第4話 生きてる
トントンと包丁がまな板に触れる軽い音と、そのリズムの軽快さが心地よくて、ふっと目が覚めた。
昨日も遅くまでレコーディングに付き合わされ、帰りは日付が変わる直前になっていた。迎えの車のありがたさに、何度拝み倒しそうになったかわからない。ケガをして大変な思いをしながら生活をしてはいるものの、サポートしてくれている孝哉のおかげで、むしろ快適になったことの方が増えたような気がしていた。
「六時か……」
今日は一日在宅勤務になっている。一件リモートでの打ち合わせがある以外は、仕様書の作成を進めることにしていた。今の会社でSEとして働き始めてから三年経つのだが、今回初めて在宅勤務の選択肢があることを知った。
孝哉が送迎してくれるから、通勤に不便は無いのだけれど、事務所内の人口密度が異様に高いため、人にぶつかる可能性が高い。そうなると治りも遅くなるだろうということで、上司から在宅勤務を提案された。
孝哉の家は、俺の給料じゃ手が届かないような、お高い分譲マンションで、見晴らしがいい場所に立っているからか、通信面でも問題が起きにくい。
ここでなら、ストレスなくリモートでの打ち合わせも出来るかなと思い、その提案に乗らせてもらった。
打ち合わせの資料を読み返しておこうと思い、タブレットに手を伸ばしたところで、ドアがノックされた。乾いているけれどみっしりと詰まった固形物に、薄い皮膜の張り付いた硬質なものがぶつかる音が鳴り響く。
三回鳴らす約束をしたからか、律儀に毎朝コンコンコンとそれは繰り返されていた。孝哉はそういった約束の類を違えることが全くない。生真面目で優しい男だった。
「隼人さん、おはよう。俺、今日一限からだからもうメシ食うけど、一緒に食べる?」
この時間にすでに爽やか好青年として仕上がった顔に、穏やかに微笑みを浮かべながら部屋へと入ってきた。俺は今、孝哉の部屋のベッドを借りている。まだ足をつくことができないため、ベッドの方が困らないだろうと言って貸してくれているのだ。
孝哉自身は、親父さんの部屋で寝ている。俺の世話をすることを決めた時に、孝哉は親父さんにすぐに連絡をしたらしい。その時に、親父さんの方から部屋を使っていいよと言ってくれたのだと聞いている。
退院前に一度電話で話をさせてもらったのだが、とても人当たりが良くて優しい声をした人だった。
「おー、食べる。洗い物はしておくから、おいておけよ」
「別に置いといていいんだけど、それいうと怒るから置いとくよ。はい、これ」
そう言って笑いながら、松葉杖を手渡してくれた。そして、万が一倒れても足をつかずに済むように、すぐ目の前に立って待ってくれている。
「よいしょ」
「……ねえ、あんた本当に二十五なの? すげーおっさんくさい」
「……うるせーよ」
そうやって笑いながら、今日も一日が始まる。
テーブルについて椅子に座ると、ご飯と味噌汁に目玉焼きという孝哉のいつもの朝食が並んでいた。それに自分の欲しいものを選んで追加するというのが、新木家の朝食なんだそうだ。
「いただきます。毎日ありがとうな」
俺が手を合わせながらそういうと、孝哉は口元を隠して後ろを振り返っていた。その方が微かに揺れている。
「え? 俺、今何か変なこと言ったか?」
小鉢の中にころんと転がっていた梅干しを口に放り込んで、俺は聞いた。堪えた笑いはなかなか収まらないらしく、真っ赤な顔をしたまま孝哉はまっすぐ向き直った。
「いや……すっごいナチュラルにお礼とか言うよね、隼人さんって。そういうタイプに見えないんだけど」
箸を持ち、お椀を抱えながら「いただきまーす」と言う孝哉をチラリと覗き見た。まだうっすらと笑みが顔に残っている。
「そうか? ありがとうとか、すみませんとか、言っても別に損しねえことはなんでも言うぞ、俺。挨拶しない、返事しない、でやっていけるような仕事してねーしな。仕事の八割くらいは打ち合わせだから」
「へえ、そうなんだ。もっとコードと睨めっこしてんのかと思ってた」
「それは……」
箸を振りながら話し始めた俺に、すかさず「箸振らないの。行儀悪いよ」とチクリと指摘が入る。
「あ、すみません」と答えると、「本当だ。すぐ謝った」と言って、孝哉は楽しそうに笑った。
「そう、えっと、なんの話だ? あ、コードな。それはプログラマーがやってくれてるから、俺の仕事の範疇じゃないんだよ。他の会社がどうかはわかんねえけど、うちは、SEは打ち合わせして仕様書書いて、クライアントとプログラマーの橋渡しするのが仕事みたいなもんだな。営業とはまた違うんだけど、そんな感じ」
「ふぅん。そんな仕事しながら副業でスタジオミュージシャンか。気を遣ってばっかりで大変だね」と言いながら、孝哉は味噌汁を啜った。
確かに、一日中誰かのサポートをしている生活は、精神的にきつい部分が多い。だから時々、外階段でタバコを燻らせながら、どこかへ逃げ出したくなることもある。でも、現実的にそれは不可能だから、趣味で音楽をやることもやめていない。
俺が幸せを感じられる時間は、自分の体から解放された音が鳴り響いて、その音が満ちた場所にいられる時間だけだから。
「まあな。でも、下手は下手なりにギターが弾ける環境があれば、俺は幸せでいられるからな。ここも、お前が弾き語りしてた部屋があるだろ? あれが使えるだけで、全然違うよ」
この家には、友人の少ない孝哉が唯一笑顔になれることだからと言って、思う存分弾き語りを出来るようにと、親父さんが買った防音室が設置してある部屋がある。
学校でいじめられてケガをして帰ってきた日に、突然それが家に設置してあったのを見た孝哉は、傷をほったらかしたまま数時間そこで歌い続けたという思い出があるそうだ。
「せっかくだし、ここにいる間は使ってやってね。俺はもう必要ないから……」
そう言った孝哉の目の奥に、あの日と同じ色が、じわりと滲み出てくるような感じがした。それが広がれば、孝哉はまた消えてしまおうとするかも知れない。
こんなに美味そうに朝食を食っていても、次の瞬間には散歩するようにいなくなってしまうかも知れない。そんな儚さが孝哉にはついてまわっている。
一緒に暮らしていても、それが消える気配が一向に見えず、時折俺の胃のあたりがズキンと痛んだ。
「でも、弾けないだけなんだよな?」
俺の問いかけに、孝哉は「え?」と目を丸くした。「そうだけど、弾けないと歌うだけじゃちょっと……」そう言いながら、俯いてしまう。
長いまつ毛に覆われて、その世界は半分見えなくなっている。弾けなくなったら、歌えないわけじゃない。弾いてくれる人を探せばいいだけだ。そして、それをする努力は、今の孝哉には必要ない。
「じゃあ、俺が弾けばいいだろう?」
目の前に、ギターを弾くしか楽しみがない男がいるのだから。
「え?」
「俺が弾けば、お前は歌えるんじゃないか?」
それでも、言われている意味が理解できないと言った顔で、孝哉はひたすらに困惑していた。無意識に腕の傷をさすりながら、何かを考え込んでいる。
「でも……誰かの演奏で歌うと、俺、色々と不都合が起きるんだ……」
しばらく傷を触っていた手は、僅かに震え始めていた。何かに怯え、必死になって自分を守ろうとしている。あっという間に、その目の中には、あのドロリとした色がへばりつくようになっていた
「そこになんか問題があるんだな。そんなにいい声してるのに、バンドとかやってないなんてなんでだろうって思ってたんだ」
「うん……。いつも誘われるんだけど、必ずバンド崩壊させるんだよ、俺。だから、もう誰ともやらないことにしたんだ。それで弾き語り始めて、それで十分幸せだったんだけど……最後にどうしても俺じゃないとって言われて、参加したバンドで……」
孝哉は握り込んだ左手に、右手の爪が食い込んでいることにも気がつけないくらいに、怯えて震え始めた。俺は、別に孝哉の詳しい事情を聞きたいわけではない。
でも、こいつを唯一幸せに出来るものを奪われたままにはしたくないと思っていた。
握り込んでいる右手の指を、一本一本ほどきながら、なるべく優しい音になるように心がけながら、孝哉に声をかけ続けた。
「それはバンドメンバーみんながアーティスト気質だったからじゃないか? まあ、他にも理由があったとしても、そこにいた全員の意思が絡まってしまった結果だよな、きっと。でも、俺は大丈夫だ。俺には、表現したいものは何もない。ただ、音の中にいたいだけだから」
誰かと共に音を鳴らすことに、相当な恐怖があるのか、孝哉は涙を流していた。いつの間にか震えは全身に周り、ガタガタと震えている。
「お、音の中にいたいだけ? 言いなりになってでも、弾ければいいってこと?」
「そう。だって、それがスタジオミュージシャンに求められることだからな。たまに自分らしく弾いて欲しいって言われることもあるけど、その時はお断りする。そうなると、日中の仕事に差し支えるくらい悩むからな。だから」
俺は孝哉の頬を、両手で挟み込んだ。パンっと肌が当たる衝撃で生まれた音に、孝哉は目を丸く見開いた。その顔は、目が覚めるほど美しい顔の中に、色の違う魅力を浮き立たせた。
「お前の歌の邪魔をしないように弾いてやるよ」
食卓の向こう側で、孝哉は俯いたままになった。しばらくそうしていたかと思うと、ポロポロと涙の粒を落とし始めた。
「歌ってるとさ……」
泣きながら話し始めたからか、声は揺れていた。ただ、嗚咽を漏らし始めてもなお、その声はまだ美しい。
「いいところから声が出せて、いい高さに当てられて、いいタイミングで始末ができて、いい色が出せた時に……うまくいくと、身体中の肌が泡立つんだよ。足の裏から頭の先まで、体の中に金色の泡が駆け抜けていくみたいにね。俺はそれが大好きなんだ。でも、もう二度と経験できないかと思ってたんだ。だから……」
そう言って、泣き濡れた顔をぱっとこちらへ向けた。その顔はぐしゃぐしゃで、いつもの人形のような美しさとはかけ離れていた。そこにいたのは、きちんと血の通った、二十歳の青年そのものだった。
「俺、また生きてるって思える時が来るんだね」
そうやってみっともないところを曝け出せるようになった関係性が、俺の胸の中に小さく灯りを灯した。俺は孝哉の腕の傷に手を乗せて、真っ直ぐになきぬれた目を見つめた。
「思わせてやるよ。必ず」
孝哉は、何度か俺の言葉に小さく頷くと、そのままテーブルに突っ伏して大声をあげて泣き始めた。
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