第8話 胸の内(※三人称)

 温泉は、気持ち良かった。掛け湯の時点で「気持ち良い」と思ったし、肩まで浸かった時には「この世の天国」と思った。こんなに気持ち良い湯なら、ずっと浸かっていたい。露天風呂から眺める星空も、氷の欠片を散りばめたようで、その一つ一つに感銘を受けてしまった。


 菫は穏やかな顔で、その星々を眺めた。星の形や温度は分からなくても、それが伝える空気は分かる。人間の命、世界の息吹は分かる。それが人の、命の本質である事も。彼女は嬉しげな顔で、星々の光を眺めつづけた。「幸せ」

 

 それ以上でも、それ以下でもなく。今の状況が、本当に「幸せだ」と思った。こんな幸せがずっと続くなら、この命が消えても構わない。自分がもし、「死んでしまった」としても。自分以外の人間が、「これ」を味わえれば良い。妖狐によって壊された世界だが、それがもし収まったなら、「そう言う世界も良い」と思った。


 彼女はそんな世界が訪れる事、世界の平穏が戻った世界を思って、お湯の中から出ようとしたが……。「あっ」

 

 思わぬ侵入者が一人、浴室の中から入ってきた。同室の流人に拒まれたのか、想良が不機嫌な顔で温泉の中に入ってきたのである。想良は菫の姿を見つけると、彼女の顔をしばらく見ていたが、彼女が自分に頭を下げたところで、自分の体に掛け湯をし、相手の顔をもう一度見て、温泉の中に入った。「んっ、ふう」

 

 気持ち良い。そう言って、菫の顔に目をやった。菫の顔は、彼女の顔に怯えている。「ごめんね? あたしが入ってきて、気分が悪いでしょう?」

 

 菫は、その質問に驚いた。驚いたが、すぐに「大丈夫です!」と言った。彼女の事は怖いが、別に嫌いなわけではない。自分の隣に入っても、それに驚くだけで、別に苛立ったりはしなかった。


 菫は相手の「ううん?」に首を振って、その目から視線を逸らした。「身分がその、全然違うので。『失礼な事は、言えない』と思い」

 

 そう言ったが、反応はイマイチだった。自分の事をじっと見る目も変わらない。敵意があるのか分からない目で見ている。菫はその視線に怯えて、お湯の中から出ようとした。「ご、ごめんなさい! すぐに出ますので!」

 

 想良は、その言葉を無視した。ばかりでなく、彼女の手を「ガシッ」と掴んでしまった。想良はお湯の中に菫を戻して、その目をじっと見返した。

 

 想良は、その言葉を無視した。ばかりでなく、彼女の手を「ガシッ」と掴んでしまった。想良はお湯の中に菫を戻して、その目をじっと見返した。


「ごめん、なさい。さっきは……その、嫌な思いをさせて」


「へあ?」


 そう、思わず返した。てっきり「怒られる」と思ったが、どうやら「ごめん」と謝りたいらしい。菫がそれに戸惑っている愛でも、彼女に「申し訳ない」と謝っていた。菫は彼女の気持ちを宥めて、彼女に「頭を上げて下さい」と言った。「貴女は、何も。何か謝る事があるのですか?」


 そう聞いたが、返事は来ない。自分の顔をチラチラと見るだけで、詳しい答えは返ってこなかった。菫は相手の態度に首を傾げたものの、「これは、聞いてはダメだ」と思って、彼女にまた「ごめんなさい」と謝った。「余計な事を言いました」

 

 想良はまた、彼女の言葉に首を振った。相手が悪くないのは、充分に分かっている。相手に「ごめんなさい」と謝り、お湯の水面に目を落とした態度からは、彼女の後悔(と言うよりも、葛藤?)が感じられた。彼女は「クスッ」と笑って、菫の顔にまた向きなおった。「こう言うの、初めてだからさ? 人を好きになるの」

 

 だから、焦った。思わぬ好敵手(かも知れない)の登場に「不味い」と思ったらしい。実際は、菫にそんな気持ちはないが。自分と同じ、あるいは、それ以上に可愛い同性を見ると、その不安をどうしても思ってしまった。浮島天皇には「敵わない」としても、それ以外の相手には決して負けたくない。想良はそんな気持ちで、相手に自分の気持ちを言った。恐らくは実らない、自分の初恋を。


「最初は、『良い感じの子だな』って感じだったけど。それがだんだん、いつの間にか好き、そう言う気持ちになっていて。彼の声を聞くと、ドキドキする。彼に守られたり、気遣われたりすると、それにも胸が高鳴って。本当は、今夜」

 

 。それを今夜、「作ろう」としたらしい。身分の違いはあるものの、自分の婿に彼を選んで、その家に「迎えよう」と思った。彼が自分の家に入れば、その血筋も守られる。武士との繋がりも得られて、公武共に「安定を得られる」と思ったらしかったが。現実は、そんなに甘くない。彼が(恋愛に興味が無いのか)自身の役目以外に興味がないせいで、そう言う感情は芽生えないようだった。浮島天皇への忠誠心以外。


「彼は、自分の力に悩んでいた。弟よりも劣る自分に、武士の嫡男として情けない自分に。彼は誰よりも真っ直ぐでありながら、自分の非力に嘆いていたの。本当は朝廷の、御上の力になりたかったのに。彼は戦いの神と合わさった事で、その任を果たそうとしている」

 

 だから、余計な事を考えない。人への気遣いや思いやりはあるが、破廉恥には興味ない。想良が勇気を出したとしても、年相応の反応を見せるだけで、最後の一線は決して越えようとしなかった。「それがまあ、不満なんだけど」


 想良はそう言って、自分の頬を掻いた。友人と恋愛話に盛り上がる、少女のように。「彼はきっと、御上を愛している。本人に自覚は、無いかもだけど。彼は主従の関係を超えた、『敬愛』って言うのかな? 御上に対して、それを抱いている。あたしが見ている限りじゃ」


 そう、らしい。流人からは聞いたわけではないが、自分よりも付き合いが長い想良の話では、そう言う事らしかった。彼には、彼の思い人が居る。その人と結ばれるかは別にして、大事に思う人は居るらしかった。


 菫は、その話にうなずいた。うなずいた上で、妙な感覚を覚えた。彼の言葉を受けて「戦おう」と思った自分、その根幹にある気持ちが何かを感じたのかも知れない。想良が「困ったね」と笑う前で、自分も「そうですね?」と笑い返した。


 菫はお湯の水面に目を落として、自分の手を組んだ。「わたくしは、武士ですから。まずは、自分の役目を果たす。妖狐を討って、国を治める。自分の色恋を考えるのは、それからにしようと思います」


 想良は不思議な顔で、その返事に微笑んだ。まるで、隣の少女を慈しむように。「真面目だね、菫ちゃんは」


 菫は、それに目を見開いた。相手の身分を考えれば、呼び捨てが正しいのに。相手は自分の名前に「ちゃん」を付けて、ある種の愛情を見せていた。菫は、それに戸惑った。戸惑ったが、悪い気はしなかった。


 相手の年齢を考えても、ある意味で友達のような関係。身分が同じなら、一緒に笑い合っている関係である。自分についてきてくれた、あの少女達と同じような。その感覚が、菫には嬉しかった。彼女は今の感覚に微笑んで、隣の少女に頭を下げた。


「わたくしは、朝廷の駒です。御上に仕える、一人の駒。貴女や公方様にも仕える、一人の武士です」


「つまりは、『あたしの従者でもある』って事?」


「そうです」


 即答だった。自分でも「え?」と驚く程に。


「わたくしの命は、皆様の物。御上に仕える皆様の物です。わたくし一人だけの物ではなく。わたくしは、自分は身命を賭して」


「堅苦しい」


「え?」


「そこまで堅くならなくて良いよ? あたしだって、朝廷の駒だし。立場の上では、貴女と同じだから。そんなに畏まらなくても良い」


「で、でも……」


 やはり怖い。相手に対する非礼は、武士としても恥ずべき事だった。「相手の許しがあるから」と言って、すぐに砕けられるわけがない。「それは、追い追いに」と応えるしかなかった。菫は穏やかな気持ちで、頭上の空を見上げた。頭上の空にはまだ、美しい星が光っている。「それまで生き抜きましょう、お互いに」


 想良も、その言葉にうなずいた。今の言葉を噛みしめるように。相手の目を見ては、相手と一緒に笑い合ったのである。彼女は嬉しい気持ちで、菫の顔を見つづけた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る