第2話 柵を越える

「お兄さんの左手、右手に比べて指が仲悪そうだから」


 少年はそう言って、俺の左手を指差した。そして、比較対象になるようにと自分の左手を差し出すと、薬指と小指を曲げて見せた。


 弦楽器を弾く人間は、より良い響きを実現するために、連動しやすい薬指と小指が独立して動くようになるためのトレーニングをすることが多い。


 それをしていない人が見るとよくわかるらしいのだが、人と話す時に手癖のようにその動きをする時があるのだそうだ。


 それこそ、指が仲違いしているように見えなくもない。面白い表現をするやつだなと思った。


「この手癖の話か? よく知ってんな。お前もギター弾くのか?」


 ビルの8階の外階段、その踊り場の柵の外側にいる人間とは思えないほど、穏やかな表情で笑う少年は、やや長めの美しい黒髪を耳にかけながら微笑んた。


「ううん。俺楽器全くダメなんだ。ホラ、これ見てよ」


 少年は、差し出した左手の指よりもっと体に近い方、手首から上の部分へと視線を動かすように言う。


「ん? なんだこれ、手術の痕か?」


 そこには、左手首から肘にかけて、長く太い瘢痕があった。

 

 それは日常生活で偶然に出来るようなものではなく、明らかに特殊な状況下で鋭利な刃物で切って出来た傷痕だった。


 楽器をやっていると、たまに手術が必要になるくらいに腕を痛めるやつがいる。俺はやったことがないから詳しくはわからないが、そういった類の痕なのかと軽く考えてしまった。


「違うよ。これ、ケガの痕。縫ったから治療の痕でもあるけどね。左の小指のところに力が入りにくくなってて、そのせいで握力が子供並みに低いんだよ。だから楽器できないんだ。全く出来ないわけじゃないけれど、すぐ痛くなるからやめちゃった」


 よくよく話を聞くと、そのケガをするまでは、ギターで弾き語りをするのが趣味だったらしい。あまり友人のいない少年には、音楽を楽しむ時間だけが、唯一安らげる時だったそうだ。


 それを聞いて、少年の声がやたらにいい響きをしていることにようやく納得できた。これは、ただの話し声ではなく、発声を意識したことのある人間の声だ。


 それも、いい音を鳴らしたことがあるだけでなく、自分の思いをそれに乗せて送り出したことのある声。思いがあって、息を吸い込んで、それを体に満たしていく。


 僅かな音を作り出し、それを増幅させるために体を揺らし、共鳴させて、自分の意思で外へと送り出されて出来た声だ。


 そしてそれを、意のままに操れるくらいに研鑽を積んでいたことのある人間だけが出せるものだ。


——俺のギターに足りないって言われてたものが、こいつの声の中にはあるんだな。


 ほんの少しだけ、胸がちくりと傷んだ。それを振り払うかのように、少年のことへ話を戻した。


「弾き語りか。でもただ歌ってただけでそんなにいい声になれるか? ボイトレでも受けたことがあるのか? 聞き取りやすくていい響きしてるよな、お前の声」


 すると、少年は俺の問いに、悲しそうに微笑んだ。何故かはわからないけれど、それは訊いてはいけないことだったらしい。


 ふと、少年が今しがた死のうとしていたのだということを思い出した。


 このわずかな会話の中で、妙な親近感を覚えてしまった俺は、落ちていく少年を頭に描いてしまって震えた。


 その時、柵の上をふわりと風が通り抜けていった。湿度が低く、軽い空気の移動が起きただけにも関わらず、俺は少年がふっと消えてしまうんじゃないかと思ってしまった。


 そして、衝動的に柵の向こうにある腕を、がっしりと掴んでしまった。なぜか、強烈にそうしなくてはならないという思いに駆られた。


 突然体に触れられたからか、少年は体を強張らせた。そして、口を引き結んだまま俺の手を振り解こうとしてしまった。


「わあっ……」


「あぶねっ……!」


 こんな危うい場所でバランスを崩せば、落ちることは目に見えている。もちろん、俺はそんなことはこれっぽっちも望んでいない。そもそも、目の前で人が飛び降りるのを見たくなくて話しかけていたんだ。


 そうやって、たくさん心の中で言い訳をしながら、俺は少年を柵のこちら側へと引き摺り込んだ。


「ちょっと……!」


 少年は思い切りバランスを崩し、柵のこちら側へと落ちてきた。俺は腕を怪我するわけにはいかず、そのまま少年の体を体当たりで受け止めた。


 ドスンと落ちてきた少年は、落ちると同時に、思い切り俺の脛の骨を砕いた。


「ぐあっ……!」


「ぎゃー! 何今の!? 折れた!? 大丈夫!? どうしよう! きゅ、救急車……!」


 古いビルの外階段の踊り場。八階の鉄柵の中で、救急車を呼ぶために、少年は俺の名前を聞いた。


「ねえ、名前なんていうの?」


「……ま、真島隼人まじまはやと


「年齢は?」


「……二十五」


「えっ!? そんな若いの? ……老けてるね。住所は?」


「ぷっ……」


「な、何笑ってんの!? 聞かれるじゃん、救急車呼ぶと」


 少年の冷静な対応ぶりに、俺は可笑しくなって思わず吹き出してしまった。笑うと足に振動が伝わる。その度に小さく呻きながら、死ぬほどの絶望感が消えていくきっかけの小ささに、笑いが止まら無くなっていた。


「お前……それが今死のうとしてた人間のとる行動かよ。すげーテキパキ動くじゃねーか」


 痛みを堪えながらもゲラゲラと笑う俺を見て、少年はハッと目を見開いた。そう言われて、ようやく自分のしていることにようやく気がついたらしい。それでも冷静に緊急電話を最後まで終え、通話を終了すると俺をキッと睨みつけた。


「仕方ないだろ! ボキッて折れた時、俺にも衝撃が伝わったんだよ。生々しくて、大変だって思って、死ぬとか考える余裕も無くなったんだよ!」


 その抜けるような肌と妖艶な顔の少年は、丸い響きの声で怒鳴り声を上げた。


 ただ、その姿は数分前の青白い顔とは異なって、ほんのりと上気している。それは、明らかに生きる気力を取り戻した顔だった。


 俺は少年の頬を指で擦った。その顔をよく見たくなり、長い前髪をかきあげた。


「すげーキレーな顔してんだな、お前。あ、お前も名前教えてくれよ。付き添いしてくれるんだろ? 救急車」


 少年は、大きくて長いまつ毛に縁取られたその目を、一杯に見開いてい何かに驚いていた。俺には少年が何に驚いているのかがわからず、「どうした?」と尋ねると、「あ、なんでもない」と目を逸らされる。


「おい、名前……」


新木孝哉にいぎたかや


 目を逸らしたまま小さく名前を呟くと、孝哉はそのまま押し黙ってしまった。


 ちょうどその頃、赤色灯を照らして救急車が到着した。常にサイレンの鳴り響く街中に、もう一台増えたところで、それがここに向かうものだとは思いもせず、踊り場に救急隊員がたどり着いたことでようやくそれに気がついた。


「来たよ、隼人さん」


 孝哉はそういうと、今度は俺の荷物の心配をし始めた。スタジオのスタッフからそれを受け取ってくると言って、走っていく。


「骨と引き換えの人命救助だな」


 そう口に出した途端、また可笑しくなってしまい、俺は笑いをこぼした。

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