第5話 ホシノメ(2)

「いいお師匠さんだったんだね」

「え?」

「今とても優しい顔をしていたよ」

 

 話している最中、自分がどんな顔をしていたのかと顔をもにゅもにゅと揉むがすっかりアルルカの表情は戻っていた。

 トラトスは温めたホットワインを2人に配る。

 

「いつもより長めに温めておいたから、このホットワインなら君たちでも飲めるだろう?」

 

 成人をしていないアルルカとエレインはアルコールは飲めないが、ホットワインなど熱してアルコールを飛ばした酒ならば飲むことが許されている。

 2人はありがたくそれを受け取ると、ふわりとスパイスの香りが鼻に届く。

 

「……君たちは銀の牡鹿を見たことはあるかい?」

 

 ホットワインで暖をとっていると、ふとトラトスがそう言葉を零した。

 

「銀の牡鹿……ですか?」

「誰に話しても信じてもらえることはなかった。自分でさえもあれは幻だったのではないかと疑ったこともある。けれど、確かにあの時私は見たのだ」

 

 数十年前。研究者としてまだ駆け出しだったトラストは周囲の言葉を無視してまだ未開の地であった森に足を踏み入れた。

 リチェルカなどという胡散臭いものなどに任せてはおけない。我々こそが自ら先陣を切って解明していくことこそが至高であると若かったトラストは思っていた。

 その考えを後押しするようにトラストはなんの危機もなく森の中へと進むことが出来た。なんだ、やはりリチェルカなんてものは必要ない。獣避けをしておけばただの研究者にだって探索することは可能なのだ。そう思った。

 目立つ危機のないまま不自然なまでに静かな森を進んでく。

 

 「何もなかったか……。これだけ深い森なら新種の植物や動物も居そうなものだが」

 

 トラストはすでに暗くなった森で一夜を過ごすことにした。虫除けを炊き、なんの音もしない森ではすぐに眠ることが出来た。

 ざわざわと何かの蠢く声。キーンと甲高い耳鳴りのような音。カサカサと葉の摺れる音。そうした一つ一つは気にならないような音が合わさり、どんどん大きな音となってトラストの耳に届く。

 ハッと目を覚ますと音は全て消えており、やはり森は静かであった。

 背中には汗がべったりと張り付いている。流石に嫌な予感がしてトラストは急いで荷物をまとめた。

 暗い森の中を何十分、何時間歩いたか。

 

「なんで、……なんで明るくならない……!?」

 

 空は木々覆われているわけでもなく、ただ太陽も月も星すらもない暗い暗い空が広がっていた。

 持ち込んだ時計は時を刻まず、方位磁針はぐるぐると回り続けていた。

 まるで同じところを何度も繰り返し歩いているような気がした。確かに来た道を目印を頼りに歩いていたはずなのに。

 トラストはいきなり身体がぐらつき体勢を崩す。足はもつれそのまま地面へと倒れる。視界がゆらゆらと揺れ平衡感覚を失っていた。

 倒れた時に打ち付けたのか頭と腕がじくじくと痛み、頭から流れた血が目に入る。

 ああ、自分はここで死ぬのだとトラストは思った。

 静かだった森は一変し色々な音が反響しトラストへと襲いかかる。

 

 何か大きな動物の足音が聞こえた。

 その足音がトラストへ近づくと騒がしい音は遠ざかっていく。

 段々と平衡感覚が戻ってきたのか揺らいでいた視界が定まっていく。ぼやけた片目で見たのはそれは美しい銀の角を持った大きな牡鹿だった。

 銀の牡鹿はまるで牛のごとく大きく、角は月のように輝いていた。神々しいその姿に見蕩れていると、体の痛みが消えていた。

 トラストは立ち上がり、こちらを見つめる銀の牡鹿に夢見心地でふらふらとついて行く。瞬きをひとつすると目の前に銀の牡鹿はおらず、森の入口にトラストは立っていた。

 

 朝焼けの空を見てやっと現実に帰り、森から急いで離れた。家族にも友人にも研究者仲間にも信じてもらうことは出来なかったこの出来事を何十年も経った今でもトラストは覚えている。

 もう一度会いたいとあの森に近づくも中に入る勇気はトラストにはなく、あの時以降二度と森の中に入ることはなかった。

 

「リチェルカならば、あの森に入ることが出来るのではないかとリチェルカを目指そうと思ったこともある。しかし私には向いてはいなかった。未知に踏み入れる恐怖に打ち勝つことがどうしても出来なかった」

 

 エレインは自分はその恐怖に打ち勝つことが出来るのだろうかと考えた。旅に出てから幸運なことに危ない目にあったことはない。アルルカと一緒に行動するようになってからは恐らく、アルルカが安全な道を選んでくれていることもあり平穏に旅を続けられている。

 トラストの若気の至りで行動した後悔の話はエレインに自分もただその時の感情で動いているのではないかと問われているようだった。

 

「銀の牡鹿……」

「アルルカくん、君、目が……」

 

 アルルカの目はまるで星空のように輝いていた。

 

「ホシノメ……。アルルカくん、君は星の子だったのか」

「この目のことをそう呼ぶのですか?」

 

 アルルカの目を驚きながら見るトラストは自分の目のことを知らなかったアルルカにまた驚く。

 

「私も詳しくはないが……君のように、感情が高ぶると瞳が星のように煌めくものを星の子と呼ぶと研究者だったころの室長が言っていた。長いこと生きていて出会ったのは初めてだ」

 

 銀の牡鹿の話を聞いて、アルルカは確かにこの目で見てみたいと森の全容も分からないその場所を訪れたいと強く思った。そして、目には星が昇りホシノメと呼ばれる瞳が顕現していた。

 

「星の子はリチェルカの中に特に現れるという。星の子に出会ったという者は皆、星の子はリチェルカだったと話していた。まさか、本当だったとは」

「星の子、というものは何か目以外に特徴が?」

 

 アルルカの質問にトラストは首を横に振る。

 

「何か特別な能力があるというようなことを聞いたことは無い。美しいホシノメと呼ばれる目を持つとしか情報はない」

 

 アルルカ自身、自分に特別な力があるとは感じていなかった。自分よりも優れた人間をアルルカはよく見ていた。

 

「その美しい瞳がすでに特別だと私は思うがね」

「それでも目は目です。特別視力が優れているわけではない」

 

 アルルカがそう言うとトラストは笑った。

 美しいもの、未知なるものを探索するリチェルカだというのに自分の持つものにはとんと興味が無いというアルルカがとても素直に思えたのだ。

 アルルカとトラストが話す傍らでエレインはぼうっとアルルカの瞳に見蕩れていた。

 

「私、やっぱりリチェルカになりたいです」

 

 旅をしなければこの美しい人と出会うこともなかった。きっともっとこの先には美しいものが、見たこともないものがたくさんある。たとえ命の危険があるとしてもそれを知りたいとエレインは強く思った。

 

「よければお二人の話をもっと聞かせてもらえませんか?」

 

 エレインのその提案に、アルルカとトラストは答えるべく、これまでの旅の話をホットワインが冷めるまで語っていく。

 話を聞くエレインの目はホシノメと同じくらい輝いていた。

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