4.制服
ピピピッ ピピピッ ピピピッ
家から持ち込んだ目覚まし時計が真新しい朝の訪れを告げる。
窓に掛けられたカーテンの隙間から侵入した朝日が、床に細長い光の影を落としていた。
部屋のドアを開け廊下に踏み出した途端、昨日はあれほど静かだった寮の中に人の気配を感じた。
廊下の奥からは人が話す声も聞こえてくる。
勇気を出して声が聞こえる方へと足を向けると、そこは寮の食堂だった。
長テーブルとイスが並べられた教室ほどの広さの部屋で、十人以上の男子学生が朝食をとっている。
不思議なのは、その全員がそれぞれに異なった制服を着ていることだった。
食堂の入口で立ち尽くしていると、一番近くの席で食事をとっていた坊主頭の学生が、僕の顔をみて「あれ?」と声を発した。
「もしかして転入生?」
「あ……うん」
「ここ、俺の隣あいてるから座んなよ。飯、持ってきてやるから」
彼はもぐもぐと口を動かしたまま立ち上がった。
僕よりも二十センチ近く大きく、体の厚みも倍近くあるように見えた。
「ほい、おまたせ」
プラスティックのトレイに載せられたトーストとサラダが目の前に置かれる。
「あ……ありがとう」
「俺は
「僕は……杉浦。杉浦圭佑」
「よろしく、杉浦」
そう言って彼が差し出した手はとても大きく、大人の手のように節くれていた。
「こちらこそよろしく」
身長と同じで小さな僕の手は、彼の手の中にすっぽりと埋まってしまった。
その少し厳つい見た目とは違い、小早川はとてもいい人だった。
どうやら彼はこの学園の生徒の中では二番目の古株で、この学園の情報やルールのようなものを幾つか教えてくれた。
生徒は男子と女子が十五人ずつで、その全員が寮に入っていること。
家族への連絡は職員室にある電話からのみ行えること。
授業という授業は行われず、自習に近いかたちでカリキュラムが組まれていること。
そのせいか、教師は五人しかいないこと。
ここにやってきた生徒のほとんどは半年ほどで回復の兆候がみられ、元いた学校に戻っていくこと。
そして、彼は最後にこう言った。
「昨夜は話し掛けても目も合わせてくれなかったから、ちょっと傷ついてたんだ」
「え?」
「食堂で晩飯を食ってる時に、ちょうどさっきと同じ場所に立ってただろ? そんで声を掛けたのに無視してどっかにいっちまったから、俺ってそんなに怖い見た目してんのかなって」
そんなはずなどなかった。
昨日はこの寮の中に人の姿など一人も見かけなかったのだから。
「ん? どうした?」
「……あ、ううん。ごめん、ゆうべはちょっと」
「なんだ?」
「……こわかったから」
「だから傷つくわ!」
小早川は僕が食事を終えるまで待っていてくれた。
空になったトレイを片付けてから食堂をあとにすると、彼と並んで自分の部屋に戻る。
「ところで」
小早川が急に立ち止まる。
「杉浦はこの学園に来る前の、病気になる前の記憶ってどのくらいある?」
「……ないんだ、なにも。名前だって母親や病院の先生がそう呼んでいるから、僕は杉浦圭佑っていうんだな……って」
改めて口に出して、自分という存在の不確かさを思い知らされる。
「そっか。でもまあ」
ちょうど頭ひとつぶん高い場所にある彼の顔に目を向ける。
「……いや、なんでもない。記憶、早く思い出せるといいな」
小早川と別れて部屋に戻り、担任教師が迎えに来てくれるのを待った。
やがてドアが遠慮がちにコンコンコンとノックされる。
顔を出すと、そこには小太りで眉毛の濃い中年男性の姿があった。
「おはようございます。僕は君のクラスの担任の安上です。朝ご飯はしっかり食べましたか?」
人の良さそうな見た目をした安上先生は、そのイメージの通りに丁寧な口調でそう言った。
「それでは教室に行きましょうか」
先生はそう言うと、右手のひらを上に向けて伸ばした。
「先に歩いてください。行き先は後ろから指示するので」
背中越しに出される指示に従って歩くと、すぐに教室のある校舎までやってくることができた。
「まずはみんなの前で自己紹介を――と言いたいところですが、この学園に来る生徒は、君を含めて記憶をほとんど保持していない。なので名前だけで結構です」
安上先生は後ろから僕の肩をポンポンと叩き、入室を促した。
教室の作りは普通の学校と同じように見えた。
ただ、外が晴れているにもかかわらず薄暗く感じた。
教室の外に面したガラスが透明ではなく、曇りガラスだからだろうか。
教室には三十台ほどの机と生徒の姿があった。
食堂では見かけなかった女子生徒たちも、やはりそれぞれ違うデザインの制服を着ていた。
「杉浦圭佑です。よろしくお願いします」
「杉浦君の席はあそこです」と、先生が指差した。
そこは窓際の後ろから二番目の席で、最後尾には見知った顔があった。
着席すると後ろから「ユウ」と呼ばれる。
振り向かずに「圭佑だけど。で、なに?」と尋ねた。
するとすぐに、「また会えたね」と返ってくる。
また会えたもなにも、この学園には一クラスしかないと聞いている。
「うん」とだけ言い彼女の反応を待ってみたが、どうやら今の一言で会話は終了したようだった。
小早川が言っていたように、授業はほとんど自習に近かった。
黒板に書かれた文字や図形をノートに写し取るだけで、先生による解説もなければ生徒からの質問もない。
もっとも、この学園の存在している理由を考えた場合、学業などは二の次なのかもしれない。
一時間目の授業が終わると、何人かのクラスメイトが僕の机までやってきて挨拶をしてくれた。
愛想笑いを浮かべながらしばらく話していると、会話の中心にいた女子生徒が、「杉浦くんが教室に入ってきた時、最初は女の子だと思ったよ」と言った。
すると、彼女の横にいた男子生徒も、「実は俺も思った」と身を乗り出す。
「それってやっぱり、僕の身長が低いから?」
病院で測ってもらったら、同年代の平均身長よりも10センチ近く低いらしかった。
「じゃなくって」
女子生徒は顔の前で手のひらをブンブンと左右に振る。
「顔。女の子みたいで可愛かったから」
「……自分の顔がどんなのだったか、まだ思い出せなくて」
「あっ、そっか……ごめんね。鏡、ないもんね。うちの学園って」
やはり寮だけだけではなく、学園全体でも鏡はないようだった。
もしかしたら、教室のガラスが曇りガラスなのもそのためなのだろうか?
「そう言えばさ」
机のすぐ脇にいた癖っ毛の男子生徒の声に顔を上げる。
「杉浦君、朝は一人で朝飯食べてたっしょ? 明日は俺らのとこにおいでよ」
「え? 今朝は――」
その時ちょうど、二時限目の開始を知らせるチャイムが黒板の上の四角いスピーカーから流れた。
「あ、やば。わたし今日、日直だった。いそいで黒板消さないと」
ショートカットの女子生徒が小走りで去っていくと、他のクラスメイトたちも各々の席へと戻っていった。
午前中の授業が終わると、癖っ毛の男子生徒が再びやってきた。
「お昼は寮の食堂だから、よかったら一緒に行こうよ」
「あ、うん」
一人で行動するのは心細かったので、その誘いは単純にありがたかった。
教室を出て階段を降りている最中、二段先を歩いていた彼が振り返らずに言った。
「そういえばさ、杉浦君のその制服も前の学校のやつなん?」
その言い方から、やはりこの学園の生徒の制服がバラバラなのは、前にいた学校のものだからだということを知ることができた。
「ううん、僕は保健室でこれに着替えろって……」
「へえ。いやね、前にもひとり、杉浦君と同じ制服を着ていた生徒がいたもんで、もしかしたら同じ学校なのかなって」
「……そうなんだ」
その日の夜、僕は夢をみた。
校舎一階の廊下の突き当りにある、左半分が欠けたプレートの掲げられた部屋の扉の中に、小早川がゆっくりと吸い込まれていく。
彼のすぐ後ろに、誰かが立っていたような気がした。
それは大人だったのか。
それとも子供だったのか。
それは男だったのか。
それとも女だったのか。
そもそもそれは、人だったのか。
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