第16話 猫好きの人間にむかって 猫嫌いが猫好きのふりをすることは難しい*

 入口に戻ってくると、最初に地面に放置した方位磁石と持ち歩いていた方位磁石を並べて確認した。

 ダンジョン内で方位磁石は感覚的には一応機能していたように思う。

 地面に放置した方位磁石と持ち歩いていた方位磁石の磁針は目視だと差異がないようにみえる。一緒に放置していた腕時計も公社製の腕時計と比べたが狂ってはいなかった。まぁ一時間程度で狂うようでは話にならないが、これは継続検証していこうと思う。設置していたランプと安物腕時計も回収し、俺はダンジョンからベランダへ移動した。


 部屋の中に入ると、下着を除いて着て歩いたものは全て脱ぎ室内着に着替える。汗で頭皮にへばりついた髪を両手でわしゃわしゃとかきまわしながら洗面所にむかい、洗顔とウガイをすます。そしてローテンションから外した使い古しのタオルとサークレットを持って、自分の部屋に入った。

 習慣的にTVをつけ、机の前の椅子ゲーミングチェアに座る。

 最初に拡大鏡ルーペでサークレットを丹念に眺める。傷や文字・図形の類は見当たらない。


 拡大鏡ルーペを使い古しのタオルと持ち替えた時、つけっ放しのTVから公共放送が変な事を言いだした。


「湖の水の突き抜けた青さは酸素濃度が低いからです」


 ……またか。この公共放送。何年か前にも、番組中で何と比較しているのかを言わずに「花崗岩は非常に脆い」と1年間ほど、複数の番組それぞれで言い続けていた前科がある。俺がネットの某掲示板にその間違いを指摘した書き込みを行うと、今度は一転して「花崗岩は非常に硬い」と、「花崗岩は硬い」を繰り返して強調することを暫くの間続けていたが、又やらかしている。

 もちろん俺が無知なだけで、レイリー散乱** や水分子による波長の長い光の吸収率と酸素濃度の低さは直結しているとの説明が可能なのかもしれないが、凍る前の表層の水が青さを増すのは、もっとも重い4℃の水が水底なので、表層・中層からプランクトンが最も水温の温かい下層に移動していなくなることで水の透過度が上がり、水分子が波長の長い赤を吸収するからだと文系脳の俺は思っている。公共放送側は自分達が言いたいことはその事であり違いはないと強弁するかもしれないが、番組を見た視聴者の大半はそんな強弁まで深読みできないだろう。

 不愉快になった俺は左手にサークレットを持ったまま、右手のタオルをTVのリモコンに持ち替えてチャンネルをかえた。


 民放では半世紀ぐらい前の古い米映画を放送していたので、リモコンから手を放しタオルに手をのばした。


 その手が止まる。


 情景描写から俳優の大写しになり俳優が話し出す。英語の台詞が英語のままで何故か理解できた。


 しばらくTV画面を凝視した後、俺は立ちあがると本棚から超円高時に書店であまりの安さに衝動買いした洋書を手に取る。余談だが、このシリーズ。和訳本も出ているが値段が高すぎて新刊での購入をあきらめた。その内古本で一冊3・4000円になったら買おうと思っていたのだが、定価より安い中古本には一度もお目にかかれなかったという哀しい思い出のあるシリーズ本の原書だ。


 英語が母語であるかのように読める。


 次に『群書類従』を手に取った。うん。分からん。サークレットが魔道具なのかどうかはともかく、普段読んでいる時との差は感じなかった。

 ちなみに『群書類従』はハナワ保己一ホキイチが編纂した江戸時代の本だが、ハナワ保己一ホキイチが今日の原稿用紙の雛型をつくったことは、知っている人だけが知っているトリビア。

 ヘレン・ケラーは子供の頃に母親から「ハナワ保己一ホキイチのような人になれ」と言われ続けたそうだが、このエピソードが本当なのかどうかは俺には分からない。ケネディが尊敬した上杉鷹山ヨウザンというエピソード*** と同じ匂いがする。


 ネットで仏と独の新聞社のサイトもみたが、謎の文字列が並んでいるだけで、左手にもったサークレットは何の仕事もしてくれなかった。無駄だと言われている日本の英語教育も、このサークレットがあれば役に立ったということか。






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* ロバート・A・ハインライン『夏への扉』早川文庫 1979


** 散乱の強さは、波長が短い青ほど大きく、 長い赤は相対的に小さくなります(青は赤の10倍散乱)。


*** 昔のPHP社等のビジネスマン向けの雑誌では、来日前に日本人記者と会見したケネディ大統領が「上杉鷹山を尊敬している」と答えたと見てきたような話しを紹介していましたが、ケネディが大統領として訪日したという事実はなく、いつの頃からか時期不明の会見ということで一人歩きしました。ケネディの娘までもがいつのまにかこのデマを事実だと信じているのは御愛嬌。

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