第15話 チアークレグロ

『隼人さーん、最初に二人で演奏しませんか? データは送ってるけど、生で聞いてもらった方が伝わるものはあると思うんで、せっかくですから、今ここでチルカの皆さんに聞いてもらいましょうよ』


 孝哉がブースからこちらへ手を振りながら言う。そのことで、俺はフェーダーをあげっぱなしだった事に気がついた。慌ててそれを下げようとすると仁木さんが間に割って入り、トークバックで孝哉へ「いいですね。ぜひ聴かせていただきたいです」と答えてしまった。


 『是非是非ー』と言ってニコニコと笑っている孝哉を見ながら、俺は内心やりたく無いんだけどな……と、その流れを歓迎しない気持ちになっていた。理由は単純だ。孝哉と二人だけでベストな演奏をしている時の俺を、人に見られるのがただ単に恥ずかしいからだ。


 普通に演奏するのであれば、全く問題は無い。でも、おそらく孝哉は、スタイルをここで披露しようとしているはずだ。それはつまり、俺たちの不自由を補い合って生まれた、あの二人羽織のようなスタイルを披露するという事になる。二人だけでやるならまだしも、チルカの関係者の前であれをやるのは、俺にはやや気恥ずかしいものがあった。


「孝哉、俺は嫌だぞ。あれやるつもりだろ?」


 俺が孝哉へ反論すると、なぜか色田が目を丸くして俺の方を見ていた。隣を見てみると、仁木さんも同じような顔をしている。


『えー、なんでですか? やろうよ、俺たちのベスト。さすがにステージとかでは嫌だけど、ここでならいいじゃない。音を追いかける人たちしかいないんだからさあ。ね、お願い!』


 そう言って手を合わせた孝哉は、まるで小型犬が餌を欲しがっているかのように、うるうるとした瞳を俺の方へと向けている。マイクからは離れているけれども、小さく「お願い、お願い、お願い……」と言っている声がバッチリのってしまっていて、コントロールルームのスタッフが思わず笑みを漏らしていた。


「ハヤト、なんでそんなに嫌がんの? なんか変な格好とかさせられるの? ギター弾くだけなんだろ?」


 耀も純も色田でさえも、俺がただギターを弾くだけのことをなぜそこまで嫌がるのかと訝しんでいた。バックミュージシャンとして依頼を受ければ、どんなに嫌いなジャンルであっても職人のように弾きこなすという評価をもらっている俺が、演りたい相手と演ることを躊躇う理由がわからないのだろう。


「チルカの関係者ばっかりなんだぞ。だらしない顔なんて見せられないだろう?」


 孝哉へそう問いかけると、なんと色田がこちらへと向き直り、ブースとこちらを仕切っているガラスへと張り付きながら「ぜってー笑わねえから、演ってくれよ。孝哉くんとお前がやるベストを、俺も聞きたい!」と、小さな子供のように目を輝かせて懇願してきた。


「は、はあ? まじで言ってんの? 結構衝撃的に恥ずかしいものを見る事になるんだぞ? いいのか?」


 これまでのしがらみも考えずに、珍しく俺の目をまっすぐ見ながら懇願する色田の姿に驚いていると、周囲からの期待の圧力を感じて身が押されるような思いをした。


 仁木さんも、ディレクターさんやアシスタントのスタッフさんでさえ、キラキラと輝く目を俺に向けている。いつも働きすぎて濁った目をしているスタッフさんたちのその目の輝きを見ていると、このまま渋り続けて期待値を上げてしまうのも、後を考えると恐ろしいような気がしてきた。


「わ、わかったよ。じゃあ、latchkeyを作った時のやり方でやるから。……俺があいつを後ろから抱き抱えるみたいにして、二人で弾き語りするから、驚くなよ!」


 そう言い捨ててブースへの扉を開ける。入れ違いに色田は俺の隣をすり抜け、コントロールルームへと向かった。そのすれ違いの刹那、小さな声で「ありがとう」と呟き、耳を真っ赤にして走って出ていった。


 孝哉の存在があるだけで、チルカの蟠りは全て溶けて無くなってしまった。ブース内にある椅子を引きずって来て「やろうよ、隼人さん!」と笑う孝哉を見ていると、胸の中になんとも言えない温もりが灯った。


「……latchkey、結構テンポ速いけどまだ手が温まってないから、抑えめでいいか?」


 そう問いかけながら椅子に座り、右手にギターを持って左の膝を叩いた。孝哉はそれを合図に、まるで飼い犬のように俺の膝の上にストンと収まる。俺は孝哉の体の前にボディを置くと、ストラップを自分の肩から背中へと通した。


 孝哉は右手をホールの上あたりに置き、俺は左手でネックを握る。その俺の手首を孝哉が握力の弱った左手で握った。


「……本当はね、俺も結構恥ずかしいよ。でも、このスタイルが一番俺が生きてる実感があるから。これで歌うと、どこまででも自由に翔ける気がするんだよ。だから、お願い。復活の一発目は、これで演らせて」


 俯いたままそう呟いた孝哉の手は、僅かに揺れていた。


 今の孝哉は、俺と二人でいれば、体の接触がなくても一人ですくっと立って歌うことも出来る。カラオケでは、友人の優太くんと二人で言った場合に限り、一人で立って歌えるとも言っていた。


 でも、今日は全く知らない人たちの前で、どんな反応をされるのかもわからない状態でのパフォーマンスになる。平気そうな顔をしていたけれど、本当はかなり怯えているようだ。


 俺は右手を孝哉の腹に回す。そのままグッと引き寄せるようにして抱きしめた。二人の間にある隙間が、少しでも減っていき、不安が消えてしまうようにと願わずにはいられなかった。


「悪い、そうだよな……。俺はレコーディング自体は何件もやってるけど、お前は今日が正式な復活になるんだ。復帰の最初は怖いよな……。ごめんな、気づいてやれなくて。でも、大丈夫だ。俺がいるから。俺と一緒に奏でるんだぞ、何も怖くねえだろ? まあ、階段から飛び降りることに比べたら、大抵のことはきっと何も怖くないだろうし」


 そう言って、孝哉の首に額を擦り付けた。それに応えるかのように、俺の左手首を握っている孝哉の左手が、触れている箇所を愛おしむかのように優しく擦り上げていく。柔らかく息を吐くと、ほんのりと頬を上気させて笑った。


「うん、そうだよね……。ありがとう。隼人さんの温もりを感じながらなら、きっといい歌が歌えるよ」


 そう言って顔を上げた。


「行けるか?」


「うん、大丈夫」


 そう言って笑った孝哉の顔は、さっきまでよりも僅かに勝ち気な色を纏っていた。


「よし、やるか」


 二人で意識を合わせ、頷きあう。そして、俺はディレクターへ合図を送った。


『クリックでキュー入れるね』


 ディレクターからの「いつものやつ」という言葉に、俺は優しい気持ちに包まれた。


「はい。お願いします」


 そう応えると、機械音の代表であるクリック音が、魂の触れ合いが始まるタイミングのカウントを始めた。


 孝哉が息を吸い込み、右手を振り上げる。俺は左手でコードを押さえた。怪我が治って自由になった両足で、リズムをとりながら孝哉の腹に構えた手でストロークの真似事をする。


 同じ動きを、孝哉は弦の上で再現する。俺の動きを再現して、孝哉は俺の音をかき鳴らしていく。その不思議なスタイルを見ながら、コントロールルームの顔たちが、息を飲む音が聞こえてくるようだった。


 身体中でリズムをとり、俺の左手首でコードを押さえ、右手ではひたすらに音を鳴らす孝哉は、解き放たれた鳥のように自由に声を響かせた。その音の中にあって気持ち良さに浸りながらも、俺はポジションを誤らないようにと必死に孝哉を追いかける。


 ただ、ひたすらに孝哉を自由に泳がせるために、羽ばたかせるために。自由に、澱みなく、綺麗に鳴かせるためだけに。


——ハヤトさんの思いを、チルカのみんなに伝えましょうよ。


 孝哉は、チルカがチアグレのバックを演ってくれるという話になった時に、迷わずこの曲を選んだ。この曲には、こういう歌詞がある。


『本当は弱くて守って欲しいのに、強がっている事なんてみんなわかってる。それでもままならない状況があって、みんなが深い闇へと落ちていった。だけど、きっとまた這い上がれる日はあって、それがまさに今なんだろう。だから、前だけを向いていこう。俺がそれを手伝うから』


 どうしてこの曲を選んだのか、俺はあまりわかっていなかった。でも、その部分を歌った時に、色田の目がキラキラと輝き始めるのが見え始めて、ハッとした。


 孝哉もボーカルとしてフロントに立ち続けた人間だ。色田に対して思うところがあったのだろう。それも、避難するような気持ちではなく、理解して寄り添いたいのだという思いを伝えたいのだというのが、ヒシヒシと伝わって来た。


『進めよう、時を。今ここで、今ここから。本当は欲しいものなんてわかってるだろう? さあ、一緒に。わかる? 一緒だ!』


 高らかに歌い上げたハイトーンに合わせて、孝哉は左手を突き出した。いつもはその手を上へあげ、フェイクと共にどんどん上へ伸びていく。でも今は、コントロールルームにいる色田の方へと向かって、その手をまっすぐ前に伸ばしていた。音が高まれば高まるほどに、腕は前へと進む。


 孝哉の右手が、最後のコードを響かせると、ニヤリと強気な視線を色田へ送った。


 コントロールルームは静まり返っているようで、誰も身動ぎひとつせずに俺たちを見ていた。その姿を見ていた俺たちは、なぜかとても面白くなってしまい、二人で腹を抱えて笑い始めた。


「あははは! みんなどうしたの? 感動してくれたにしては、ポカーンとしてるんだけど。変だった? 俺たち変だったの? 呆れたかな……?」


「そりゃあなあ。こんな抱きついたみたいなスタイルで演られてもなあ。俺もこれを見せられたら、びっくりした空いた口が塞がらないだろうな」


 そう言いながら二人でゲラゲラと笑っていると、トークバックで色田が突然叫び声を上げた。


『なんなんだよお前はっ! 少しは俺のこと、責めたりしろよ! ずっと恨み言ひとつ言わないでさ……。俺、お前に謝りたかった……』


 そう言いながら、色田はボロボロと涙を流し始めた。コントロールルームの耀と純、そして仁木さんやスタッフさんたちが、色田を抱きしめて慰めている。


「……俺は今、幸せに暮らしてるよ、色田。だから、何も気にしないでくれ。あの頃のお前のこと、俺たち誰もわかってあげられなかった。そりゃ、怪我は重いし、そのことは恨んでやるよ。それでいいだろう? もう、水に流そうぜ」


 俺がそう返すと、色田がコントロールルームを飛び出してブースへ走ってきた。わあわあと泣き叫びながら、俺と孝哉へ思い切り抱きついた。


「ハヤトぉー! ごめん、ごめんな! 俺のせいで、お前の目……。俺が幼稚だったから……本当に、ごめんなぁー!」


 声や涙どころか、内臓まで出してしまうんじゃないかと思うくらいに、嗚咽を漏らして色田は崩れた。そこへ、耀と純も駆けつけて、チルカと孝哉は全員抱き合うような形でもみくちゃになっていく。


 泣き叫ぶチルカの三人を見ながら、俺は幸せが体の奥底から湧き上がるような気がした。ずっとこの体を縮こまらせていたものを解放するようなそれに、その幸せに耐えきれなくて、孝哉をぎゅっと抱きしめた。


「嬉しすぎて……怖えな」


 思わずそう呟くと、孝哉は俺の方へと振り返った。そして、俺の唇に自分のそれを軽く当てると、「幸せを喜んでもいいんだよ、隼人」と恥ずかしそうに囁いた。

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