草と混じっていた。


「レトルトも冷凍食品もちゃんと美味い時代だけどさ、やっぱ手作りには敵わないっていうか。ほら、心がこもってるっていうの? 男ってそういうのに弱いわけよ」


「そうかもしれないですけど~。あ、シャワー浴びちゃってもいいですか?」


「ん? うん、俺煙草吸ってるし」


 するりと布団から出て、その子は浴室へ入って行った。


 いくらか気怠い身体を起こし、ローテーブルに置いたスマホを取りに数歩。時間を確認すると二十三時二十三分だった。


 安っぽい合皮のソファに腰を下ろしながら、ぼんやりとしたオレンジ色の照明に照らされた室内を見渡す。といっても、さっきまで横たわっていたベッドと今座っているグレーのソファくらいしか見るものなんてない。ベッドのシーツは皺が寄り、布団や枕はあらぬ方向へとずり落ち、衣服と共に散乱していた。


『まさか岩田より先に小沢が昇進するなんてな』


 数時間前の飲み会で言われた言葉が蘇ってくる。


『ヒラでいいとか言ってらんないだろ。お前ほどの奴が勿体ないよ』


『お前がその気なら……。なあ?』


 俺より劣っていたはずの小沢の昇進祝いの席で、俺の話に向けられるのは屈辱だった。俺がどれだけ助けてやった? どれだけ教えてやった? 情けないハの字眉の小沢が浮かんでくる。色白で線が細くて、いかにもいじめられっ子といった風体の、あの小沢が。


『子供欲しいって嫁さんが言うんだよ。そんな体力ないっての』


『うちは家どうするって話で持ち切り。誰がそんなローン払うんだって』


『俺んちは子供の習い事であっちこっち嫁さんが忙しそうにしてる。休みなら迎え行ってとか大変だぜ』


 どいつもこいつも普通の幸せを手に入れたくせに、愚痴という形で自慢し合う。二言目には『お前もがんばれよ』。うんざりする。


 惰性で吸っていた煙草を深く吸い直した。


 すー、はー。


 渾身の溜息のつもりが、その薄ぼんやりとした煙は目で追う間もなくすうっと消えた。


「シャワーいただきました~」


 しっとりとした肌を晒しながら、彼女は言った。


「えー、俺も入ろうかなって思ってたのに」


「だって来ないんですもん~。あ、それか延長します~?」


 妙に語尾を伸ばす話し方。多分本人は、それが可愛いと思っているんだろう。


「いや、いいや。……大変だよね、こういう仕事も」


「そうでもないですよ~。いいお客さんも多いですし」


 そう言いながら彼女は下着を身に着け、ペラペラの服をするすると羽織っていく。


「こんな仕事いつまで続けんの?とか、よく聞かれるっしょ? そういうのがめんどうだよな。お前に何がわかるんだって」


 帰ってしまうのかと思うと、人恋しい気持ちが顔を出してくる。意味ねえのにな、と頭ではわかっている。それなのに、どうでも良い話で場を繋ぎたくなってしまう。


「そうですね~」


「誰だって仕事するって大変だもんな。だけど、ほんと、君たちは身体気をつけないとね。それが商売道具だしさ、肌のハリとか、シミとか」


「ですね~」


「俺も歳と共にちょっと腹が出てきたし、おじさんって認めたくないけど認めざるを得ないよな。そういうの、折り合いつけてくっていうの? 女の子は大変だよな。もっと大事にしないとダメだよ」


「ありがとうございます~。じゃ、お時間なんでこれで」


「あぁ、うん。お疲れ」


「また呼んでくださいね~」


 同時にチャイムが鳴った。スタッフが迎えに来たんだろう。こっちはきっちり金払ってるんだから、もうちょっとゆっくりしてくれたっていいのに。


「失礼しま~す」


 やけに大きな音を立てて、扉は閉まった。


 女の子が居なくなった部屋を見るともなしに見渡す。さっきと変わらない部屋のはずなのに、ほんの少しだけよそよそしい。


 いつの間にか吸い終わっていた煙草を灰皿に投げ、新しい煙草を吸い始めた。この虚無感がいつもやるせない。やるせないのにまた同じことを繰り返している。無意味で、無駄なことかもしれない。


 ぷはーと息を吐いてみる。アイコスじゃもうもうと立ち込めるような煙は吐き出せなかった。


 楽しみくらい、あってもいいっしょ。


 俺は俺に言い聞かせて、また息を吸って、吐いた。


 カタ、と音を立てて部屋の隅の空気清浄機が稼働し始めた。

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