1部2章 イツミ川、バラバラで赤 3

 水の臭いがしてきた。

 少し前から聞こえていた水流の音も、今ではもう随分と大きい。

 木々の合間に、細かな煌めきが見える。

 そっちに向かって進み、開けた空間に抜けるというところで、ネルが足を止めた。


「おぉっと⁉」

「きゃあ」

 まさかここで止まると思っていなくて、カノジョのすぐ後ろをカノジョと同じように屈んだ体勢で走っていたオレは、止まることができずにお尻に顔からぶつかってしまった。

「ちょっとぉ?」

 一歩離れ、ズボンの上からお尻を押さえて振り返ったネルが睨んでくる。

「ごめんごめん。急に止まると思わなかった」

 素直に謝る。オレが悪いのは間違いないから。ぶつかった箇所がお尻かは関係ない。

「川に何かあるなら、大人たちがいるかもしれないんだから、慎重にならなきゃでしょ」

「そうだな」

 ネルが、傍の木に身を隠し、川のほうへと向き直る。

 オレも右隣の幹に、同じように身を潜めた。


「……いない、かしら」

「……そう、っぽいな」

 川は、ここからでは、いつも通りに見える。ざあざあと音を発してはいても、穏やかな流れだ。水面は陽光を満遍なく反射している。何か起きているとは思えない。

 そんな川沿いには、見える範囲で、大人は一人もいなかった。

「……話し声とか足音とか、聞こえないわよね?」

「……ああ。聞こえない」

 耳を澄ませるが、人間が発していると思うような音はしない。

 せせらぎ。葉擦れ。鳥や蟲の鳴き声や羽音くらいだ。

「……行くわよ」

「……おう。お前に合わせる」

 頷いた、ネル。


 カノジョに合わせて、オレも動き出した。

 木々の間を抜け、川沿いの開けた空間に出る。

 揃ってキョロキョロと辺りを窺う。

 人影はやはりなかった。

「……誰もいないわね」

「……そうだな」

 オレとネルは並んで、誰の気配も感じないとしても、そろりと忍び足で川へと近づいていく。爪先をぐっと差し出せば水面に触れられそうなほどのところで止まる。


 水面に異変はない。透き通っていて、水底の様子も窺える。様々な大きさの魚たちが泳いでいたり、水草がそよいでいたり。いつもと変わったところなんて、わからない。

「……何よ。何も起きてないじゃない」

「……上流のほうなのかな。もしくは、もっと下流の、海に近いほうなのか」

 ここは、どちらかと言えば、下流のほうだ。

 上流……北門に近い側で、何か問題が発生しているのかもしれない。

「ん~……じゃあ、どっち、行く?」

「どっちって?」

「上流か下流かに決まってるでしょ?」


 とりあえず様子は見に来れた。

 それで達成感を得られたし引き返そう、とはなっていないようだ。

 当然か。

 むしろ中途半端すぎてモヤモヤしているだろう。

 ……オレも、まあ、そんな気分ではある。

 クソ。

 無理矢理にでも引き返すべきなんだろうが。

 ……ごめんなさい、グレンさん。

 自分がいかにガキなのか、思い知られた気分。

 興味には、好奇心には、抗えないときがある。


「上流のほうにしよう」

 オレは考えて、せめて安全なほうを選ぶことにした。

 仮にここから下流に進んでしまうと、どんどん町から遠ざかっていくことになる。もし本当に何か危険なことが待っていたとき、町まで逃げることに時間がかかってしまう。

 一方、上流のほうに進むことは、むしろ町へと近づいていくことになる。とくに北門との距離は縮まっていく。こちらのほうが安全だろう。

 多分……。

「ん。じゃあ、行くわよ。慎重にね」

「はいよ」


               ※


 慎重にね。そう言った張本人は、今や鼻歌なんて奏でながら、途中で拾った棒でパシャンピシャンと水面を叩いている。飽きてきているのだ。

 オレもその気持ち、わからなくない。

 上流へと歩き始めて、体感、十分ほど。

 のどかすぎた。そよ風や日なたが心地よくて、眠気までぶり返すくらいに。

 これでは、遊びに来たのと変わらない。いや、釣りをしたり、石投げをしたり、川中鬼ごっこをしたりするぶん、いつもやっていた遊びのほうが緊張感があるくらいだ。

 これは、どうしたものか……。


「なあ」

「んあ?」

 前を歩くネルは、顔ですら振り返らずに、のんびりした返事をした。

「どうするよ」

「どうするって?」

「もう戻るかってことぉ」

「は? 戻るわけないでしょ、って言いたいところだけど……う~ん……」

 唸るネル。カノジョが棒で叩いて、パシャンポシャンと上がる水しぶき。

 オレは言葉を続けず、決断を待つ。

「……もうちょっと!」

「……あいよ」

 もうちょっととは、どれくらいか。

 多分、本当に、ちょっとだろう。

 それくらい、カノジョからは飽きが伝わってくるから。


               ※


「「ん?」」

 オレたちの声が、どちらかが合図したわけでもないのに、重なった。

 お互いに、その異変が目に付いたからだ。

 見つけることが困難な変化ではない。

 川さえ視界に収めていれば、容易く気付けるものだから。


「何? あれ」

 足を止めたネル。

 声には強い疑念。

 それくらいの大きな変化。

「わからないけど、普通じゃねぇよな」

 カノジョのすぐ隣で、オレも足を止めた。

 先ほどまで暢気すぎて弛緩していた全身がピリピリしている。


 真っ赤な水が流れてきた。

 上流のほうから、どんどんと。

 見たことのない光景だ。

 赤く、赤く、赤く、染まっていく。

 やがて――オレたちのいるところまで、その赤は流れてきた。


「うえっ」

 ネルが嫌そうな声を上げ、棒を持っていないほうの手で顔の下半分を覆った。

 オレも、声は上げなかったが、同じようにする。

 臭い。

 なんだ、この臭い。

 でも、知らない臭気ではない。嗅いだことは、多分、ある。


「……これ、血、じゃない?」

 ネルの言葉に、オレはハッとする。

 そうだ! 血だ!

 でも、だったら……。

「なんでこんな、大量の血が」

 川を染めるほどの血液だなんて異常だ。

「知らないわよ、そんなの」

 少し震えているネルの声。

 恐怖が芽生えたのかもしれない。


「それにこれ、なんの血なんだよ」

 オレの発言を受けて、ネルが一歩、川から離れた。

 オレを見る大きな目はギョッと見開かれていて、日に焼けた頬は引き攣っている。

「なんのって、は? アンタ何言ってんの。魚とか、野生の獣とか、でしょ?」

 そうじゃなかったら何よ。

 ネルの強張った表情が、そう訴えている。

 だから。

「だよな、うん」

 思っていないことを言った。

 カノジョの心を乱したくなくて。

 でも本心では、違うと思っている。

 魚や獣ではない、と。

 でも……じゃあ何か。

 そこは、わからないけれど。

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