第一章 喧嘩法師⑤

 はっきりとしない意識の中で、弦楽器の音色が星七せなの耳を打つ。

 琴か琵琶か、何の楽器かはわからない。

 しかしその音色は心地よく、疲労の沼に沈み込んだ星七の意識を優しく持ち上げた。

 一音一音の余韻が和音を生み、繊細な響きを奏でる。

 ふと思い出したのは、琴を爪弾く母の姿だった。

 幼いころの母は城中に侍る妃の中で最も美しいと評判だった。

 光の当たり具合で深緑に見える不思議な色の髪に透き通った白い肌。

 思慮深く聡明で、侍従達にも優しく、何より気高かった。

 そんな母が奏でる琴は、いつも不思議な旋律を奏でた。

 何がどう不思議かは具体的には分からない。

 だけど、宴席などで聞く大和由来の音楽とは、どこか違う気がした。

 聞きなれない旋律だけど妙に心地よく、聞く者を安らかにした。

 母はその調べのことを「潮彩しおさい」と呼んでいた。

 母の故郷で神事の際に奏でられた曲なのだと。

 その話をするときの母は、どこか寂しそうだったのを覚えている。


 てん、てん、とん、ほろろん……


 弦楽の響きが耳を打つ。


 てん、てん、ほろん、ほろろろん……


 複数の弦が弾かれ、先ほどの優しさから少しずつ軽やかな調子に曲調が変わっていく。


 ほろろん、ほろろん――べべんべんべべん!


 軽やかな調子から一変、急に力いっぱい弾かれた弦の音に、星七の意識は無理やり現に呼び戻された。


 べべべん!べべべん!べべべべべべべん!

 キャリキャリキャリキャリギュゥーーーーーン!

 ジャガジャンジャンジャジャン!


「な、なななななにぃ!?」

 どのような弾き方をすればそんな音が出るのか。

 もはや弦楽とは呼べない不可思議な音に、星七はたまらず跳び起きた。

「おう、おはようさん。ちゅうても、まだ真夜中やねんけどな」

 障子戸の向こうから景虎かげとらがひょいと首を出す。

 その手には少し大きめの琵琶が抱えられていた。どうやら奇怪な音楽の発信源はこれのようだ。

「え、あぁ。おはようござ……」

 挨拶に答えようと体を向けかけて、星七は凍り付いた。

 裸である。

 下は着けていたが、上半身は一糸まとわぬ姿で育ち始めた小さな膨らみが露わとなっていた。

 慌ててそれまで被っていた布を引っ掴んで羽織る。それは景虎が身に着けていた白虎の外套だった。

「あぁ、ずぶ濡れやったから服は乾かしといたで。ほれ、そこの囲炉裏んとこ。もうそろそろ、ホカホカになっとるやろ」

「ありがとう、ございます……」

 自分のあられもない姿を見ておいて悪びれた様子一つ見せない景虎を憮然と睨み、星七は自分の上着に袖を通した。

 彼の言う通り、上着はとても温かかった。

 火の近くで寝ていたとはいえ雨と汗で冷えた体にじんわりと熱が通っていく。

 あれからどれだけの時間が経ったのかはわからない。

 だが少なくとも、囲炉裏に火をつけ意識を失った自分を介抱し、夜の番をしてくれていたのはこの男に他ならない。

「……なにをしていたのですか?」

 気を取り直して星七は尋ねた。

 景虎はニッと笑い、

「ほれ、見てみい」

 その指で斜め上を示した。

 部屋を出て彼の示した先に目を向けると、満天の星空にうっすらと白い半月が冴え冴えと輝いていた。

「お月さんが綺麗やったもんでな、ちょっと弾きたくなってん」

 そう言って景虎はほろろんと琵琶を爪弾いた。

 撥を使っていないのに、その音色は夜空に伸びていくようによく響いた。

「あの曲はどちらで? その、今まで聞いたことがない調べだなぁと思って……」

 かなりオブラートに包んだ言い方で星七は尋ねた。

 その質問に景虎は目を輝かせ、

「よぉ聞いてくれた! これな、ワイの独創やねん」

 そう言ってまた先ほどの調子でべべべべべん! と琵琶を弾きだした。

「あ、わ、わかりました。すごいですね、何というか……先鋭的で。今度ゆっくり聞かせてください」

 ベロベロと絃をかき鳴らす景虎を制して、星七は本題を切り出すことにした。

「まずはお詫びを。貴殿を謀り呼び付けた無礼、お許しくださいませ」

 居住まいを正し、手をついて深々と頭を垂れる。

 彼に会うために虚偽の果たし状をばら撒いた事に対する謝罪だった。

「あぁ、ええよ。けっきょく喧嘩できたわけやし。なかなかおもろかったで」

 手癖で絃を爪弾きながら景虎が答えた。

「で? 大上んトコのお姫さんが、何でそないしてまでワイに会いたかったんや?」

「ぜひ、貴方様のお力をお借りしたく」

「ワイの?」

「はい、私と共にこの国の大名――〝玄龍帝〟大上克龍おおかみのかつりゅうを打倒して頂きたいのです」

 ここでようやく、景虎の顔が星七へと向けられた。

「……マジで言うとるんか?」

「はい」

 景虎の問いに星七は首肯した。

「お前さんの親父とちゃうんかい?」

「はい。ですが、これ以上父を好き勝手にさせるわけには参りません。この世から戦を失くすために。景虎様だって、この国の現状をご存知でしょう?」

「そらぁ、まぁな」

 大和三大国が一にして、東最大の領土を誇る玄明はるあき

 北に広がる玄海を背負い、大陸からの渡来人を迎える大和の玄関口としての一面も持つ。

 城下に広がる港町は天皇がおわす都もかくやと言わせんばかりに煌びやかで〝現世のすべてが宇賀に集まる〟と謳われるほどである。

 しかし、絢爛豪華で美しいのは城下と都を結ぶ交易路とその交易街だけで、それ以外の村々は常態的に飢餓と疫病が蔓延している。

 田畑は荒れ果て、あちこちに屍が転がり、みな死人のような虚ろな目をして辛うじて今日を生きている。今日を生き抜いたとて、明日生きている保証がない。

 そんな地獄が煌びやかな街の外では横行しているのだ。

 金が巡るところが富んでいくのは世の常である。しかし、この国のそれは少々度が過ぎている。

 このような事態を引き起こしている元凶――それは、

「この国全土を襲う異常気象。これが、民を苦しめている元凶です」

 神妙な面持ちで星七は告げた。

 景虎は黙ったまま二の句を促す。

「民を襲う飢饉と疫病は、この国全土で慢性的に起こっている異常気象が原因です。あるところでは一月も雨が続き、またあるところでは一滴も雨が降らず。毎年同じ状態だったらば、対策の立てようもありましょう。しかし、日照り、大雨、冷夏……それぞれの異常気象がいつやってくるともしれない環境で、対策が立てられるはずもない。対策ができぬから稲や野菜などの植物は皆育たず枯れ果ててしまう。植物が育たなければ家畜も育たないし織物もできない。貧困と極端に変わる天候で民はどんどん衰弱していく。弱れば病に冒されやすくなる。……すべてはこの国全土を襲っている異常気象が原因なのです」

「〝邪龍の呪い〟っちゅーやつやな」

 民の間で噂される言葉を、景虎は零した。

 星七もこくりと頷く。

 玄明の興りは、大上克龍が邪龍スサガラノミコトを倒したことから始まる。

 だから大上克龍が治めるこの国を邪龍が恨まないはずがない。

 そのような安直な推測から生まれた、ただの噂話だ。

 しかし、

「あながち的外れな話でもないのです」

 真剣な面持ちで星七は続けた。

「父――大上克龍が屠ったと言われるスサガラノミコト。伝承では邪龍とされていますが、本当は違うのです。大和の地の水と風を司る神、それがスサガラノミコトの真の役目なのです」

 スサガラノミコト――大津波を起こし、川を氾濫させ、大嵐を呼び、東の民を苦しめてきた邪龍と呼ばれし存在。

 漆黒の鱗に天を覆うほど巨大な出で立ちをした龍で、その鳴き声は雷鳴のごとく大地を震撼させたという。

 大上克龍と謁見するために設けられた宇賀城の大広間、通称〝玄龍の間〟には、来訪者を睨むスサガラノミコトの絵が天井いっぱいに描かれている。

「つまりは、その水神様を殺してもうたから、ここいらの天候バランスが崩れてもうたっちゅーことか? でもそれこそ、克龍倒したかてどうしようもない話とちゃうん? スサガラノミコトを蘇らせん限り、現状なんも変わらんやろ」

「景虎様、龍は死にません」

 母から〝絶対口にしてはいけない〟と言い含められていた言葉を、星七は口にした。

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