ぷつりと力の抜けた汞の手から、心臓を納めた容器が放たれる。それはまるで航空機のように宙を駆け、一挙に禊の炎が届かぬところまで飛び去って――しまうことはなかった。

 ガツンと鈍い衝撃音と共に、汞は奇妙な感覚を覚える。

 ――切り離されていない。己の意識は切り離したはずの心臓にはなく、未だヒトの姿をした水銀の内に在る。

 これは一体どういうことだ? 刹那の内に答えを見出すことはできなかったが、目を開けた彼女は、否応なくその現実に気付かされた。

「なっ……」

 汞は、己が卵型の空間に閉じ込められていることを理解する。

「一体何が……まさかっ⁉」

 橘に斯様な力はない。少なくとも、過去戦って敗れた際には、斯様な力は見せなかった。となれば自然、隣の男が何かしでかしたものと見るのが自然だろう。

 まずはこの殻を破り、外の状況を把握せねばならない。当然橘は外で待ち構えているだろうから、相応の対策を練り上げた上で……

「――なにぼけっとしてんの。あんたの敵は此処なんだけど」

 しかし彼女の足元には、そこにいるはずのない存在がいた。

「まさか……私ごと⁉」

「そ。一番完璧なのは、わたしごと閉じ込めてあんたを燃やすことだから!」

 ――あの小僧、私を橘ごと閉じ込めたのか!

 汞の顔に、それまで一度も見せなかった感情が浮かび上がる。

 それは恐怖。存在を消されることへの夥しい恐怖の波が、彼女の胸の内に押し寄せる。

 その表情を確認した禊は「だから言ったでしょ」とでも言いたげに歯を浮かべて嗤う。

「じゃあね。痛いの一発喰らって……反省しなさいっ!」

 至近距離で振り抜かれる灼熱の刃。己の存在が塵へ化してゆく感覚を覚えながら、汞は己の不用心を恥じ入るしかなかった。

 ◇

『泰山峭勁』――先日異形に反撃された際にも用いた結界だが、これは術者のみを守護する性質のものではない。敵を捕縛する檻としての役割も果たすのだ。

 禊と汞を密閉された空間に押し込み、退路を断った上で焼き焦がす。禊が己の炎に傷付く様子を見せないことから編み出した策だ。

 さて、禊はうまくやれただろうか。今になって考えれば、ひどく無責任な策であった気がしてならない。何せ敵だけでなく、禊自身の退路も存在しないのだから。

 狭い結界の中で、汞の妨害から身を守ることは可能なのだろうか。それを知るのは、閉じ込められた当人ただ二人だけである。

「頼む、死ぬなよ……!」

 遙か頭上に浮かぶ、夜闇より黒い卵型の結界。奏彌は固唾を飲んで見守り、思わず両手を合わせて祈る。

 禊は奏彌の策を信じた。他人を疑うことすら知らぬかのように、死と隣り合わせの突撃を進んで行った。言わば彼女は、彼に命を預けたのだ。

 己の提案した策であるにも拘らず、奏彌は禊に強い疑念を抱く。昨日出会ったばかりの奏彌に、それだけの価値を見出したというのか?

 そして同時に、強く禊の無事を願う。この戦いが済んだ後、心の底から謝意を示すために。

 ――そして、彼の祈りは天に届いた。結界に細い亀裂が走り、その直後に爆発が一つ。内部から迸る炎は一つの火球と化し、夜闇を激しく照らし出す。

 砕けた結界の欠片が硝子のように舞い、星のように煌めいて四散する。それは奏彌にも等しく降り注ぎ、思わず彼が顔を覆った瞬間……

「おまたせ、奏彌! みんなの敵、確かに取ってやったよ!」

 消えゆく火球の中心から、人影が一つ飛び出してきた。純白の髪、白磁の如く艶やかな肌。橙の瞳を輝かせたその少女は、真っ黒に焼け焦げた日本刀を手にしていた。

 今更見紛うはずもない。禊だった。

 禊は数秒落下した後、さながら猫のような身軽さで石畳の上に着地する。

 そのまま奏彌の元に駆け寄ると、やや困惑気味の奏彌の胸に目掛けて飛び込んだ。

「ありがと、奏彌。君と一緒なら、どんな奴でも勝てる気がする!」

「ほらわかったから離れろって……あ、あっ……あづ……ッ!」

 怪異を憎悪し、怪異を殺すことに心血を注ぐ奏彌だが、しかし彼も年頃の男児である。

 そういった事情で頬を紅潮させる奏彌だが、それだけではない。むしろこちらの方が奏彌にとっては重大で、禊の身体はまるで焼けた鉄のように熱かったのだ。

「ごめんね、そうだった……!」

 苦悶の表情を浮かべる奏彌を見上げた禊は、その手を放して背後に飛び退く。密閉されて逃げ場のない空間で、石すら溶かす高熱を放ったのだ。ある意味では当然のことだろう。

「……熱いの忘れてた。大丈夫?」

「お前は大丈夫なのかよ……痛っ」

 事が終われば官憲の出番だ。後始末を『局』の者たちに任せ、二人は現場を後にする。

「済まない。もっとマシな手段があったかもしれないのに、お前を進んで危険に晒した」

「謝らないで。本気出すって大見得切っておきながら、どうしていいかわからなかった……そんなわたしが嫌になるから」

「なら、せめて礼を言わせてくれ。お前が僕を信じてくれたから勝てたんだ」

「そんなの違う。ほんとだったら、わたしが一人でやらなきゃいけないことなのに……」

 禊は奏彌から目を逸らす。助力そのものが後ろめたいものであるかのような口振りだ。

 昨日も聞いた台詞。どうも禊は、血筋によって課せられた使命を、奏彌が考える以上に重いものと見ているようだ。

 それ故否定したところで、禊の意思が変わるとも思えない。奏彌は口を噤み、黙って禊の隣を歩く。

 沈んだ表情を浮かべる禊の横顔は、相も変わらず不自然なほどに美しい。単に均整が取れているだけではない。ヒトの意識の奥底に働きかける、奇妙な魔力を帯びているようにすら感じられる。彫刻が命を得たといったほうが、まだ説得力があるかもしれないほどだ。

 ――まあ。十六年生きていれば、そんな奴と出会うことだってあるかもしれないか。

 そう己を納得させ、奏彌は再び前を向く。ひどく稚拙な窮余の策ではあったが、ともかく勝ちは勝ちである。多くの死者を生み出したこの日の事案は、かくて終了と相成った。

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