22.重心
昇降口から外に出た僕たちは、寮がある東とは真逆の、夕方の色がより濃い西の方角に足を向けた。
高さ幅ともに1メートルにも満たない小さな園芸倉庫には、銀色のじょうろと青いホースリールが仕舞われている。
町田さんからこの仕事を引き継いだ次の日にそのことを知った僕は、彼女と同じようにホースではなく、ブリキのじょうろを選んだ。
花壇はそれほど広くはないが、3リットルしか入らないじょうろはすぐ
そのたびに30メートルも離れた場所にある水道まで、水を汲みに行かなければならなかった。
「ねえ、ユウ。私も園芸委員に入れてもらってもいい?」
「うん、いいよ。園芸委員じゃなくて花壇委員だけどね」
たっぷりと水の入ったじょうろを彼女に手渡す。
「わっ、重い」
「倉庫にホースもあるよ」
「そうなの? うーん。でも、やっぱりこっちのほうがいい」
抱えるようにじょうろを持ち上げた彼女は、恐る恐るといった様子で花壇の縁の上に立つ。
「はい、たんとお上がりなさいね」
そして、まるで
「ねえ、ユウ。このお花って、なんてお花?」
足元に向けられていた彼女の視線の先を辿る。
そこには、アサガオによく似た小さな花が咲いていた。
「ペチュニアだよ」
「へえ、かわいいね。花言葉ってあるのかな?」
「……さあ」
花壇の花たちに水をやり終えた頃。
校舎の壁を明るく照らしていた太陽は、西の山並みの向こう側に、その赤く丸い体を隠してしまっていた。
寮へと続く道のりを歩いていると、彼女がポツリと口を開く。
「宗方先生って」
その教師の名前を口にしたのは、生徒指導室を退出してから初めてのことだった。
「今と昔とでは、全然ちがったんだね」
今から二時間前――
「私が彼女を殺した」
そのあまりに唐突な告白に、僕とヒナは顔を見合わせることすらできずにいた。
曇りガラスの窓を背にした先生は、机の上に置かれたビデオテープに目を落とすと、まるで独りごちるように喋り始めた。
「私はこの学園に赴任するより以前、別の学校で教鞭を執っていた。そこは至って普通の公立高校で、彼女は私のクラスの生徒の一人だった」
私が担任を務めた一年二組は、男女の比率が等しい四十名のクラスだった。
大学を卒業し、母校の高校に赴任してから三年目で、初めて受け持ったクラスでもあった。
その頃の私は、生徒の信頼を得るための手段として、気さくで気の置けない教師を演じていた。
いや。
今にして思えば、私が得ようとしていたのは信頼などではなく、生徒からの人気だった。
文化祭の準備では、生徒に混じって教室の飾り付けをし、副顧問だった男子テニス部では、帰りのバスを逃した部員を車で送ったりもした。
類いまれな頭脳を持った秀才もいなければ、目も当てられぬ落ちこぼれもいない。
部活で表彰を受けるような優等生もいなければ、手に負えない問題児もいない。
当時の私にとって、それは理想に近いクラスだった。
夏休みが終わり、そして二学期が始まった頃だった。
男女の比率が等しかった私のクラスの重心が、ほんの少しだけ男子側に傾いた。
一人の女子生徒が学校を休むようになったからだ。
もっとも、文部科学省が定義するところの不登校には至っておらず、当初は本人が申告していた通りに、体調不良がその原因だとばかり思っていた。
黒板の前に立ち窓際の空席が目に入ると、そのたびに溜め息が漏れ出た。
九月も半ばを過ぎた頃、二週間分の授業の要点をまとめて彼女の家を訪ねた。
玄関で出迎えてくれた彼女は、何故か学校の制服を着用していた。
もし保健室登校をしていたのなら、私の耳に入ってこないはずなどない。
その時になり私は初めて、彼女が体調以外に問題を抱えていることを知った。
しかし、私は彼女の服装には一切触れずに、『もうすぐ中間テストだね』だとか、『クラスのみんなも心配してるよ』だとか、早口で一方的に語り掛け続けた。
彼女はただ黙って、私のどうしようもなく下らない話を聞いていた。
その顔はどこか遠い場所を見つめているようで、捉えどころがなかった。
私が彼女の家に留まったのは、ほんの十分ほどでしかなかった。
見送りに家の前まで出てきてくれた彼女に、『大丈夫だから』と、無責任も
彼女はなぜ制服を着ていたのか。
その問いの答えは喉元まで出かかっていた。
だが、どうしてもそれを口から吐き出すことができなかった。
彼女が抱え込んでいる問題は、私の想像を遥かに超えるものだという、静かで恐ろしい予感があった。
長かった残暑もようやく鳴りを潜め、すぐ目の前に秋の背中が見えてきた、十月のはじめ。
教鞭を振るっていた私のところに学年主任がやってきて、そっと耳打ちをした。
その瞬間、目の前の景色から光と音が失われた。
通夜は自宅で執り行われていた。
受付を済ませて家の敷居を
他の弔問客の後ろに並び、やがて祭壇の正面までやってくる。
焼香台に伸ばした右手が震えていた。
棺の小窓から見えた彼女の横顔は、眠っているかのように穏やかだった。
前髪にはヘアクリップが付けられていた。
水色をしたそれは彼女のトレードマークだった。
『ねえ、先生。これって校則違反になるのかな?』
いつだったか彼女にそう聞かれ、『大丈夫だよ』と答えたことがあった。
彼女はコロコロと笑いながら、『よかった!』と言い、ヘアクリップの付いた前髪をゆらゆらと揺らした。
私はこの期に及んで彼女の笑顔を思い出していた。
それは許されないことだった。
それも許されないことだった。
彼女のご両親は私のことを責めなかった。
その代わりに一通の封筒を手渡された。
中にはパステルカラーの便箋が入っていた。
その上半分に書かれた丸い文字は、間違いなく彼女のものだった。
私は次の瞬間には、地面に両掌と額を擦り付けていた。
残暑が去ったばかりの十一月の夜風は肌寒く感じられた。
鋼鉄製の橋の欄干に至っては、氷でできているのではないかと思えるほどに冷たかった。
欄干に手を掛け、平均台のようなその上に直立する。
あとはただ、ほんの少しだけ重心を前に傾けるだけだった。
疲れ切った体が木の葉のように宙を舞い、やがて硬い地面に叩きつけられる。
河川敷のコンクリートは、氷でできているのではないかと思えるほどに冷たかった。
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