第42話 最終話

ずっと海の近くで暮らしていると時間帯によって風の動きが変わるのがわかる。


初夏の夕暮れ港の近くにある公会堂の庭園から海を眺めた。


僕は平民になり、領地の端の、この港近くの町で教師をしている。


領地に足を運んだことは数回しかなかった。この町の人たちは、僕が公爵だったなんて誰も知らない。


すべてを自分でする。まさに洗濯から食事の用意まで。

なかなか苦労したが、できなくても自分が困るだけで、誰にも迷惑はかけない。

その点、気持ちは楽だった。


子供たちは自分の興味のある事には熱心に学ぶ姿勢を向けるが、その他には、てんで学ぶ意欲を見せない。


それでも将来なにかの役に立つ事が必ずあるから、学ぶことは大切だと日々熱心に彼らに説いている。


ここは、外国からの貿易船も出入りする港だ。外国語が飛び交う事も日常だ。港で働く民たちは言葉のやり取りに皆苦労している。


子供の頃から他言語を学べば、必ず役に立つだろう。スポンジのように吸収できる時期の脳を利用し、多くの知識を習得してほしい。


生徒を送り出し、そろそろ中に戻ろうとした時、見覚えのある一人の女性が僕の方へ歩いてきた。


彼女は日傘をさして顔が隠れているが、姿勢や歩き方から見知った女性だと思った。


何処で会おうと、何を着ていようと、その優美で清潔な雰囲気は彼女が誰なのかを

特定してしまう。生まれながらに持っている特別で彼女独特のものだろう。





「風がないから、少し蒸し暑く感じるわ。陽はもう傾きかけているのにね」


そう言うと、彼女は僕の側で日傘を折りたたむ。

所作が綺麗だ。



「昼間は陸の方が暖かい。上昇気流で風が空へと昇っていく。代わりに海の方から冷たい風が吹いてくる。夜はその逆で冷えた陸の風が温かい海の方へと流れるんだ」


僕は挨拶をせずに、何故か海風、陸風の話をしてしまう。


「そうなのね。今は風を感じないけど」


変わらぬ彼女の姿に、全てに必死だった頃の自分を思い出した。

かなり久しぶりだ。もう二年は経っているだろう。



「一時だけ、風が吹かない時間帯があって、それが凪だ。夕方一時的に風が吹きやんだ状態の事なんだけど。この状態の事を夕凪というんだ」


よく動く僕の舌に驚いたように彼女が、ふふ、と笑う。


「そう……ならば、今はその夕凪の時間なのね」


ああ。と頷いた。



自分は今、凪の状態で変化のない日常を繰り返している。


あの時は何もかも自分で背負い込んで、ちゃんとやらなくてはならないと必死だった。


けど、できなかった。


そんな才覚は僕にはなかった。


空回りして何が重要なのかも見失って、結果大事な物を全て失った。


そして大切な人は出ていってしまった。





「アイリス……すまなかった」



謝罪の言葉くらいでは足りないだろう。

けれど、彼女に直接会う事ができたなら、ちゃんと伝えなければならない言葉だった。









「謝罪は、慰謝料と丁寧なお手紙で受け取ったわ」


「……ああ」



考えてみれば今の自分は彼女と言葉を交わせる身分ではない。

できるだけきちんと見えるようにシャツとスラックスは清潔にしているけど、服装も平民のそれだ。



「情けないわ……」



え、と、いや……

そんな言葉が彼女の口から出るなんて思ってなかった。


確かに情けないけど、それを言うために彼女はわざわざここまで来たのだろうか?

面食らってぽかんとしてしまった。



「貴方は、本当に駄目な旦那様だった。やる事全てが悪い方向へ進んでいって、何故そうするのと不思議でならなかった。いろんな事情があったのだろうけど、簡単に人を信用して騙されて、本当に情けなくって。忙しくて他の事にまで気が回らなかったのは分かるけどそれは言い訳でしかない。単純で真面目で純粋で、人を疑わない性格が悪い方へ作用しているのに気づかないし。逆に清々しいくらいだったわ」


辛らつだな。

散々皆から言われたから、免疫はあるけどアイリスから直接聞くと、なかなかの破壊力だ。


「えっ……と……」



どう返せばいいのだろう。

なにかを言えば保身にしかならない。正論を突き付けられているのは分かるし。

……文句を言いに来たのだろうか。


僕からの言葉の謝罪を、直接聞きたいわけでもなさそうだし。

なんとも返答に困り、考える。






「だから、私がいなくては駄目だと思うの」



「……え?」



思いもよらない言葉に不意を突かれる。


それは……どういう意味だろう。



アイリスは僕と離婚した後、王宮で一年ほど働いていたと聞いている。

表には顔を出さないが陰のオブザーバーとして、会議の「観察者、傍聴者、立会人、第三者」の立場にいると旧友に聞いていた。


彼女は有能だった。多分裏でアドバイザー的な役割を担っていたのだろう。

そのうち良縁に恵まれて幸せな人生を歩むと思っていたし、心からそう願っていた。


その相手はムンババ大使だろうとも思っていた。



「僕は……いや、私は……っていうか。どういう意味だろう?」


率直に訊ねた。


アイリスは僕の方を見ずに答えた。



「私は、自分でもどうしてなのか分からないけど、貴方を放っておけないの」


「放っておけない?」



彼女はそうだと頷くと歩き出した。



「まず、話をしましょう」


僕は何が何だかわからず、彼女の後を追う。



薄暗くなった町の中から海へ向かって風が吹いていく。



ずっと止まったままだった。凪の状態だった自分。


陸から吹く風の流れが、ゆっくりと僕の背中を押した。





                完

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