6.家路
「……朝比奈さん?」
ピアノの椅子に腰掛けていたのは、クラスメイトの朝比奈ヒナだった。
「あれ、ユウ」
すっかり忘れていたが、僕は彼女にそう呼ばれていたのだった。
その理由は、『君ってぜんぜん圭佑っぽくない』とのことだが、僕のどこが『圭佑っぽく』なくて、どこが『ユウっぽい』のかは知らされていない。
もっとも、杉浦圭佑というこの名前は、当の僕にとっても愛着のない、言ってしまえば記号や番号のようなものでしかない。
なので、彼女が独自の呼称で僕を呼ぶことに対して、さしたる不都合はなかった。
「私になにか用事?」
「そうじゃないけど、職員室に行った帰りに廊下を歩いていたら、ピアノの音が聞こえたから」
「……あ。もしかしてドアあいてた?」
「うん。ほんの少しだけど」と言いつつ、親指と人差し指を目一杯広げてみせる。
「あっちゃー。前もおんなじことして、それで宗方先生に怒られたの」
そう言って小さく舌を出した彼女は、まったく悪びれたふうには見えなかった。
「それで、ユウはなんで職員室に行ってたの?」
家に電話を掛けに――と言おうとしてやめた。
そんなことを言えば、『おうちの人はどうだった?』とか、その類の話題になることはわかりきっている。
「課題でわからないところがあって。それで安上先生のところに」
なので、もっともらしい嘘をついて誤魔化すことにした。
「国語? だったら私、ちょっとだけ得意だから教えてあげよっか?」
「国語っていっても古文だけど」
「あ、じゃあ絶対にムリ」
彼女は顔の前で腕をクロスして大きなバッテンを作った。
「あの、朝比奈さん」
「ヒナでいいよ。っていうか、そう呼んでほしい」
切れ長で大きな目が、僕の顔に真っ直ぐ向けられる。
肉食獣のようなその視線から逃れるために、壁のシューベルトを見つめたまま質問する。
「……さっき弾いてたのって、なんて曲?」
「ドヴォルザークのこと? 家路っていう有名な曲なんだけど、ユウは聞いたことない? 本当はピアノ曲じゃないんだけどね」
残念なことにその人の名前もその曲名も、僕はまったく知らなかった。
ただその、知らない人が作った知らない曲を、なぜだかとても懐かしく感じた。
「この曲、私の友達が好きでよく弾いていたの。聴かせてもらってるうちに、自分でも弾けたらいいなって。それでたまに練習してるんだ」
「朝比奈さんは、もともとピアノが弾けたんだ?」
「わかんない。っていうか、覚えてないの。でも、楽譜は読むことができたから。だから少なくとも、ちょっとくらいはやってたんだと思う」
うっかり忘れていたが、そういえば彼女も僕と同じ理由でこの学園にいるはずだった。
「……あの。もしよかったらだけど、さっきの曲、もう一回だけ弾いてもらえないかな」
「うん、いいよ。でも条件付き。私のこと、ヒナって呼んで。そしたら弾いてあげる」
それは少しだけ照れくさい要求だったが、チップだと思えば安いものだ。
「ヒナ」
「なんか心がこもってないけど……まあ、いっか」
ヒナの白く細い指が鍵盤の上を踊るように滑る。
いや、滑るように踊ると言ったほうがいいのだろうか?
いずれにせよ、その
短いその曲を弾き終えた彼女は、鍵盤の上にフェルトを掛けてから蓋を下ろした。
そして、ほんの一瞬だけ壁の時計に目をやってから、「ちょっとだけ寄り道してから帰ろ?」と言い、僕の手首を掴んで歩き出す。
彼女が以前、どんな場所でどんな生活を送っていたのかを知るすべはないが、そこでもきっとこんなふうに、自らの意思に忠実に生きていたのだろう。
音楽室を出て階段を上っていくと、やがて目の前に両開きの大きな扉が現れた。
それはA棟の一階にある『道の部屋』の扉とそっくりだったが、こちらには銀色の四角い取手が付いていた。
「開けてみて」
言われるがままに取手に手を掛け力いっぱい引くと、やや赤みを帯びた光の亀裂が横に広がる。
「この学園って、屋上があったんだ」
コンクリート製のタイルが貼られた屋上には、大きな貯水タンクがひとつと、それに比べればだいぶ小さなエアコンの室外機が何台も置かれている。
「ユウ、こっち」
再び手首を握られ、緑色のフェンスの前まで連れて行かれる。
「あっちが西の空。ほら、もうすぐ夕日が沈むよ」
逆光によって黒く染められた山並みのそのすぐ上に、真っ赤な太陽がゆらゆらと揺れながら沈んでいくのが見えた。
「ヒナは夕日が好きなの?」
「うん。それに私、君のことも好きだよ」
「……え?」
「花びらが散って葉っぱだけになった、春の桜が好き。まるで世界の終わりみたいな、夏の夕焼けが好き。落ち葉で埋もれて見えなくなりそうな、秋の歩道が好き。北風に家路を急かされる、冬の夜が好き。君のことは、その次の次くらいに好き」
僕は彼女にからかわれているのだろうか?
それともこれが、彼女の平常運転なのか?
そのどちらが正解なのかは、僕にはわからなかった。
なぜなら、僕たちは知り合ってからまだ一週間しか経っていないのだ。
「じゃ、そろそろ寮に帰ろっか」
「あ……うん」
こうして僕たちは、黄昏を背にしながら屋上をあとにした。
寮の食堂で夕食を済ませてから風呂に入ると、あっという間に就寝時間になった。
今日という日は本当にいろいろなことがあった。
職員室の電話の向こう側から聞こえたあの声は、僕が知っている誰の声でもなかった。
もっともその、『僕が知っている』という部分は、この学園に在籍しているクラスメイトに教師を含めた三十余人のことで、それ以前に関係のあった人たちの声だった可能性は排除できない。
いずれにせよ、こればかりは誰かに話しても答えが得られるはずもなかった。
音楽室でヒナが弾いていたあの曲も、僕には聞き覚えのないものだった。
だとしたら、あの時に感じた郷愁は、記憶を無くす前にあった出来事に由来しているのかもしれない。
屋上でヒナに、『君のことも好きだよ』と言われた時、僕はその言葉の意味をほとんど理解できなかった。
それは今この時でも同じだった。
ただ、彼女が口にした”好き”は、
その直後に彼女が口にした詩のような言葉にあったように、彼女にとって僕は、花びらが散って葉っぱだけになった春の桜や、落ち葉で埋もれて見えなくなりそうな秋の歩道よりも下位に位置する”好き”なのだろう。
「……」
果たしてそれは”好き”といえるのだろうか?
その答えはここにはなく、彼女の内にある"好き"の概念次第だった。
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