第6話 駆け抜ける

◆◇◆



「そう、だからクライアントからは、その対応がどうしても必要だっていうなら、前もって一通りの流れを説明して欲しいって言われてて……。いや、コード見せろってんじゃなくて、多分その先の対応。だってあの人プログラムわかんねえもん」


 昼前の一番腹が減る時間。大体の人間が、血糖値が下がり始めて集中力が落ちてくる。この時間帯に、リリース間近のシステムにバグがあると連絡を受け、俺は、クライアントへの説明責任を果たす準備に追われていた。


 根っからのプログラマーと、根っからのアナログ人間の間に挟まって、通訳のように立ち回るための準備は、オレの得意分野だ。相手が何を知りたがるのか、どういう例えを用いれば伝わるのか。それを探すことだけが、俺の才能だ。


 その準備がようやく終わりそうになり、空腹でクラクラしているところに、同僚が自分の都合を押し付けて、その全てを無にしようとしている。怒鳴りつけたくなるのを抑えながら、どうにか納得させようとしているところだった。


 遠くの方で、ガチャリと玄関の鍵が開く音が聞こえた。


『立ち会う必要ないんだから、さっさと許可取ってくださいよ。相手の都合なんてどうでもいいじゃないですか』


 後輩プログラマーの石田は、他人が必要としていることであっても、自分がそれを不要だと思う場合、頑としてその必要性を認めない傾向にある。クライアントが必要だと言うことには、出来るだけ応えなければならないと言うことを、コイツに理解させるだけで、一日が終わってしまうこともあるくらいだ。


 こちら側にミスがあって、再度確認を取りたいことがあるから時間を戴こうとしている状態で、クライアントの都合のいい日と石田のスケジュールに都合がつかず、調整が難航していた。


 その状態で、あの言い草だ。そもそもは、石田のチェックミスだ。それにも関わらず、クライアントに日を合わせるように言えと言っている。それを俺の口からクライアントには、言えた話では無い。


「だから、その日はあちらに外せない用事があるんだよ! 最初から提示してあったことだろう? だから、この日には予定を入れなかったんじゃ無いか。そもそも、この工程が発生したのは、お前がミスをしたからなんだぞ。それなのに、お前以外の人間に予定変えろって言ってんのか? しかも相手はクライアントだぞ!?」


『そんなの知りませんよ。あっちの言う日は、俺がイベントに行く予定があるから……』


「……はあ? お前それ本気で言ってる?」


 身勝手な言い分にイラついて、廊下を孝哉が通り過ぎていく音が、いつの間にか消えていることに気がつかなかった。


 石田との電話を終え時計を見ると、玄関の鍵が開く音がしてから、三十分ほど経っていた。技術的なことをわかりやすく説明するのは得意でも、勝手な人間の勝手な論理を覆すのは、骨が折れる。


 深い息を吐き、脱力感に襲われながら、ふと孝哉のことが気になった。


——孝哉、部屋にいるよな……?


 帰ってきたのなら、リビングか隣の親父さんの部屋にいるはずなのに、物音が全くしない。そもそも、今日は一日授業が詰まっている日だからと言っていたはずだ。それなのに、こんなに早い時間に戻ってくるなんて、何かあったに違いない。


——まさか、また何か死にたくなるようなことがあったのか?


 ふとそんな思いが頭を過り、気になった俺は、借りている孝哉のデスクから立ちあがろうとした。しかし、咄嗟に動いたからか、松葉杖を使うということを忘れてしまい、思わず手をついて立ち上がってしまった。


 当然、踏み込んではいけない足を床についてしまいそうになり、直前に気がついてそれは回避した。ただ、その事でバランスを崩し、そのまま倒れ込んでしまった。


「うわっ……!」


 足が絡んだ状態で、椅子を巻き込みながら派手に倒れ込んだ俺は、近くにあるものを薙ぎ倒してしまい、かなりの物音を立てた。その音に驚いた孝哉が、隣の部屋から慌ただしく走って駆けつけてくれた。


「隼人さんっ! どうしたの!?」


「あー、悪い。バカだから、松葉杖使い忘れてさあ……」


 いい年して何をやってるのかと、自分に呆れながら顔を上げ、孝哉へ照れ笑いを向けた。その俺に、「気をつけてよ、リハビリ長くかかると、あとが大変でしょ?」と声をかけてくれた孝哉は、目が真っ赤になっていて、頬に幾筋もの涙の乾いた跡があった。


「お前……それ、どうしたんだ? 泣いてたのか?」


「あ、これ……うん、ちょっとね。あ、もう大丈夫だから。心配しないで。はい、松葉杖」


 そう言って孝哉は、松葉杖を渡しながら、反対の腕で、床に倒れ込んだ俺を抱え上げた。ベッドや椅子から立ち上がるのはそう困ることは無いが、床に座り込んでしまうと、なかなか一人では立てない。


 俺よりも小柄で細身の孝哉に、しがみつくようにして立ち上がった。


「おっも……、もう慌てないようにしてよ。これ結構腰が痛くなる……」


 松葉杖を手にして立ち上がった俺を見て、孝哉は安心したように笑った。その、小首を傾げた拍子に、首にうっすらとあざができているのが見えた。


「孝哉、首どうしたんだ? 打ったのか?」


「え?……いてっ、あ、ほんとだ、打ってるみたい」


「なんだそれ。結構あざ大きいぞ。普通気づくだろ」


「うん……多分、これが出来た時のこと、覚えてないんだと思う。ちょっと過呼吸になったから……」


 孝哉は、そう言って首のあざを抑えたまま、ぎゅっと目を瞑った。


「痛むのか?」と俺が声をかけると、その差し出した手をパシッと払い除けた。そして、「大丈夫、大丈夫だから」と小さな声で呟き始めた。


「おい、どうした?」


 ぶつぶつ何かを呟いていたと思ったら、突然体がぐらりと揺れ始めた。まるで意識を失っているように、体がぐにゃりとコントロールを失っていく。


「孝哉!?」


 倒れ込む孝哉を抱き止めた瞬間、思わず思い切り足をついてしまった。まだ治りきれていない状態で、人を抱えて思い切りついた足は、何かで刺されたかのように、鋭く痛みが走り抜けていった。


「いでっ!」


 その痛みに俺もバランスを崩し、尻餅をつくように床へ落ちてしまった。その時、何かに思い切り手をついた。すると、ベッドサイドに置いてあるスピーカーから、大音量で音楽が流れ始めた。


「うわっ! え、なんかどんどん大きくなってる……あ! リモコン踏んでる!」


 俺の手が弾き飛ばしたリモコンが、孝哉の足の下にまで飛んでいっていた。運悪く、その足はプラスボタンを押し続けているようで、どんどん音量を上げ続けていた。


 まるでライブハウスの中にいるかのように、爆音が鳴り響く室内で、俺は自由に動く足を必死に動かしてリモコンを手元へと手繰り寄せた。


「くっそ、いってえ、腹が攣りそうだ……っし、これでなんとか……」


 そうやって、どうにか手元で音量を下げ始めた時だった。


 何度かマイナスボタンを押し、音量が下がるにつれ、俺の周りに柔らかい音の輪が見えたような気がした。その音の輪は、連動するような光のドームのようなものに包まれていた。


 それはまるで、オーディオビジュアライザーのようで、かすかに聞こえる音に連動して、光が明滅しては形を変えていた。


「なんだこれ……共感覚か? 今までこんなの見たことがないのに、なんで……」


 その元となっている声は、俺の胸の近くから生まれていた。透明感と丸みがあり、それでいて真が太い、不思議な音。それが、俺の体を揺らしていた。


「孝哉……? 歌ってるのか?」


 それは、小さな、小さな声だった。蚊の鳴くような声とは、まさにこれのことだろうと思わせるような、小さな声だ。音量は小さい、それなのに、この爆音のロックの洪水の中でも、しっかりと聞こえる不思議な存在感がある。


 その声に揺らされる俺は、以前孝哉が言っていた言葉を思い出した。


『足の裏から頭の先まで、体の中に金色の泡が駆け抜けていくみたいに』


 きっと、これがそうなのだろう。その声に揺らされる体は、何かに労わられるように、じわじわと幸福感にくすぐられた。


——ヤバイ、なんだこれ。意識が飛びそうだ。


 声が、体を包んでいく。体に溜まっていく高揚感が、じわじわと臨界点を迎えつつあった。それとともに、眠気が侵襲してくる。このまま眠れば、おそらくとても安らげるだろう。でも、孝哉が心配だった。


——どっか行ってしまったら、死んじまうかも知んねえからな。


 俺は孝哉が逃げないように、隣に寝かせてきつく抱きしめた。そうして安心した瞬間、張り詰めていたものがぷつりと切れ、そのまま夢の世界へと落ちていった。

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