十二話 記憶にない誰か
ソフィアはルークがセオドアさまを治癒する前に、スミスさんに全てを話した。
これから魔法使いがセオドアさまの目を完全に治して、寝たきりから回復させる。
ただし、回復したセオドアさまにはソフィアの記憶がない。
おそらくお妃さまを選び直すことになるだろう。
ソフィアは王子妃の部屋を出て実家に戻ることにする。
どうか後のすべてを、よろしくお願いしますと。
スミスさんはソフィアを引き留めた。
せめて王子が回復するところを見てからでもいいのでは? と。
しかしソフィアはそれを断った。
どうしても未練が残る。
そんな顔を、何も知らないセオドアさまに見られたくなかった。
私のちっぽけなプライドですと、スミスさんには言い置いて、お城を出た。
シンデレラに説明するのは諦めた。
ただ、ちょっと実家が恋しくなったから帰るわね、と言っただけだ。
シンデレラは「家事だらけの実家の何がいいの?」と変な顔をしていた。
ソフィアが実家に帰りつくと、そこにルークがいた。
「おかえりなさい、ソフィアさん。王子さまの目は無事に完治したよ。もう光を見ても目を傷めない。遮光眼鏡だって必要ない。そして……ソフィアさんの記憶もない」
「ありがとう、私の願いを叶えてくれて」
「いいんだ、ボクの失敗で最初に選ぶ人を間違えたし、その後の魔力回復もうまくいかなかった。ありがとうを言うのはボクのほうだ」
ルークはちょっと俯いた。
もしかしたら泣いているのかもしれない。
ルークが泣き虫なことは、短い付き合いだが分かっていた。
「ねえ、ルーク。私もシンデレラに続いてお妃さまにならなかったわ。またお婆ちゃんに怒られたりしない?」
ソフィアがちょっとおどけて言うと、ルークも合わせてきた。
「大丈夫! 今度こそボクは間違えていない! 自信があるんだ!」
ソフィアは実家での一日目を、ルークのおかげで寂しく過ごさずに済んだ。
明日からは一人だ。
だがそれが自分の選んだことの結果だ。
◇◆◇
セオドアは目が覚めて、ベッドの周りで喜んでいる人の中に、誰かを探した。
ずっと寝たきりだった僕を支えてくれていた誰かを。
温かくて優しいその人の手が、ずっと僕の手を握ってくれていた。
うとうとする意識の中で、「大丈夫」と囁いてくれる声が好きだった。
あれは誰だったのか。
妃のいない僕に、妃を選ぶ舞踏会を開催してはどうかと爺から提案がある。
父である国王陛下が政務から退いて久しい。
そろそろ僕も身を固める時期なのかもしれない。
それに、もしかしたら会えるかもしれない。
顔も分からないけれど。
僕の心を埋める誰かに。
舞踏会ではたくさんの令嬢と挨拶をし、ダンスを踊った。
どの令嬢もきらびやかに着飾っていたが、目の病気が治った今は、はっきりと見ることが出来る。
ああ、この令嬢はこんな顔だったのだな、金髪とはこんなに光を反射するのか、思うことはさまざまだ。
だが、想う人には出会えない。
ここにはいない。
それだけは分かるのだ。
引き出しを開けると、使い慣れた遮光眼鏡が出てくる。
これをかけて、誰かと話した。
その人は珍しそうに眼鏡を見ていた。
僕がニコリと笑いかけたら、恥ずかしそうにして。
ああ、やっぱり可愛いなと思ったんだ。
可愛い人、今はどこに?
僕の部屋の隣には、将来の王子妃が過ごす部屋がある。
以前は水色の壁紙だったが、今は落ち着いたベージュ色に変えてある。
若草色の長椅子やカーテンが配置がしてあって、誰かを彷彿とさせる。
優しい色合いは、優しい人に似あう。
この長椅子に座って、誰かとワインを飲んだ気がするのに。
妃を選ぶ舞踏会も3回目を迎える。
もう国中の令嬢と顔合わせをしたのではないかと思う。
だが、僕の想う人には出会えない。
もしかして、僕に会うのを避けているのかもしれない。
そんな不安が胸をよぎった。
爺が寂しそうに、青みのあるティーカップにお茶を入れる。
そのカップのときだけそんな顔をする。
どうした? と聞いても困ったような顔をする。
悲しい思い出があるのなら、そのカップは処分してもよいと言ったが。
「大切な思い出なのです」と答えるばかりだ。
目の調子はすこぶる良い。
日中の視察にも困らなくなったし、夜の舞踏会でも頭痛がしない。
だが心が晴れない。
どこか重たく沈んで、いつも誰かが隣にいないか探してしまう。
僕はおかしくなったのかもしれない。
目と引き換えに、きっと何かを失くしたんだ。
毎日毎日、誰かを想う。
寂しくて。
会いたくて。
ある時、僕の胸から何かが飛び出した。
ふわりと浮いて、白い蝶になったそれは、窓から外へ風に乗って行った。
ある時は、白いコマドリになり。
ある時は、白いリスになり。
ある時は、白い鳩になり。
ある時は、白い猫になり。
ある時は、白いキツネになり。
ある時は、白い犬になり。
今日はついに白い馬になった。
僕は白い馬に乗った。
もしかしたら想い人のところへ、連れて行ってくれるのではないかと、淡い期待を抱いて。
◇◆◇
ソフィアはシーツを洗って、中庭に干す。
今日は天気が良さそうだ。
カーテンも洗ってしまおうか。
そんなソフィアにじゃれつく白い犬がいる。
どこから入ってくるのか、このところ白い動物に縁がある。
決して悪さはしない。
ソフィアに撫でられ満足すると、ふいといなくなるのだ。
実家に一人、寂しかったソフィアの癒しだ。
明日も来てくれるといいな。
◇◆◇
白い馬は目的地を知っているかのように走る。
見えてきた屋敷は、貴族の家にしては小さく、裕福とは思えなかった。
だが、その家を見た瞬間から、僕の心臓がドキドキし始めた。
ここだ、ここだ!
間違いない!
僕は少しでも早くと、白い馬のたてがみを握りしめた。
ああ、庭に見えるあの姿は――。
◇◆◇
今日は庭につくった畑で野菜を収穫している。
ソフィアみたいな素人が育てても、じゃがいもは大きくなってくれるから助かる。
土まみれになった手袋が顔につかないように、腕で額の汗をぬぐう。
髪に少し土がついてしまったようだ。
だが、そんなことは気にしない。
だってここにいるのはソフィアだけだから。
蹄の音がする。
誰かが家の前を横切っていくのか。
ふと顔を上げると、白い馬が門の前にいた。
それに跨っているのは――。
「セオドアさま……」
「やっと見つけた。僕の想い人」
馬から降りて、門扉を開けて、ソフィアに向かって歩いてくる。
手袋も作業着も土だらけ、さきほど髪にも土がついた。
きっと、いまだかつてこんなにも自然に馴染んだ姿はなかっただろう。
枯れたススキ色の髪、ついた土と同じ焦げ茶色の瞳、農作業をしていたせいで、少しは頬に赤みが差しているかもしれない。
とても愛する人と出会う姿ではないが、これがソフィアなのだ。
セオドアさまがソフィアの前に立つ。
「間違いない、君が僕の心を埋める人だ。どうしてずっと隠れていたの? 僕に会いたくなかった?」
妃を選ぶ舞踏会に不参加だったことを言っているのだ。
招待状はしっかりスミスさんから送られてきた。
だけどソフィアは自ら妃を辞退して、お城を去ったのだ。
どんな顔をして登城できるというのか。
ソフィアがぎゅっと奥歯を噛みしめると、そっとセオドアさまの手が頬に添えられる。
「噛まないで。そんなつもりで言ったんじゃないんだ。僕ばかりが会いたくて、君を探して、つらいのだと思っていた。でも、そうじゃないんだね。君も、つらかったんだ」
ぼろっと大きな涙がこぼれてしまった。
言い当てられた通りだったからだ。
どんなに誤魔化そうとしても、つらかった。
愛し愛された記憶は忘れようがなかった。
しかし自分が選んだ道だ。
泣いてはいけない。
ずっとそう思っていた。
もしかしたら、ソフィアではない人がお妃さまになるかもしれない。
次の舞踏会でどこかの令嬢が選ばれるかもしれない。
すでに誰かがセオドアさまの隣に立っているのかもしれない。
覚悟をしていたつもりだったが、そんなものは塵のように消し飛んだ。
毎夜、夢を見た。
幸せだったころの夢。
そして起きて絶望するのだ。
それが朝の日課だった。
「愛しているよ。名前も知らない君だけど、それだけは分かるんだ」
セオドアさまがいつものように、腕の中にソフィアを囲う。
ぎゅうぎゅうに抱きしめて、髪に口づけを落とす。
「君は僕の名前を知っていたね。僕に君の名前を教えてくれる?」
「わた、私……っ」
嗚咽が邪魔をして息も吸えない。
セオドアさまが優しく背を撫でる。
その手つきに励まされて、ソフィアは――。
「ソ、ソフィアです!」
叫ぶように告げた。
瞬間、パーンと弾ける音がして、二人の頭上から緑色のラメが降り注ぐ。
なにコレ、くす玉?
ソフィアがおそるおそる上空を見上げると、セオドアさまと視線が合った。
「そうだ……ソフィア。思い出したよ、すべて……」
ソフィアはセオドアさまの深淵なる黒い瞳に囚われ、もう逃げられない。
「ソフィア、僕から離れていかないで。僕を狂わせないで。約束してくれるよね?」
それはいいえと言うことのできない、セオドアさまの言葉の檻。
ソフィアは進んでそこに入り、自ら鍵をかけたのだった。
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